仕事が軌道に乗り始めた頃、自分たちを取り巻く環境は著しく変わった。
 だからこそ事務所から引っ越しの打診をされたこと自体は納得がいっていて、新しい家は二人で決めるものだと思い込んでいた。
 今までのボロアパートの家賃に比べれば引越し先に使える予算は十分過ぎるほどで、時間をかけて二人暮らし用の賃貸を探していた。
 それなのに、モモは笑顔で言い放ったのだ。
「オレ、一人暮らしするの初めて!」
 それからはもう、類を見ないほどの大喧嘩だった。
 また一緒に住むんじゃないのか、なんでだよ折角広く使えるのに、モモは僕と一緒にいたくないの、そうじゃなくて個人スタジオあったほうがいいでしょ、ああでもない、こうでもない……。
 結局おかりんや凛太郎からの説得や叱咤もあり、再同棲の道は潰えた。文句なんていくらでも並べられたが、モモの頑なさに何か理由があるような気がして、最終的には僕が折れる形となった。
 何故一緒に住みたくないのかと訊いても、曖昧な笑みで誤魔化される。確答を避けるやり方に、単純に悲しくなった。
 モモは僕が好きで、僕はモモが好きなのに。こんな態度を取られたら、流石に自信がなくなる。

 モモとセックスをするようになって、心も体も驚くほど満たされるようになった。
 一度体を繋げてしまえば、自然と〝そういう〟流れになる。その度、飽きもせず抱き合っていた。
 そのくせ「一緒には住めない」と言ってくるのだから、全く理解外だ。実は異星人なんです、と告白してくれたなら、まだ納得出来た。
 こんな時、万が居てくれたら相談に乗らせるのに。肝心なところで居ないんだから、と独りごちる。
 なあ万。モモ、僕のことが好きなわけじゃないのかもしれない。なのにセックスはしたいんだって。そんなことあるかな。こんな面倒そうな僕を相手にしてまで、そんなことする必要、ある?
 ――いや。
 あんなに清潔で綺麗な心を持った人間が、わざわざそんな爛れた関係を、Re:valeの相方となる僕に望む方が考え辛かった。
 で、あるなら。やっぱりモモは、僕が好きであるはずなのだ。同棲出来ない別の理由があるのだとしたら、いつかちゃんと教えて欲しいと願うことしか出来なかった。

 僕が犯した過ちに対して、モモは健気すぎるほどだった。もっと責めてくれればいいのに、無理に向き合いすぎた結果の「ユキさんになら抱かれてもいい」という結論。あの時は、唐突な上に極端すぎて、うまい言葉が返せなかった。
 考えれば考えるほど、いい子すぎて心配になる。きっと僕が相手でなくたって、同じようなクズ人間に対して、同じような結論を出してしまう子だ。
 そう考えると恐ろしく、「いつか身を滅ぼすよ」と釘を刺す意味でキスをするフリをしたのだ。拒否されて、やっぱりね、と安堵すら覚えた。
 それなのに。
 何かに追われているかのような、強く僕を求める目。プレゼントなんて名目を使ってでなきゃ、さみしさを訴えることすら出来なかったのかと驚く。
 僕を助けたいと思うのと同時に、自分も助けられたいと願っていたのなら。それは、ちゃんとすくい取ってあげるべきだと思った。
 始まりは少し歪な形をしていたかもしれない。けれど、二回目に抱いた時には、もうモモへのこの気持ちがなんなのか、確信していた。
 モモがさみしくないように、僕が癒やしてあげたいと思う。泣いてほしくないし、優しくしたいし、もっと触れたいし、触れられたい。それが叶えられている事実が、たまらなく嬉しい。
 それって、好きってことだろう。
 そうしてモモのさみしさを埋めていくうちに、僕の空虚もすっかり鳴りを潜め――……
 そこには、愛だけが残った。

