秋頃開催を決めた全国ツアーの打ち合わせも、ひとまずはこれで最後になる。難航に難航を極めたセットリストがやっとのことで確定し、今後はそれに合わせた衣装決めや地獄のダンスレッスンの日々だ。
 準備に合わせてドラマ出演はワンクール分休みとなり、その代わり単発のバラエティの出演が増えるのもこの時期。新アルバムを引っさげてのツアーではないため、今回は音楽番組への出演もそう多くはなかった。夏に合わせた音楽特番のMCが控えているものの、それも既に毎年恒例行事、慣れたものだ。
 打ち合わせが終わり、さて帰ろうかというところで呼び止められた。
 二人同時に声の方を振り返ると、神妙な顔つきをしたおかりんが、スケジュール帳を携えこちらに歩いてくる。最近はオレとユキ一人ひとりにサブマネがついているので、おかりんに会える機会はぐんと減った。だからこそ、今日のように岡崎事務所での打ち合わせを多めに設定してもらっている。おかりんの顔を見ると、オレもユキも落ち着くから。
「おっつかれ! どしたの、難しい顔しちゃって。なんかリスケになりそう?」
「はい。リスケはリスケなのですが……」
 長机の向かい側に、おかりんが座る。ただならぬ雰囲気にゴクリと唾を飲み込んで、次の言葉を待った。
 すると、おかりんはスケジュール帳を置き――打って変わって、パッと華やぐ笑顔を見せた。
「来週の土日月、お休みになりそうです!」
 過密スケジュール確定のお知らせと踏んでいたので、一瞬、ぽかんと口を開ける。
「……えっ! なんでなんで! 三連休ってそれもう夏休みじゃん」
「僕的にはあと一ヶ月あってもいいけど」
「すみません、三日が限度でした」
「いやいや、十分だから! 一日オフでも嬉しいのに、三連休はヤバいよ!」
 そんなの、朗報も朗報だ。ざっと記憶をたどってみても、最後の三連休は確か一昨年の秋頃だった。二連休はたまにあるが、三連休ともなるとハイパーレアである。が、常にぎゅうぎゅう詰めのスケジュールに三日も空きが出たことに対し、何らかの理由があることも確かだ。
 同じことを考えていたらしいユキが口を開く。
「なんかポシャったとか?」
「聞き方〜。でも、確かにそうだよね。……っていうか、来週末ってネクリバのロケだったような……」
 オレの気付きに、おかりんがコクリと頷いた。
「はい、その通りです。実はですね……」


「は〜〜〜……妊娠かあ〜〜……」
 満天の星が輝く夜空を見上げながら、不思議な感慨と共に海沿いの橋を歩く。
「早めに気づいてよかったよね」
 と、少し前を歩くユキが続ける。
 二日と半日ほどかけて行う予定だったNEXT Re:valeの近郊ロケ。
 そのゲスト女優の妊娠がつい昨日発覚した。
 大人用アスレチックを遊びながら紹介する企画がメインだったため、大事を取って出演は取り止めになったのが、急なリスケの理由だ。
 まだ告知の前段階であったこと、タイミング的に未公開映像をまとめた総集編の放送で問題ないことから、タレント側のスケジュールに調整が入った。
「結構仲良い子だったからかな、普段よりびっくり度高めかも。無事産めるといいねぇ」
「そうね。これからが大変だろうけど」
「うん。現場に戻ってきたら、めちゃくちゃ祝っちゃおう!」
「番組総出でサプライズしたら喜んでくれるかな?」
「そりゃもう、泣いちゃうよ、絶対!」
 わざと明るく話すのは、現在裏で起きていることが容易に想像出来るからだ。今頃、マネージャーを筆頭に関係者各位は真っ青だろう。契約変更あるいは不履行は免れず、今回のネクリバも例外ではない。
 自己管理の点から言えば褒められたものではないのかもしれないが、身近な人間ならともかく、他所のタレントが口を出すような話でもなかった。
 本人からアドバイスを求められたなら喜んで答えるし、全力で応援もする。そういうスタンスで居続けてきたからこそ、オレたちは今、トップに座せるのだ。
「結婚、するのかな。相手の話とか聞いたことなかったけど」
「どうだろうね。したいならすればいいし、必要ないと思うならしなければいいよ」
「うん……」

