「せっかくだから今日はビーフストロガノフにしたよ。モモ、これ好きでしょう」
「……好きだけど、今日は天ぷらの口だった!」
「脂はダイエットの天敵なのに?」
「うっ……お肉にだって脂はあるじゃん!」
「質が違うよ」
鼻歌でも歌い出しそうなユキの様子を、リビングから眺める。没収されたオレのスマホはキッチン前のカウンターに置かれていて、電源も切られていた。
『マジで来れない? 5分でいいから顔出してよ』
的なメッセージが大量に届いていることを見越しての措置に、熟練の技を感じる。こんなこと覚えさせたのは、元を辿ればオレということになるんだけど。
でもやっぱり、納得いかない。だからこうして憮然とした態度でソファで丸まっているのだ。しかしどれだけ抗議の姿勢を見せても、テレビも付けず、オーディオも鳴らさず、ユキから生まれる生活音だけがBGMのこの空間で、今回の勝者は間違いなくユキだった。
五周年を迎えてお役御免と思っていたオレは、結局のところRe:valeを辞めることはなく、未だ岡崎事務所にお世話になっている。
正真正銘、Re:valeの百のまま。季節は既に夏を迎えようとしていた。
ユキがオレとのRe:valeを選んでくれたことへのよころびと、バンさんと再会出来たことへの感動といくらかの後ろめたさ。一度は捨てようとした責任感を背負い直したところで、思い描いていた人生計画が振り出しに戻ったことを思い知った。
何より――自分がいなくなる前提で進めていたことが、多すぎる。
コトコトと鍋が優しい音を立て、ユキが上機嫌にサラダ用の野菜を切っている姿は、幸せそのものみたく目に映った。そしてオレはその光景を前に、自分の過去の行いを悔やみ、羞恥や葛藤や絶望にそっと悶え苦しんでいる。
本当なら今ごろ、合コンに繰り出し女の子たちとカラオケで大騒ぎしていたはずなのに。それすら叶わず、今からユキの料理をたらふく食べることしか許されないなんて、酷すぎる。
大きすぎるソファにごろごろ転がりながら、両手で顔を覆った。
ユキさん。オレたちって、結構な回数セックス、してましたよね。
そんな相方と、これからもずっとやっていけますか?
なんて、訊けるはずもない疑問を頭に浮かべては飲み込みの繰り返しだ。
この業界、同性同士の恋愛やセフレ関係など珍しくもなく、なんならアイドルグループ内で関係を持っている人間もいる。性別どうこうを気にするフェーズなど、ユキとのセックスを繰り返す中でとっくに終わった。
けれど。
〝オレ〟と〝ユキ〟がセックスしていたという過去は、今の自分に特大のダメージを与え続けている。
あの頃はそれが最善だと信じていた上、恐らく功を奏しもしているので、過去に戻って自分をぶん殴ることすら出来ない。
関係が終わってから丸一年経った今、冷静に省みれる分、苦しみに拍車がかかっている。
『期限は五年』の免罪符はもうなくなった。Re:valeの百として腹は括れても、春原百瀬個人として括れるかと言われれば、未だ完全にNOだった。
しかし前述の通り、ユキはオレとの過去などちっとも気にしていないどころか、五周年を迎えて以降、ご機嫌でいる時間がぐんと上がった。世界で一番大事な元相方かつ親友のバンさんと無事再会出来たのだから、当然といえば当然なのだけれど。
それ自体は素晴らしいことに違いないのだが、そのポジティブな要素がユキに妙な行動力を生み出していることだけは、単純に厄介だった。
今日だってそうだ。
早朝ロケの休憩中に、懇意にしているスタッフから合コンに誘われた。勢い勇んで「行く!」と返事をしようとした瞬間、隣でむにゃむにゃと寝ぼけていたはずのユキが「今日は無理だよ」と勝手に断りを入れたのだ。