   *

「すみません、あとお一人だけまだ見つからずで……。多分結婚か何かで地方を転々としているんだとは思うんですが」
 広い額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら――四十代後半だろうか――よれたスーツの男性が口早に伝えてくる。空調が壊れているらしく、事務所はじっとりとした熱が籠もっていた。
 知人に紹介してもらった探偵事務所は、新宿の雑居ビルの四階に位置していた。曇った窓ガラスからは歌舞伎町が一望出来、夜になると治安は最悪を極めた。
 近くに用があったついでに進捗を聞きに訪れたのもあって、アポなしの来訪に事務所代表は酷く動揺していた。
 万の捜索依頼を出してからすでに一年半が経とうとしているが、未だ成果は得られていない。〝もうひとつの依頼〟も、最後の人物の行方を追い始めてから半年が経過していた。
 依頼を打ち切ることも何度か考えたが、バンドメンバーを替え続けて万に諭されたこと、モモから人間関係の大切さを説かれ続けていたことで、結局同じ探偵を雇い続けている。
 そもそも、事務所代表含めて全従業員約三名ということで、圧倒的に人手が足りないのだ。それは依頼の時点で重々承知していた。
「万もその子も、五周年のコンサートにまでは必ず見つけたい。金が必要ならもっと払うし、それで新しい人雇ってもらってもいいから、頼むよ」
「はい、はい……不甲斐ないばかりで……申し訳ありません……」
 小さく縮こまってしまった代表を見て、またやってしまったよ眉をへの字にした。
 僕は昔から、話し相手を怖がらせやすいのだ。こういう時、外交官であるモモが隣に居てくれたらと思わないでもないが――結局モモ頼りになってしまう未来が見えるので、今は孤軍奮闘している。
 着手金の支払い以降は成功報酬制となっているため、事務所の経営もなかなか厳しそうだ。依頼中に廃業になったりしないように、もうひとつの案件では通常単価の倍の成功報酬を支払った。当然のことながら、全てポケットマネーから出している。
「そのあと一人が、絶対会わなきゃいけない人なんだよね」
 それは誰に問いかけたわけでもない独り言だった。代表は責められたと勘違いしたのか、ぶわわと大量の汗を吹き出した。
「も、申し訳ありません……!!」
「あ、ごめんごめん。違うから」
 いい加減緊張させすぎて倒れられたらコトなので、すすけたソファから立ち上がる。
「その箱、お土産。近場で買ったものだけど、冷凍すればシャーベットになるゼリーだって。みんなで食べてね」
「あ、ありがとうございます…! いつもすみません…」
「謝ってばっかりだな。じゃあ、引き続きよろしくお願いします」
「はい、申し訳ないです……」
「はは」

 見送られながら事務所を出て、駅には向かわずタクシーを拾う。変装無しではもうその辺を出歩けなくなってしまったことが、煩わしくも有り難かった。
 何より、タクシー代は経費で落ちるし、炎天下をうろうろしなくて済む。貧乏時代はそうもいかず、熱中症で倒れることも少なくなかった。その度、モモがおぶって帰ってくれたっけ。
 何もかも、モモのお陰だ。Re:valeの売り方を考え、完璧なセルフプロデュースで自身を売り込み、僕の名前まで一緒に売ってくれた。その代わり僕はモモが望む通りに動いたし、やれることはなんでもやった。モモは時々申し訳なさそうにしていたけれど、僕としては空き時間に楽曲制作が出来ているので、文句はひとつもなかった。
 モモと組むことが出来てよかったと思うと同時に、モモをもっとスターダムに乗せてやりたいとも思う。Re:valeを、トップアイドルに。そう願い始めたのは、最近の話ではない。
 だからこそ万にちゃんと話し、ケジメをつけたかった。「モモとやっていくことにした」と報告し、万が何を言おうとも受け止める。けれど、新しいRe:valeとして歩んでいくことを、決して止めたりしないと勝手に誓っていた。それはきっと、モモも同じ気持ちだ。
 だからこそ、あと一人。見つけ出して、ケジメを付けたい人間がいる。
 スマホを取り出して、ラビチャの検索窓に名前を入力した。検索結果は0。既に何百回と試しているこれは、意味のない反復行為だった。
 プライベート用のスマホには昔のIDが入っているものの、登録人数は数人しか居ない。それも当然だ。過去に関係を持っていた女は、モモと組んだ時点で全員切っていた。だからこそ、見つけ出すのにそこそこ骨が折れたのだけど。