 結婚。
 姉である瑠璃の結婚式には、ユキとバンさんの三人で足を運んだ。事務所から許可をもらい、二人で歌を披露して、バンさんからは三人分のプレゼントを渡してもらった。姉ちゃんのとんでもない号泣ぶりには相当焦ったものの、サプライズが成功したよろこびは何にも替え難かった。
 砂糖を煮詰めたみたいな幸福の香り、愛が満ち満ちた空間。あの場に居させてもらえたことを誇りに思う。
 その時視界に映っていたユキの、銀糸をひとまとめにしたスラリとした立ち姿が、目に焼き付いている。バンさんと並ぶ姿は凄く〝しっくり〟きて、そのことになんとも言えない気分になった。
 シチュエーションも相まってか、浮き足立つのに切なくなるような、奇妙な感覚。改めて、オレは式をあげれそうもないなあ、と実感したのだった。

 数メートル前を歩いていたユキがふと立ち止まり、橋の柵に腕をかける。真っ暗な海の向こうには、まばゆい光を放つゼロアリーナがそびえ立っていた。あのステージでのパフォーマンスは、きっと一生忘れることはないだろう。手に入れたのは、声だけではなかったから。
 ユキの隣に並び、オレはゼロアリーナに背を向けるよう柵へと寄りかかった。視線を感じて右側へ顔を向けると、暗闇に紛れることのない薄縹と目が合った。
「結婚したくなった?」
「えー? いや、全然。姉ちゃん結婚してくれたからかなぁ、むしろ色々安心しちゃったよね」
 嘘ではなかった。元々展望を持っていなかったものが、結婚式をきっかけに今度こそ消えて無くなってしまったというだけだ。
 ほうっと息をついて、今度はオレからユキに問いかける。
「……ユキは? 結婚したいって思う?」
「思うと思う? そもそも、モモが言ったんじゃないか。『ユキが結婚するのは寂しい』って」
「……言ったっけ?」
「覚えてるくせに」
 忘れるはずもない。オレの冗談めかした本音に、『モモが寂しくなるなら結婚なんてしないけどな』と返されてしまったのだから。あの時は、冗談とも本気ともつかない口調の真意をはかりかねて、まともな返事が出来なかった。
 まさか蒸し返されるとは思いもよらず、バツが悪すぎて目をそらした。
「約束、守ってるつもりなんだけどな」
「あはは……」
 うまいこと躱せる気もせず、早めにこの話題を終わらせようと切り替える。
「まあ、そのお気持ちは超有り難いし超嬉しいんだけどさ! いつか結婚したくなったら言ってね。友人代表スピーチ、誰にも譲りたくないから!」
「……うん」
 潮風が一段と強く吹き付けて、生ぬるさに顔を顰めた。
 自分で言ったくせに、ユキの肯定に傷ついたことで――
 ああもうダメだな、と確信した。

   *

 無駄に綺麗に片付けたベッドの上、仰向けに寝転がってスマホを掲げる。スワイプを繰り返して、数回タップ。簡単な情報を入力して、OKのボタンを慎重に押した。
 詰めていた息を一気に吐き出して、シーツに両腕を投げる。
「……たっけぇ〜〜……」
 先程下ろしてきたとはいえ、普通、現金のまま所持することのない金額だ。
 一度貧乏暮らしをしたせいもあってか、高い買い物をする度に一般的な感覚が戻ってしまう。たかだか90分に40万を払うことなんて、今後の人生であと一回あるかどうかだ。

 ――三連休直前に、ユキとの仕事が入ってなくてよかった。直接誘われていたら、断りきれなかったかもしれない。
 ラビチャで何度か『休み中に会おう』と連絡が来たものの、既に予定を入れていること、一日はちゃんと休んでおきたいことを重々伝えて、なんとか三日間の一人休みをもぎ取った。きっと今頃不満を爆発させ後輩にウザ絡みをしているだろう姿に思いを馳せるも、休み明けに宥めれば問題ないと判断する。
 ユキのご機嫌取りは、得意分野だ。本人のお墨付きでもある。