まるで以前からユキとオレが約束事をしていたかのように繰り出された言葉に、スタッフは疑いもせず「ならまた今度!」と笑顔で去っていく。
呆然と背中を見送ることしか出来なかったオレは、隣から聞こえるあくびに意識を取り戻す。キッとひと睨みしてみるも、どこ吹く風と眠そうに瞬きをされただけだった。その横顔の美しさすら、ちょっと癪に障るレベルだ。
そう。ユキは最近、やけにオレを自分の傍へと置きたがる。イコール、合コンの誘いや飲み会の誘いをオレの許可なく断ってしまうのだ。そんなこと、到底許されたことではない。
当然再度約束を取り付け、ユキの制止を無視して向かうことも多々あるので、その度に喧嘩が勃発。おかりんの胃薬の総量は一日の摂取限度量を超えたらしい。
昔ユキが言っていた、同じレベルでなければ喧嘩は起きない云々を思い出す。確かに、ユキと肩を並べるようになってから喧嘩は激増した。果たしてそれが良いことなのかは甚だ疑問だ。血圧上がるし、喉枯れるし。心を許していないと有り得ない距離感に、未だ若干の戸惑いもある。
「モモ。拗ねてないで取りにおいで」
ユキの呼びかけに仕方なく起き上がる。今日は朝からのロケが押してしまったこともあり、実はそれなりに疲れてもいた。文句は言ったものの、仕事終わりにユキの料理を食べられるのは、幸せなことに違いはなかった。ビーフストロガノフにも、色とりどりのサラダにも、温められたバゲットにも、罪はない。
渡された皿を受け取って、リビングテーブルへそれぞれ配置していく。運ばれてくる料理を綺麗に並べていけば、そこは高級レストランに変身した。
甘く濃厚な香りのデミグラスソースの上に乗ったサワークリームはとろりと溶けて、焦げ茶に混じってマーブル模様を描いている。ぐうぅ、自然と腹が鳴った。子供舌なのか、デミグラス風の味が昔から大好きだった。ハンバーグも、ビーフストロガノフも、ハヤシライスも。全部好き。
数年前まで、包丁を握ることすら出来なかった人が、シェフ顔負けの料理を作れるようになってしまった。あの時約束した〝フレンチのフルコース〟だって、今なら本当に作れるかもしれない。
それもこれも、全部、全部オレのため。
嬉しくないわけなくて、なんなら死ぬほど嬉しくて、だからあんまり、オレのためになんて作って欲しくない。
一度失くしたはずのものを見つけるより早く、芽吹いてしまいそうな何かがあるから。
料理中に結いていた髪をほどきながら、ユキがオレの隣へと腰掛ける。それから、わざと顔を覗き込むようにして、誇らしげに言った。
「これでもまだ天ぷらの口?」
「……なんの話だっけ?」
ユキの、意外なほどに大きく硬い手のひらが、オレの頭をわしゃわしゃと撫でる。ご満悦で何よりだ。オレだって、ユキをよろこばせることが出来てとても誇らしい。
――だからあんまり、不用意に触らないでね。
ユキは、オレとの過去なんてなんら気にしてはいないだろうけど。
人に恋をするなんて、思っているよりずっと簡単なことなので。
用意してもらった食事をたらふく食べ、食後のワインをしこたま飲み、ほどよく酔っ払った。壁掛け時計の時間を確認して、そろそろかな、とショルダーバッグを手に取り立ち上がる。
その様子を見たユキが、目を丸くしながらオレを見上げた。気持ちよさそうにソファへと預けられていた体が、ゆっくりと前のめりになる。今にも寝落ちそうだったのだから、そのままの寝てしまってもよかったのに、と少し残念に思った。
「……え、どうしたの? トイレ?」
「いやいや、トイレに荷物持っていかないでしょ。帰るよ」
「は?」