 ――Re:valeの仕事が軌道に乗った時、一番に考えたのは、〝過去の清算〟だった。お世辞にも綺麗とは言い難い女性遍歴は、それなりに週刊誌を賑わす題材となっていたが、炎上商法とはよく言ったもので、モモはそれすら逆手に取っていた。モモ曰く、Re:valeはチャラくて元気でお騒がせな二人組。
『新人アイドルにはそれぐらいの箔があった方がいいでしょ!』
 その笑顔の裏には、様々な思惑や葛藤が潜んでいる。僕の記事よりもモモの記事の方が作られやすいのがその証拠で、恐らくはモモの意思だ。僕を守るために、清廉潔白な名前が汚れていくのが苦しかった。
 けれどそれをやめろと言うのは、モモの努力を蔑ろにするどころか、否定することになる。だから、気づいていても何も言わないままでいる。
 その代わり、自分に出来ることをしようと決めた。万の捜索を依頼している事務所に、追加の依頼をかけたのは、その決意あってのことだった。
 一方的に関係を切った女性たちの居場所を突き止め、一対一で話す機会まで作ってもらう――それがもうひとつの依頼だ。人数はおよそ八人。過去の自分の所業に頭が痛くなる。
 けれど、ひとり、またひとりと顔を合わせるにつれ、自分の中にあった蟠りが解けていくのも感じた。そもそもまともに構築していなかった関係が、言葉を交わすことで、棘が抜けて丸みを帯びていく感触。
『まさか連絡もらえるとは思わなかった』
『そもそもそんなちゃんとした感じじゃなかったしねお互い』
『テレビでちょいちょい見かける度、こいつと寝たことあるんだよなーって優越感感じてるよ』
『バン、まだ見つからないの?』
 三者三様のやり取りを交わし、最後に手切れ金を渡していく。金で解決出来るようになるなんてねと、大抵の相手は笑っていた。殴られる覚悟だったのに、そんなことしたらネイルが折れる、と返される始末だ。
 思えばそれぐらい、執着の薄い関係だった。
 ――ただ一人を除いて。

  *

 万との再会は、思いの他あっけなかった。
 こうも間近にいたのに見つけられなかったのは、小鳥遊事務所に完璧に囲われていたから、らしい。
 事務職以外の外部の接触は完全NG、タレントの送迎はマネ子ちゃんに一任。少しでもRe:valeないし岡崎事務所所属タレントが参加するイベントや番組があれば、それらの連絡作業は別のスタッフに任せるほどの徹底ぶりだった。
「いくらなんでもやりすぎじゃない?」
「おまえの……Re:valeの活動を邪魔したくなかったんだよ。まあ俺も、全く別の人生を歩まなきゃって躍起だったのかもな」
 とは万の言葉だ。
 納得いくような、いかないような。万本人も、全部まるごと理解し認めて欲しいとは微塵も思っていないようで、五年ぶりの再会もまるで昨日ぶりみたいな感慨で迎えていた。無論、僕は感動の嵐に見舞われて、暫くは万とのやり取りにかかりきりだったけれど。

 万との再会で変わったのは、僕以上にモモだった。
 とにかく、万と僕が仲良くしていると、顔を曇らせる。本人が無自覚に見せてくる表情がたまらなく好きで、それをウキウキと話すと呆れられた。
「好きな子をいじめるなよ」と釘を刺されもしたが、おまえだって割とそういうタイプだったろ、と返したら閉口された。思い当たる節がそれなりにある顔だ。
 モモは、僕のことも万のことも好き。けれど、僕が万と楽しそうにしていると、不安になるのだろう。きっとそれも、一生払拭はされないものなのだと、理解はしている。だからこそ、今まで以上の愛情を注ぎたいと思うのだ。沢山愛情の雨を降らせて、不安を押し流してやりたい。
 そしてちゃんと、言い聞かせてやりたい。
 君は僕が好きなのだと。