 わざわざユキの誘いを断ってまで一人の休みに拘った理由は、ひとつしかなかった。
 デリヘル嬢を、この家に呼ぶためだ。
 意識的に、出来るだけユキに似てない顔を選んだ。そもそもあの美貌に似ている人間自体そういないのだけれど。女性とのどうこうが久々すぎることもあって、出来る限り不安要素や気まずさは排除しておきたかった。
 まあ、相手はド級のプロだ。金額分楽しませてもらえることは確実だし、ゆっくりしっかり、女性の体に慣れていこう。とはいえ毎度40万を払っていたら破産してしまうので、ある程度慣れて自信がついたら、彼女を見つけるターンに入ろう。
 そう決意して、腹筋だけの力で起き上がる。自分の部屋とは思えないほど綺麗に片付いた様子が目に入って、どうにも居心地が悪くなった。
 結局、ユキが時間をかけて片付けてくれた事実をなかったことには出来ず、あれ以来ちゃんと掃除を続けている。物の配置もユキが整えてくれたまま崩していない。同棲していた頃から、家具の配置はユキの好きにしてもらっていたことを思い出して、胸の奥がヒリついた。
 この部屋に人を呼ぶのは、これで五人目だ。
 最初はおかりん、次にユキ、その後に一織と三月。その次に訪れるのがデリヘル嬢とは、飛躍しすぎて笑える。
 その必死さにも。


 二日間は連休にしておきたかったこともあり、連休初日の夜に予約を入れた。即ち今日の夜21時。深夜帯でもよかったけれど、日を跨せるのも気が引けて、少し早めの時間だ。訪問まではあと数時間あるものの、未だ現実味がない。
 なんとなく落ち着かず、コーヒーでも淹れるかと寝室から出る。キッチンに向かっている間に、尻ポケットが震えた。スマホを手に取り画面を見ると、そこにはユキの文字が並んでいた。
「……タイミング……」
 出ない選択肢もあったけれど、週明けのご機嫌取りに支障が出るかもしれない。まだ時間はあるしな、と渋々通話マークをタップし、スピーカーモードにしてシンクに置いた。
 こういうのは、第一声が重要である。
「はーいもしもし、あなたの可愛いモモちゃんですよ〜!」
『……出ないかと思った』
 早速、地を這うような声がキッチンに響いて思わず苦笑いを浮かべた。ユキは誤魔化したり繕ったりしない。不機嫌な時やストレスを受けている時、ちゃんと意思表明をする。ユキに免疫の無い人間はその様子に恐怖するし怯えるけれど、慣れればみんなそこまで気にしなくなる。おかりんや社長、バンさんが良い例だった。
 勿論オレも。
 ケトルに水を注ぎ、元の位置に戻して電源を入れた。
「今はまだちょっと時間あるから。どうしたの、なんかあった?」
『……なんかなくちゃ電話しちゃダメなの?』
「めんどくさい彼女みたいなこと言う!」
 きゃらきゃらと笑ってみせれば、電話越しの空気はいっそう重たくなった。ユキの頭上には、どんよりとした雨雲がかかっているに違いない。きっと、局地的な大雨をもたらしている。
「大事な大事な三連休だよ? そんな調子じゃ勿体ないじゃん」
『誰のせいだと思ってるの』
「オレのせいかもしれないけどさあ。ユキって一人の時間大好きじゃん。ゆっくり羽伸ばして、映画とか観ればいいのに」
『……一人の時間なんて、いつでも作れる……』
 責めるような、拗ねたような声。胸がきゅうと締め付けられて、うわあ、と顔を顰めた。
 ケトルが沸騰し始めて、ゴポゴポと音を立てている。オレが何も返せないせいで部屋は静まり返り、やけに大きな音に聞こえた。
 なんでそんなに可愛いことを言うんだろう。
 オレを喜ばせるつもりもないくせに、ユキを愛おしがる隙を与えてくるのはどうして。
「オレじゃなくても、いいじゃん」
『モモじゃなきゃダメだから電話してる』
 よくない意味での〝好き〟のゲージがぐんと溜まって、誤魔化すように目を伏せ、唇を噛んだ。
 今すぐ予約を取り消して、ユキの元に飛んでいきたい。オレのしょうもない決意なんて放って、寂しがるユキを抱きしめた方がよっぽど素敵じゃないか? ユキもすぐにご機嫌になって、二人で一緒にだらだらと映画を観れるかもしれない。それは確かに、最高の休日だ。大事な大事な三連休の、かんぺきな過ごし方。
 だからこそ、簡単に後戻り出来ないように大金を払ったのだ。
 湯が沸き、ケトルの電源が勝手に落ちる。片手で持ち上げて、ペアカップの片方にだけ湯を注いだ。ユキが好まない安物のインスタントコーヒーは、すぐに溶けて茶色く濁る。
「ごめんね、ユキ。オレ今日、この後も用事あるからさ。また火曜日会おう。火曜日の夜はあけといてよ」
『……無理だよ。シングルカットの編曲、立ち会いがある』
「あ、そっか。そしたらさ、その後でも……」
『何時に終わるかなんて分からない。あんまり待たせるのも、好きじゃないよ」
 だから確実に休みの日に、顔が見たいのに。
 ずっと待ってろって言ってくれたって構わないのに、そう言われてしまうと、もう何も言えなかった。視線を宙に彷徨わせ口を閉ざしたオレに、ユキは小さくため息をつく。諦めの色が滲んで、電話も切り時であることを理解した。
「……じゃあ、また」
『――モモ』
 ユキが小さく、息を呑む音がした。
『おまえ、僕に、……言いたいこととか、ないの』
 すぐに思い当たることがなく、適当に返す。
「え、なんだろ。おやすみ? とか?」
 暫く沈黙が続いたかと思うと、
『わかった。おやすみ』
 と無感情な声が届き、次いで終話音がキッチンに響いた。
 ふと、コーヒーカップを見下ろす。ドリップコーヒーを淹れるのがへたくそなオレは、インスタントも妙に薄めに作ってしまう。ユキが以前淹れてくれたものとの出来の違いに苦笑して、カップの装飾の華やかさが台無しに思えた。
 やっぱり二つともユキに譲ればよかったと、今更ながら後悔する。
「…………言いたいこと?」
 別に、今はないよ。
 言えないことは、いっぱいあるけど。