ほんのりと赤く色づいていた眦がサッと色を無くし、薄縹の瞳が強く揺れた。それを意に介すこともなく、オレは廊下へとてくてく歩いていく。ユキも続くようにして立ち上がり、追いかけてくる。
こうなることが分かっていたから、寝ていて欲しかった。でも、流石にこれ以上遅くなっては、明日に響くのだ。
「なんで。泊まっていけばいいじゃない。もう二時だよ?」
「んー……」
ユキの言うことは尤もだった。けれど、ユキの家に来ることに決めてから、何が何でも帰宅することだけは決めていたので、今更その気持ちが揺らぐこともない。これはユキが嫌いな、意固地モードのオレだ。折角幸せだけが漂う空間だったのに、台無しにしてしまったことは申し訳なく思う。
ユキの「待ってよ」という言葉を振り切るようにして、玄関に並べていたスニーカーを脚に引っ掛ける。とはいえ、そう簡単に納得してくれるわけもなく、後ろから強く肩を掴まれた。ため息を噛み殺し、笑顔を作り振り向く。ユキの目は人を射殺せそうなほど、剣呑な光をたたえていた。
普段よりオクターブ下がった声で問いかけられる。
「……モモ、最近絶対泊まっていかないよね。理由は?」
「ほら、ユキの家ってずっといると帰りたくなくなっちゃうからさ、オレの可愛いお家が恋しいよーって泣いちゃうんだ」
「嘘だな。この前行った時、愛着ゼロの荒れ方してた。あんなの破局どころか付き合ってさえいないだろ」
「こ……心を入れ替えたんですー!」
大分苦しい言い訳に、ユキの形のいい眉が歪んだ。ここで機嫌を損ねすぎると明日からの仕事に支障が出ることを知っているオレは、次はもう少しマシな嘘をつくことにした。
「……っていうのは冗談で、一旦家戻って明日のロケの準備しときたいんだよね。それだけ!」
「明日のロケ、出発は昼過ぎだろ。朝、僕が家に送ればいい話だ。車出すよ」
「だーかーら、ユキにそんなことさせられないんだって!」
「ねえモモ、僕がなんのために車を買ったと思ってるの?」
思いの外大きな声を出されて、びっくりして固まった。ユキの表情がどこか必死さを帯びていたせいもある。オレが答える前に、ユキはその先を教えてくれた。
「モモがどこにいようと、迎えに行くためだよ」
どくん、と心臓が強く鳴って、気づかれないように「そっか」とだけ答えた。急激に体が火照っていくのを感じ、慌ててドアへと向き直る。ドアノブに手をかけ、ユキに掴まれた肩は振り払った。
「じゃあ、ごめん、今日はマジで帰るね」
「モモ!」
「ごめんねユキ、じゃあまた来週〜」
ガチャンッ、と扉が閉まる音に重なると同時に「モモ」もう一度名前を呼ばれた。
後ろ髪を引かれながらも、振り切るように首を振り、歩き出す。昔みたいに、逃げるように走ったりはしなかった。
火照った頬を手のひらで押さえて、瞼をぎゅっと閉じる。
(大丈夫、大丈夫……)
同じことの繰り返しは、もうしたくない。
*
ロケの準備がしたかったのは、半分嘘で半分本当だった。
何せ今回の仕事は、ソロで一週間以上地方に滞在する中長期ロケだ。雑にまとめた荷物を携えて、飛行機に乗り込み京都へと向かい仕事をこなしていたら、あっという間に五日が経過していた。
オレが翌日、ユキからの鬼電に恐る恐る出ると『帰ってきたら話がある』とだけ言われ、すぐに切られた。怒り心頭具合を肌で感じつつも、ひとまずはメッセージで了承の旨だけ伝えた。怒られるんだろうなあ。仕方ないんだけど。何を言われても、ごめんなさいって謝るしかないけど。
でも、ユキのことを責めない代わり、本当はオレのことだって責めて欲しくない。正当防衛みたいなもんなんだって、分かって欲しいのだ。だって、だってさあ。
「もう好きになりたくないんだもん……」
もんって。女子か。いや今更? 女子よりウェッティと噂のオレだし?