 ――だからこそ、早く見つけたい人がいた。
 まだつけられていないケジメがひとつ。モモとの同棲時代、一度だけ家にあがりこんできた彼女を、まだ見つけられていない。あの頃の僕に最も執着し、最も体を求めてきたのは、彼女だった。もう顔もおぼろげで、今会ったらきっと、印象は変わっているのだろうと思う。
 だからそれが解決するまでは、自分からモモを誘うことはしないと決めていた。モモの中で、未だ不誠実を絵に描いたような男であるはずの僕だ。そんな僕が出来ることなんて、モモに対して、ひたすら誠実でいることだけだった。
 告白をしていないうちから、手を出すことは出来ない。好きだと言ってから、キスをしたいし、ちゃんと抱きたかった。
 けれどモモからの誘いには、モモが求めることを叶えてやりたいという思いから応え続けている。相反しているようで、自分の中では筋を通しているつもりだ。
 しかし、仕事が忙しくなるにつれ、セックスの頻度は下がった。僕といえば、冗談めかして抱きしめたり、手を繋いだりは通常営業で、それで十分に満足出来ていた。
 モモが僕を誘わなくなったのは、仕事で忙殺されるようになったからだ。何より、五周年コンサートを前に降り掛かったあらゆる事件によって、それどころではなかったというのもある。

 モモの歌声が戻り、万に今のRe:valeが愛されていることを知って、僕はこれ以上ないぐらいの幸福のさなかにあった。
 今後の休み、モモから誘われたりしないだろうか。浮き足立って、そんなことまで考える始末だった。

 けれど、冷水とは唐突に浴びせられるものだ。
 しかも、モモ本人の手によって。
  *

「……は? 合コン? なにそれ」
「あれ、千さん知らなかったんですか?」
 汐留スタジオの廊下でばったり出会った大和くんが、珍しく嫌な顔ひとつせず声をかけてきたので驚いた。「どーも」の第一声には心から喜んだのに、二言目に語られた内容に顔を顰める。
「一昨日俺が番組のプロデューサーから直々に誘われちゃって、断りづれ〜〜って困ってたら百さんが助け舟出してくれたんですよ」
「……へえ。それ、どこの誰としたのか分かる?」
「えーっと、誰だったっけな。ツクモお抱えのグラドルの子とか、あとAV女優の子とかもいたかも。クラブ貸し切り系のやつで、俺全然そういうのダメなんで……」
「確かに、大和くんがそういう場に居るの、全然イメージないな」
「でしょうよ……。で、さっきそのプロデューサーから『百さんのお陰で凄く盛り上がった』って連絡来て。相手方との雰囲気悪くなんなくて、めちゃくちゃ助かりました。千さんからも伝えておいてもらえると有り難いです。俺も勿論、直接言いますけど」
「……うん、わかった。伝えておくよ」
 貼り付けたような笑顔を、さほど気にされなくて助かった。大和くんの背中を見送りながら、はあ、と暗くため息を漏らす。
 ――最近、多すぎやしないか。
 いくら可愛い後輩を助けるためとは言え、そんな危なっかしい会に参加するのはいただけない。モモならうまいこと言い訳を並べて、欠席したって痛手にもならないはずだ。

 五周年以降、モモの遊び方が派手になったことは、業界でも瞬く間に広がった。
 Re:valeとして五周年を迎えられ、その地位を盤石にした自信から来るものでは――と噂されもしたが、そんな陳腐な理由であるはずもない。かといって、別の理由を問われても答えられないのだけれど。
 以前から誘いには基本乗るタイプで、飲み会を何軒もハシゴするなんて当たり前だった。けれどそれはある種の打算が含まれていて、本当に飲みたい時は自分から誘いをかけ、少人数で集まることが常である。
 ここまであからさまに女目的の遊び方をすることは、今まで一度だってなかったはずだ。何か取りたい仕事があるのだとしたら、もっと最適な場はあるだろう。それこそ重鎮が揃い踏みの堅苦しい飲み会なんて、モモにとっての独壇場だろう。
 女が居なきゃいけない理由って、何。
 胸のうちにもやもやしたものが溜まり、眉間の皺が深くなった。嫌な予感が脳裏をよぎる。けれど、そんなことを考えるのはモモへの裏切りのようにも思えた。
 大丈夫。モモは、僕が好きなんだから。
 あと少しで、きっと全部がうまくいくのに。その一歩を未だ踏み出せない僕が出来ることは、ひとまずモモを自分の元に留めさせることぐらいだった。
 しかしその努力も虚しく、モモは僕から逃げようとする。泊まることすら拒否をして、あっという間に姿を消してしまうのだ。
 ねえ。モモは僕のこと、好きじゃないの?
 じゃあ、好きでもない男に、抱いて欲しいって言い続けてたの。
 責めるような言葉が浮かんでは、消え、浮かんでは消えた。
 ただ、我慢がきかなくなってしまった瞬間もあった。実のところ、泊まることを拒否され逃げられた直後は、理由を聞かせろと詰問するつもりでいた。
 けれど、事態は突然好転を見せたのだった。