   *

「はじめまして、こんばんは〜」
 念のため、仕事用でもプライベート用でもない、ほぼ化石と化したサブ機のスマホで連絡を取った。コンシェルジュには事前に話を通していたので、セキュリティ用のカードが無くともエレベーターには乗り込める。住所は口頭で伝えるのがセオリーらしく、徹底しているなと感心した。
 ピンポーンと呑気なチャイムの音が鳴り、いよいよだと腹を括って玄関に向かう。一応ドアスコープから外の様子を見ると、魚眼レンズ越しですら、普段見慣れているモデルやアイドルと同レベルの女性が立っているのが分かった。
 はあ。流石に、とんでもなくレベル高いな。
 ゆっくりと扉を開けると、お邪魔します、と頭を下げながら入ってくる。くびれが強調されたシンプルな白のワンピースに、袖はレースのパフスリーブ。手入れが行き届いたブラウンの髪色はボブで、肌は真っ白とまではいかないが、清潔感も透明感もあった。零れ落ちそうなほど大きな目は、ほんの一瞬でオレの上から下までを吟味する。すぐにニッコリと笑顔を作って「上がってもいいですか?」と声をかけられた。警戒心は、ある程度解けたらしい。鈴の音のような声はそれだけで耳心地がよく、プロは凄いなと感心する。芸能人でもよっぽど通用しそうだ。
 オレは敢えての上下スウェットでお出迎え。一応そこそこの値段のそこそこのやつなので、お眼鏡にはかなっているだろう。
「あんまり広くなくてごめんね。どうぞあがってー」
「そんなことないですよお。失礼します〜」
 おっとりとした喋り方はきっと営業用。いやいや、そんなこと気にしてる場合か。明らかな職業病ぶりにハッとして、きっとオレも無意識に上から下まで確認してしまったのだろうなと反省する。
 今から楽しませてもらうのに、相手のパーソナルな部分なんて関係ない。
 リビングに荷物を置いてもらう前に、一応手荷物チェックはさせてもらった。録音機やカメラを隠し持ってることもあると聞くし、確認させてもらう旨も伝えてある。事前に言ってしまったら意味はないかもしれないが、流石にそれぐらいの誠意は必要だ。持ち物チェックも終わって、さあどうしましょうか、というところで「一緒にお風呂入りませんか?」と打診された。
「あー、そこからプレイ始まってる感じ?」
「はい。でも別々でも大丈夫ですよ〜お好きな方、選んでもらってるので」
「なるほど。オレさ、着てる服で分かってるかもなんだけど、さっきシャワー浴びちゃったんだよね。もう一回ってのもなんだから、一人で入ってもらってもいい?」
「はい、全然大丈夫です〜。じゃあちょっと失礼しますね」
「うん。とりあえずリビングで待ってるから」
「はーい♡」
 バスルームに備え付けの洗面台横には下ろしたてのバスタオルも置いてあるし、シャワー類の使い方も一般的なマンションと変わりはない。いちいち説明する方が野暮だろうと、オレはソファに座って天井を見上げた。
 ――まずいな。思ったより、テンション上がんない。
 冷静に考えて、毎日のように女性タレントと仕事をしている身だ。好みの見た目はあれど、いちいち興奮するわけもない。巨乳は好きだけど、別に小さくたって構わないし、さほどこだわりもなかった。となれば、プレイ内容に期待するしかない。さっきしっかりシャワーを浴びたし、汗臭さなど嫌な要素はないはずだ。
 そうこう考えている間に、バスルームからすたすたとスリッパの音が聞こえ、自然と視線が向く。そこにはバスタオル一枚だけを身に巻きつけた嬢が立っていて、目があった瞬間、色気のある表情で笑いかけられた。
 これでドキリともしないの、ヤバくない? 男失格だろ。
「お隣、座ってもいいですか?」
「……もちろん」
 人好きする笑顔でおいでおいでと手招くように呼ぶと、嬉しそうに近づいてくる。バスタオルではほとんど何も隠せていない胸を、ぎゅっと押し付けるようにして座られる。あまりに久々の感覚に、興奮するより先に「こんな感じだったっけ」と素直に驚いた。
 いつだって、触れていたのは均等に筋肉の乗ったすべらかな肌だった。柔らかさより硬さが目立って、けれど骨一本一本を指先で辿るのが、物凄く好きで――……と、思い出しそうになって、慌てて首を振る。きょとんとした嬢が、「どうかしました?」と問いかけてくる前に「早くしよ」と急かした。