一人残されたロケバスでカーテン越し、窓ガラスに頭を預ける。湿り気を帯びた体からは、じめじめしたキノコがそこかしこに生えていることだろう。
好きになりたくない。
好きになるのはもう嫌だった。恋なんてしたくない。だってもう、五年の期限は無効になってしまったのだ。この先、何年あると思っている。
無期限の片想いなんて、とてもじゃないけど耐えられる気がしなかった。
だから最近は、飲み会も合コンもクラブハシゴもナイトプールも、何でもかんでも引き受けていたのだ。不毛な恋が芽吹くより先に、新しい恋が花咲けば、そんなにお手軽で有り難いことはないと思って。
それなのに当のユキが邪魔をしてくるのだから、困り果ててしまう。
「オレに好きって言われて困るのは、ユキじゃんね……」
嘘みたいに暗い声が出て、はは、と空笑いした。
シメリシメリ。ジメジメジメ。うざったい空気は一人の時にだけ出すと決めている。体に湿気を溜め込みすぎると、現場に本当の雨を呼んでしまうので。
でもそうだな、撮影の進行がいくらか遅れれば、ユキとの面談も先延ばしに出来るかもな? なんてことも考えたけど、それはいくらなんでも不誠実すぎるだろうと改める。
傷つけたいわけじゃない。最低でいたいわけもない。
ただオレも、傷つきたくないだけ。
暫く茫然としていると、買い出しから戻ってきたスタッフ達が次々にロケバスへと乗り込み始めた。オレは自身のバッドコンディションぶりを自覚しているので狸寝入りを決め込み、スヤスヤと寝息を立てるフリをした。
「あれ? モモちゃん寝ちゃってるね。ブランケット出してあげて」
「冷房は切らなくていいっすか?」
「うん、そしたら逆に暑すぎるから。膝にかけておいてよ」
「はい!」
N局きっての気遣い屋と言われるディレクターと、そのディレクターにくっついている新人ADの声が聞こえ、次いでふわりとブランケットがかけられた。その細やかな優しさに、涙が出そうになる。だからこの番組の収録好きなんだよなあ……としみじみと感謝の念が浮かぶ。ささくれた心には普段の数倍の癒やし効果があった。
あっという間に体はぬくぬくと温まっていき、狸寝入りが本当の眠気に変わっていく。出発したバスの緩慢な動きも相まってうつらうつらしていると、先程の二人の声が耳に届いた。オレの前の座席にいるらしく、内緒話もクリアに聞こえる。
「うっわ、ヤバい、こんな値段するんすか!? え、一晩で……!?」
「そうそう。でも本番アリともなるとこれぐらいは普通」
「ひえ……やっっっばいっすね……。流石ゲーノージン御用達……」
なんの話かなんて、すぐに分かった。紹介制のフリーの風俗嬢のことだ。
予約の前に身分証提示を義務付けられていることがほとんどで、芸能人は勿論のこと官僚や警視庁のお偉方の利用も絶えない。大体一晩30万から40万が基本料金とされ、嬢のレベルによっては50万以上もザラと聞く。ただしそれはあくまで「自由恋愛の一環」であって、「お礼」でお金を払っているテイはどこも変わらない。故に、足がつくクレジットカードの使用も不可。現金一括支払いが主流となっている。何度か紹介されたこともあったが、ユキとセックスしていた頃にはまるで必要を感じず、右から左へと聞き流していた。なんなら、さぞとんでもない手練手管で翻弄させてくれるんでしょうね、ぐらいの気持ちだった。
そこで唐突に、オレの頭にはひとつの疑念が浮かぶ。
そもそも、新たな恋をして女の子と付き合えるようになったとして、オレはちゃんとその子を抱けるのだろうか?
抱く側なんて、何年してないんだっけ?
(ヤバ、かんっぜんにやり方忘れてる……)
なんなら、高校生の頃の淡い恋愛の延長線上のそれが、果たして本物のセックスだったかどうかも怪しい。マシュマロみたいな触りっこ……ぐらいで終わっていた可能性すら否めない。え、オレって童貞だったの? いや流石にそれはないけど。ほぼほぼ童貞みたいなものでは?
サーッと顔面から血の気が引いたオレは、一も二もなく立ち上がり「ちょっと!」と目の前の二人に声をかけた。
そして七日目。
東京へ帰るまでの道すがら、オレは教えてもらった連絡先にメッセージを送っていた。
つつがなく自己紹介を終えると、早速今日から利用出来ると案内される。流石にロケからの直帰でそこまでの元気はなく、またすぐに使わせてもらう旨だけ伝えた。
スマホを握りしめたまま、荒れ放題の部屋の真ん中に鎮座するソファへとダイブする。
「……掃除、しなきゃな〜〜〜……」
箱ヘルではなくデリヘルならば、当然自分の部屋に呼ぶのが基本だ。勿論ホテルを利用することも可能だが、週刊誌の記者に張られていることが多い身では、例え時間差で入ろうがホテルの利用は気を使う。最悪セーフハウスで、とも考えたが、相手の倫理観と守秘義務を信じ、この部屋に嬢を呼ぶことにする。嬢だって、いくらアイドル相手だろうと下手なことは出来まい。なんのために一晩で何十万と払うのかという話だ。テクニックや体の出来以上に、そういう部分への担保として金を預けていると言った方が近かった。
利用したディレクター曰く『天国を見せてもらえる』とのこと。
……ユキとのセックスより気持ちいいこと、あるのかな?