「……見つかった?」
『はい。やっぱり旦那さんが転勤族だったようで、今年中には島根からこっちに戻られるみたいです。すぐにとはいきませんが、落ち着いたタイミングでお会いすることは出来るとのことでした』
「…………そっか。有難う。助かったよ。全部終わったら、報酬について相談させて」
 終話ボタンをタップして、リビングのソファにどさりと座り込む。全身から力が抜けて、心地よい気だるさに包まれた。
 はあー、と深い深いため息をつきながら天井を見上げ、そっと両手で顔を覆った。
 やっと、やっとだ。
 これでケジメが付け終わる。
 会って、話して、謝って、そしたら殴られるかもしれない。それだけのことを僕はしてきたし、僕の謝罪は僕の清算のためだけに行われるものだ。不躾に押し付けられて、不快感を煽る可能性だって十分にある。だから僕は、納得してもらえるまで頭を下げ続ける。そして、許さなくていい、ただモモだけは巻き込まないで欲しいと、土下座して頼み込むだろうな。
 まっとうな人間だと胸を張ることは出来なくても、自分で決めたことを成し遂げられるぐらいの人間では、ありたかった。

 全部終わったら、モモにちゃんと言おう。
 君のことが好きだと。
 今までもこれからも、ずっと一緒に居て欲しいのだと。


 この時の僕は、探しものが立て続けに見つかった高揚感に、呑まれていた。

   *

 絶句するモモを前にして、僕の気分は正真正銘、最低の最悪だった。
 頭を冷やすためにさっさと帰るべきだったし、「好きだから」なんて、勢いで言うべきじゃなかった。
 モモと電話をした後、スタジオに顔を出すとディレクターから声をかけられた。話の内容と、モモとの通話内容を重ね合わせ、嫌な予感を覚える。慌てて金を下ろして、間に合え間に合えと祈りながら、エレベーターに駆け込んだ。
 結果、女に咥えられる瞬間のモモを目の当たりにした今がある。
 こんなことをする理由は、ひとつしかない。