 最初はもう、リビングでいいや。手っ取り早く、思い出しかけたことを忘れさせて欲しいし。
 オレの要求に驚くこともせず、慣れた様子で「じゃあ下、脱がせていい?」と聞いてくる。敬語が外れたことで、本番のスイッチが入ったことを理解した。
「いいよ。手伝うことある?」
「あは♡ じゃあ腰上げて〜」
「はーい」
 わざと軽いノリを演出して、これは楽しい楽しいセックスの始まりなんですよ、と自分に言い聞かせる。座ったままのオレの脚の間に体を滑り込ませた嬢が、両手でスウェットの下と、ボクサーパンツ両方に指をかけた。その拍子に、体に巻き付いていたタオルがはらりと取れる。
 セックスをするために作られた完璧な肢体があらわになったと同時に、取り出されたオレのものを、愛おしそうに頬に擦り寄せる。上目遣いの角度は完璧だった。
「まだおっきくなってないね?」
「ごめん、緊張してんのかも。お願いしていい?」
「はーい♡」
 嬢が両手で竿を持ち、亀頭に向かって唾液を垂らそうと下を向く。
 その時何故か、背後からガチャリとドアノブが回る音がした。
「……!?」
「きゃっ?」
 思わず、嬢の肩を掴んで引き剥がす。即座に脱いでいた服を着直した。いや、だって。
「……ご、ごめん、今さ、なんか玄関から音」
「こんばんは」
 悲鳴を上げなかっただけ奇跡だった。熱が一気に引いて、心臓がバクバクと早鐘のように鳴る。
 突然の来訪者に嬢は一瞬身を強張らせ、しかしオレ越しにその人の顔を見た瞬間、あからさまにほっとした笑顔を見せた。
「あれぇ、今日って3Pの予定でした?」
 いやそんなわけないだろ。
 だったら最初から言ってるし値段だって倍以上に跳ね上がるに決まってる。だからこの男は不法侵入もいいところで、君が裸を見せるべき相手ではなくて、早く追い出さなきゃいけなくて――
 頭の中ではそう叫んでいるのに、喉が凍りついたように動かない。嬢の呑気な勘違いに、後ろから改めて訂正が入った。
「ああ、ごめんね。違う違う。急な仕事の打ち合わせが入ったから連絡入れたんだけど、彼、スマホの電源切っててさ。他のスタッフに呼んでこいって言われちゃったから仕方なく。邪魔しちゃったよね」
 いや、だから。そんなわけないだろ。スマホの電源なんて普通に入ってるし、そもそもチャイムを鳴らせばいいだけだ。合鍵を持っているにせよ、なんの許可もなくオレの部屋に入ってきたことなんて今回が初めてだ。
「え、じゃあこれで終わり?」
「うん。服、着てきてもらっていい?」
「そんなぁ〜。残念……」
「またよろしくね」
「……はぁい」
 穏やかな声色であるのに、怖いぐらいの威圧感。嬢はチラリと顔面蒼白のオレを窺ってから、自分の体にタオルを巻き直す。
「百さん、じゃあ今日はこれでおいとましまーす。また呼んでね?」
「あ、あは……」
 口がもつれて、適当な笑いしか返せなかった。
 嬢が突然の来訪者を受け入れた理由は、オレたちがRe:valeであると知っているからだ。例えば来訪者が全くの一般人であったならば、通報されても仕方ないような暴挙だ。紹介制の時点で身元はほとんど割れているし、メッセージのやり取りで軽く確認されていたのでやんわり肯定もしていた。普通に考えたら出禁レベルの所業。〝また〟なんて、死んでも思ってないくせに。
 バスルームへ戻ろうとした嬢に、男――ユキが声をかける。
「ああ、そうだ。お金これで足りる?」
「……え? あ、はい。確認します……?」
 オレから渡されるはずのそれをユキが渡したことで、嬢の目が白黒した。当然、そのやり取りを聞いていたオレもだ。
 は? 何言ってんの?
 財布に入ってる金額じゃどうにもならないだろ、と慌てて立ち上がるも、嬢は何故か〝茶封筒〟から札束を出し、一枚一枚数えていた。
 ――なんでそんな、用意がいいんだよ。
 有り得ない光景を前に、茫然とその様子を見つめていると、数え終わった嬢が「ちょっと多いぐらいですよ?」と上目使いにユキに媚びた。
 胡散臭いほど爽やかな笑顔で、ユキは答える。
「構わないよ。全部持っていって」