使う部分が別だから、また違った快楽があるのかもしれない。
そうして無意識に比べていることに気づき、バカやろう、と小さく唸った。もう終わったことを、いつまで引きずるつもりだ。そのことを完膚なきまでになかったことにするために、誰かを抱こうとしるんだろうが。
暫くうつ伏せの状態で伸びていると、スマホが鳴り響く。このまま眠りたい気持ちをなんとか押し留めて、ノールックで画面をタッチし「はい」と無機質に答えた。相手が誰かなんて分かっている。
『……寝てた?』
「んーん。今帰ってきたばっかりで、ソファでね、死んでた」
『じゃあ、行こうかな』
「…………い、今から? ここは今、富士の樹海だよ。ユキを遭難させたくないよ」
『いいじゃない。死なば諸共だろ』
想像していたよりずっと穏やかな声で、しかし物騒なことを言ってくる。同意する気はさらさらないので返事はせず、マクラーレンを飛ばして我が家に探検へとやってくるユキを想像した。軍手を装着した右手には雑巾、左手にはクリーナー。綺麗な髪の毛はひっつめて、大きなマスクに三角巾がお似合いだ。
言い出したら基本聞かないのがユキで、そしてそれを止めるには大喧嘩が必要。今のオレには喧嘩出来るほどの体力は無く、早々に拒否するのを諦めていた。せめて洗濯物ぐらいはどうにかしなきゃ、と鉛のように重い体を無理やり起こすと、布擦れの音で気づいたのか『大丈夫だよ』と止められる。
「いや、流石にこの状態を見せるのは、オレの心が死んじゃうから……」
『死んだところで生き返れるでしょ。疲れてる体に鞭打たせることないよ。じゃあ、またあとでね。おやすみ』
「あ、ちょ……」
プツッと音がして、通話は終わった。マジで来るのか、と暫く呆ける。ゆっくりと緊張していた体が弛緩していき、ほう、と息を吐いた。
なんか、思ったより全然怒ってなかったな。
一週間という、長くもなければ短くもない時間が、ユキの機嫌をある程度宥めてくれていたらしい。労るような優しい声色が耳に馴染んで、一週間分の栄養を摂ったぐらいの充足感があった。
声を聞けたら嬉しいし、会えるならもっと幸せ。
それはもう、恋をしていようがしていまいが、変わらずにある事実だ。であるならば、敢えて恋をし直す必要なんて、無いはずだ。
まあ、今日ぐらいはいいかと、ソファの上で素直に意識を手放した。
ガー、ガー、という轟音で目を覚ます。見慣れる予定のなかった天井と、体には毛布。ぐっすり眠っていたからかぽかぽかと上がった体温が心地よかった。焦点を合わせるように視線を彷徨わせると、コードレスの掃除機を携えたユキが、ちょうど寝室から出てくる。
目があって、ふわりと微笑まれた。
……うーん。機嫌、いいよなあ?