 モモは僕のこと、好きじゃなかったみたい。
 それだけ。

 早く立ち上がりたいのに、鉛のように思い体が立ち上がることを許してくれない。嬢のつけていた香水の匂いが鼻をかすめ、吐き気を催した。いっそここで吐いてやろうかと、あてつけたくなる気持ちを抑える。
 モモがセックスの誘いをしなくなった理由も、女遊びが増えた理由も、ただ僕に飽きただけだったらしい。そもそもが、僕のことを好きだったかも怪しかった。思えば、モモからだって好きの言葉は聞いたことはなかった。
 遣る方無い思いがどこにも行けずに、この部屋に留まり消えることも出来ない。
 モモが、ゆっくりと立ち上がる。ここはモモの部屋なのに出ていってしまうのかと顔を上げると、顔面蒼白で僕を見つめていた。唇がわなわなと震えていて、興奮状態にあるとが分かる。
 このままじゃ憤死してしまうかもしれない。早く出ていってあげなければ、と足元に置いていた荷物を手繰り寄せて、座ったままコートを羽織った。鈍すぎる動きに、自分の体じゃないようで苛立つ。
 上の方から、蚊の鳴くような声が降ってくる。
「……す、好きって、何……」
「言葉のままだよ」
 間髪をいれずに返すと、「嘘だ」と返される。苛立ちに拍車がかかって、「は?」と吐き捨てた。どれだけタイミングが悪かろうと、本気の想いを否定される謂れはなかった。
「嘘って何。こんな時に嘘つくわけないだろ」
「だって嘘じゃん。す、好きって、それこそ、なんで今さら……」
「今さらって」
 繰り返される〝今さら〟が、もう何もかも遅いのだと言われているようで苦しい。今までしてきたこと、全てが否定されているように思えた。
「……モモは、お願いされたら僕がなんでもやるって思ってたの?」
「だって、そうじゃん。初めてオレのこと抱いた時、ユキはオレのこと、好きなんかじゃなかっただろ? オレが必死でお願いしたから、仕方なく、してくれたんじゃん……」
 モモの躑躅色の目がゆらゆらと揺れて、涙と一緒にこぼれ落ちてしまいそうだった。その問いかけに、うまく答えられない。
 モモの言うことは、正しい。けれど、それだけじゃないのだ。
「……違うよ、」
「違わない! オレが哀れで、可哀想だったから、助けてあげたいって思って抱いてくれたんだよ。そんなこと、オレが一番分かってる。だってユキは、オレの役に立ちたかったんだから!」
 悲鳴のような叫び声に、今度は僕が怯む番だった。モモの肩はわななき、息使いも荒い。顔を歪めて唇を噛む姿は、見ていられないほど痛ましかった。
 ――モモは、僕を好きなんだと思っていた。僕がモモを好きであるように。
 けれど、そんな考えは甘かった。僕が愛情を確かめようとするたび、モモを追い詰めていたのだと思うと、まともに言い訳も出来ない。それでも、違うよ、とだけ繰り返す。
「何が違うんだよ、オレのこと好きって、そんなの今まで、一回も言ったことなかった」
「……理由が、あって」
「どんな理由? セックスだってさ、オレが誘うばっかりだったよ。ユキからオレを抱こうとなんてしたことなかった!」
「ちゃんと好きって言ってから、したかったんだよ」
「ならオレの誘いも拒否ってよ……! オレはユキに、好きだなんて言ってないんだから!」
「……っ」
 それは、モモが僕を好きでないという、明確な肯定に感じられた。それなのにモモの手は、爪が食い込んで血が出てしまうんじゃないかと思うほど、強く握られている。
 場違いにも、解いてあげたいと思った。
 ふう、ふう、と荒い息遣いのあと、モモの拳が更に縮まる。きっともう、手のひらは傷だらけだ。それ以上はいけないと、立ち上がって止めようとした時だった。