 本当にごめんね、と何度も繰り返しながら嬢を見送った後、リビングに戻って二人で向き合うように座った。
 静けさが部屋を満たしているからか、空気が乾燥し喉がヒリつく。怒りたいのはオレなのに、嬢がいなくなった瞬間以降、ユキは殺気立っていると言っても過言ではないほど憤然とし、長い脚を組んでじっとりとこちらを眺めていた。その視線を正面から受け止められるわけもなく、俯いて膝上に置きっぱなしの拳を見つめた。
 一分が一時間のように感じられる時間は、単純に地獄だ。ごくりと唾を飲み込んで、息を吐く。
 聞きたいことは山程あるのに、体が強張って何も言えない。
 それに――口を開いたら最後、責めるようなことを言ってしまいそうで。
 それを知ってか知らずか、会話の口火を切ったのはユキだった。
「『百くんにも紹介した手前、千くんにも教えなきゃと思って』」
 それが誰の言葉かは、想像に難くない。目の前が真っ暗になった。
「昨日、N局でお世話になってるディレクターに会ってさ。開口一番そう言われた。なんのことかと思ったよ」
「…………」
 そうだオレ、口止めしなかった。同番組にユキが出ることを、オレは把握していたじゃないか。
 紹介してもらうことにばかり頭がいって、『恥ずかしいからユキには言わないでね』の一言が完全に抜けていた。紹介制の超高級嬢。トップアイドルの片割れに紹介したなら、同じぐらい懇意にしているもう片方にも、教えるだろう。ユキの女性遍歴や女優からの共演NG率は有名で、何より彼は特別――気が回るんだから。
 あからさまに動揺し返事に窮していると、ユキはオレの言葉なんて待っていないかのように続けた。
「それ言われた僕の気持ち、モモは分かる?」
「……」
「一年以上ぶりの三連休一緒に過ごしたいって言っても散々断られて、挙句の果てに他人からモモと高級ヘルス嬢共有するの勧められたんだよ」
「だ、だからって……流石に、酷くない……」
 喉から絞り出した一言は、恨み言みたく響いた。ユキはその言葉にピクリと眉を寄せ、不愉快そうに言い放った。
「それは僕のセリフだ」
 語気が強く震えていたのは、きっと気のせいじゃない。けれど怯むより先に、理不尽さに不満が募った。
 ……そんなことを言われる筋合いはない。オレにだって、言い分がある。一方的に責められるようなことをしたとは思えなかった。
 ユキが軽く部屋を見渡す。
「部屋、珍しく綺麗に保ってるね。女を呼ぶため? もしかして、もう何回かヤッた?」
「……」
「ああ、いいや、答えなくて。頷かれたら何するか分からないし。……こんなことのために、掃除しに来たわけじゃなかったんだけど」
「……ユキ」
「ねえモモ」
「……なに」
「本当に、僕に何か言うことはないの?」
 またそれ?
 電話口でも問われたその言葉に対し、眉間に深い皺を刻む。
「無い。でも、……聞きたいことならあるよ」
「……どうぞ?」
 深く息を吸って、吐き出す。バカみたいに声が震えた。
 水を打ったように静まり返った部屋に、オレの声がやけに響いた。

「なんで、邪魔すんの。誰とヤろうが、ユキに関係ないじゃん」

「――――は?」
 ユキの絶句に、息が詰まる。
 でもこれが、正真正銘、オレの聞きたいことだった。
 そう、関係ないのだ。だってオレたち、恋人同士でもなければ、セフレですらなかった。オレからの一方的な誘いだけで、体の関係が続いていただけだ。
 そんなこと、再確認させないでくれよ。そう叫びだしたくなるのを必死で堪えて、歯を食いしばった。喉が焼き切れそうに熱い。
 口火を切ったのはそっちからだ。ならオレだって、堰き止められない思いを吐露することぐらい、許されたい。
「ゆ、ユキはっ、オレの誘いに乗っても、オレを誘うことなんて一度もなかった。そりゃ当然だよね。オレが寂しがってんの、慰めてくれてただけの関係なんだし」
「…………」
「だから終らせたんじゃん。オレだって友達増えたし、仕事だって順調だし、寂しくもなくなったよ。ユキだって相手困ってないだろ」
「……モモ、」
「そもそもさ、最後にユキとオレがヤッたのいつか覚えてる? 二年近く前だよ?」
 一息置いてから、顔を上げた。真っ直ぐにユキを見据える。
「それなのに、なんで今さら、蒸し返すようなことするわけ」
 言い切ってから、唇を噛んで涙を堪えた。涙声が情けなくて、せめて泣かないことで矜持を保つほかない。
 それなのに、ユキが次にしたことは大きなため息をつくことだった。呆れの色を隠しもしないそれが、オレの訴えを軽んじているように聞こえて、カッと頭に血が上った。
「あのさあッ、」

「好きだから」

「………っ、………は?」
「なんでって……好きだからだよ。モモのことが」
 突然のことに、頭がついていかない。今度はオレが絶句する番だった。
 ユキがもう一度、ため息をつく。それはもしかすると、オレに向けられたものではないのかもしれなかった。
 自嘲気味に響いた、掠れた笑い声。


「モモは、そうじゃなかったみたいだけど」




 


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