「家帰ったら、知らない女がいたんだよ。オレと、ユキさんの居場所に。そんなとこ見せられて、〝今さら〟好きとか、そんな言葉……信じられると思う……?」

 空気が凍り、息が止まった。
 モモは、まだあの家の前でしゃがみこみ、傷ついている。なんでどうしてと、泣きながら苦しんでいるのだ。
 二人だけの秘密基地になるはずだった場所は僕の手で壊され、そのまま、もう二度と還らないものになってしまった。
 僕は僕の犯した間違いを正そうとして、でもそれだけだった。モモの役に立ちたい気持ちとモモを好きな気持ちはイコールで繋がっていたのに、それを理解してもらう努力を怠っていた。
 ――全部、自業自得だ。自分の愚かさが招いた結果としては、十分過ぎるほどの成果だった。
「そうだね」
 反論の余地もなく、ただ肯定するしかない。急に部屋の照明が眩しく思えて、軽く目眩を覚える。足元の荷物を持ち上げて立ち上がると、モモに向き直って、場違いにも笑った。
「信じてもらえないと思うけど、本当に好きだよ」
 でも、と小さくつぶやく。
「信じなくていいよ」
 こんなことなら、誠実さなど二の次に、すぐに言ってしまえばよかったのだろうか。
 モモのために誠実であろうとすることが、結果モモを苦しめていたなんて笑えもしない。重たい脚を引きずるようにして歩き出す。
「……っ、ま、待ってよ……!」
 酷く動揺した声で、モモが制止をかける。僕はそれを振り切るように歩き、玄関へと向かった。
 早く目の前から消えてあげたいと一心なのに、追いすがるようにモモがついてくるのに困り果て、振り返ることも出来ない。
 連休の初日で良かった。二日間、死んだように眠ろう。それから、この先のことを考えればいい。
 そうだ。一人の時間は、いくらでもあるから。
「ユキ、ねえ」
「……」
「ユキ!」
 靴を履こうとしたところで、モモが僕の腕を掴んだ。信じられないと言ったのはモモなのに、どうしてこうも必死なのか、理解が出来なかった。
 僕ら全然、お互いのことを理解出来ない。こんなことでうまくいくはずもなかった。
 そうして、なんだか少し前の自分みたいだな、と似たシチュエーションがあったことを思い出す。モモが、泊まることを拒否して自分の家に帰ってしまった時のこと。
 いなくならないで、って、あの時僕は思ったんだったな。
「し、信じなくていい、って……。なんでそんなこと言うの」
「僕が全部間違ってたから。信じられない言葉を、無理に信じてもらう必要はないよ」
「……それで終わり?」
「――うん」
 終わらせようとしたのは、モモなのに。なんでそんな寂しそうにするんだ。
 そう言いかけて飲み込む。責める気持ちがまだ残っていることに驚いて、何より呆れた。
 腕を掴む熱い手のひらを、強くは振り払えない。力ずくで出ていくなんてことをしたら、モモはもっと傷つくだろうから。
 モモからもらったバブーシュを脚に引っ掛け、そのまま暫く立ち竦んでいた。
 一切装飾がされていない玄関扉は、モモがこの家にさほど愛着を持っていない証拠だった。一緒に迎えるつもりのなかった五周年。引っ越すことを前提に借りた部屋。それでもモモは今もここに暮らし、Re:valeとして生きている。
 ひとまずそれで十分だろうと、自分の感情に折り合いをつけていくしかない。求めすぎていたのなら、節度を理解し、弁えていくだけだ。そうして、僕もまた、新しい相手を見つける努力をしていくのだろう。あるいは、モモを最後の人にして、生涯独り身でいるだけだ。
 ――参ったな。後者の方がよっぽど現実味がある。
 ふう、と軽くため息をつく。流石に、いつまでもこうしてはいられなかった。
 もうそろそろ帰るよ、と声をかけようと口を開いたと同時に、モモの掠れた声が耳に届いた。
「……なんで……」
「……え?」
 あまりに寂しそうな声に、意図せずに振り返ってしまう。
 そこには、僕の腕を必死に掴み、もう片方の腕で目元を隠してしゃくりあげるモモの姿があった。まるで、母親に怒られ、謝りたいのに謝れないでいる小さな少年のようだ。
 こんな泣き方は予想外で、流石に狼狽える。
「ふ、ぐ、うぅ……っ」
「も、モモ……?」
「なんで……お、オレがっ、言ってること……めちゃくちゃなのに……っ、全部、無視すんの……っ」
「え、え?」
「あ、あ、諦めてんじゃねえ〜〜〜……っ」
 ひどい、ひどい、とモモはボロボロの声で僕を詰った。腕を掴む力はもっときつくなって、死んでも離さない、と言っているようだった。
「おれ、ゆ゛き゛のこと責めてばっかで、ぜんぜんっ……話、き゛いてな……のに、なんで……ゆ゛き゛、怒、ないの、ひどいよ、ひどい〜〜……っ」
 堰を切ったように大泣きしはじめたモモが、支離滅裂な言葉を並べる。履いた靴を蹴るように脱いで、慌てて正面からモモを抱きしめた。嫌がられるかと思ったけれど、案外と、すっぽり腕の中に収まってくれた。
 さっきまで鼻について仕方なかった香水の匂いは、消えていた。
 肩口に額を擦り付けるようにして、回した腕に力を込める。モモの両腕が、恐る恐る背中に回った。
「モモ、ごめんね」
「が、がまんっ、してたのに……好きって、絶対、いわないようにしてたのに……ッ、……なんでユキが、言っちゃうんだよ……ッ」
「うん。うん……」
 ぽんぽんと宥めるように頭を撫でると、モモがずびずびと鼻水を啜る音が聞こえる。モモは多分、こういうところを見せたくなかったんだろう。何もかも必死に抑え込んで、綺麗な部分を一番に見せたがった。
 僕のことが好きだから。
「モモ、好きだよ。モモを最後の人にしようって決めてたところだった」
「お、おわらせようと、すんな〜〜……っ」
「そうね。もっと、必死にならなきゃいけなかったね。ごめんね……」

 モモはそれから、わんわん泣いた。
 どれぐらいか分からないぐらい泣いて泣いて、最後に「オレも好きだよ」と言って、ふっと気を失った。
 もうずっと、限界だったのかもしれない。
 僕の方へ倒れてくれて、よかった。
 本当にしょうもない僕は、心の底からそんなことを思ったのだった。




 


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