「おはよう。よく眠れた?」
「うーん……うん……、どれぐらい寝てたんだろ……」
「三時間ぐらい? 僕が掃除をし始めてから二時間ちょっと経ってるから」
「……うぇっ?」
そんなに掃除させてたの!? と慌てて起き上がり辺りを見回すと、富士の樹海がモデルルームへと変貌を遂げた姿を目の当たりにする。こんなに綺麗な姿を、引っ越してから先見たことがなかったので、あっけにとられた。
「お、オレの洗濯物たちは、いずこへ……」
「もう面倒だったから全部クリーニングに出した。そもそも洗濯機に入れちゃいけない服ばっかりだったしね」
「し、下着も!?」
「うん。分けてられなかったから、こう、漁師みたいな感じで」
「巻き網漁……!」
流石に着用済みの下着類は洗濯機に放り込んでいたはずなので、洗濯後しまわずに放置していたものが再度洗われることになっただけ……のはずだ。頼む、そうであってくれ。と過去に自分に祈りつつ、のそのそとソファから立ち上がる。
雑多に置いていた資料や、ポストから回収して以降一切捨てていなかったチラシ。そして無限とも思えた洗濯物の数々とお土産物の全て。それらが一掃されると、こんなにも広くなってしまうのか、と驚く。お土産は恐らく、クローゼットの中にしまわれたのだろう。お菓子類は、賞味期限切れのものがゴミ袋に溜まっているのが見えた。
ポニーテールのユキが近づいてきて、
「掃除、ちょうど一段落ついたし、コーヒーでも淹れようか」
と頭を撫でてくれる。まだ完全に覚醒しきらない頭は、素直にそれを受け入れ、自然と喉を鳴らした。
満足げなユキの表情が眩しい。手が離れていくのが名残惜しく、キッチンへ向かう背中に思わず問いかけた。
「ユキ」
「うん?」
「……あのさ、話ってなんだったの?」
「……ああ、覚えてたんだ」
カウンター越しに言われ、ムッとする。ソファに座り直し、クッションを引き寄せてぎゅっと抱いた。このクッション、どこにあったんだろ?
「そりゃ、戦々恐々としてましたし……ッ?」
「へえ。じゃあ、一週間ずっと僕のこと考えてたんだ」
ユキの問いかけはちょっと意地悪だった。しかし認めざるを得ず、コクリと頷く。
「ビビりまくって、ちゃんと進行出来なかったかも」
「それはないよ。そっちのディレクターから連絡あって、モモのお陰で巻きで終われたって感謝してた」
「あー、そっか。次のゲスト枠ユキだもんね」
件のディレクターは、Re:valeとは長い付き合いになる。デビュー当時のユキの尖り方を面白がってくれた数少ない局スタッフで、あの頃捨てないでいてくれた縁でもって、今でもあのディレクターが関わる番組には優先的に出演していた。受けた恩はしっかり返すのがRe:valeの流儀だ。だから、五周年で辞めることにならなくて、よかったな、と今は思う。今回の中長期ロケだって、実現しなかった可能性があるのだ。その際の違約金諸々について、頭の片隅にあっても考えないようにしていたのも事実だった。
いつの間にか芳しい香りが漂ってきて、カップを二つ持ったユキが「詰めて」と言いながらオレの隣に座る。ずりずりと尻の位置をずらして、二人用のソファにきゅっと収まった。
クッションを放って、差し出されたカップを受け取る。
「はい、どうぞ。このカップも埃かぶってたよ。いいやつなのに」
「ありがと。これあれだよ、忘年会のビンゴの景品。いいやつなんだ?」
「宝の持ち腐れなレベル」
「あ、じゃあユキが持って帰っていいよ!」
「いや、モモの家に来るたびに使うよ。折角ペアのマグなんだから」
ソファはテーブルを挟んで二つ設置しているのに、ユキはどうしたって隣に座りたがった。見た目に反して、寂しがりやなのはずっと変わらない。
ずず、と濃い目のコーヒーを啜って、ほっと息をつく。それから、隣を覗き込んだ。
「で、話ってなんだったの?」
「へえ、そんなに気になる?」
「そりゃここまで露骨に話題そらされたらね……」
胡乱な目で見つめれば、ユキはほんの少し考える素振りを見せながら「なんかね」と続けた。
「色々あって、もう少し後でいいかと思ったんだよね」
「え、な、何。怖いんですけど!」
「そんな怯えるようなことじゃないよ」
「じゃあ今言ってよ」
「そこまで簡単なことでもないから」
「ひえ……やっぱり怖い……」
「ふふ、じゃあ暫く怖がっててもらおうかな」
からかうような口ぶりに、どう反応すれば正解か分からなくなる。
「……この前、無理やり帰ったこと言われるんだと思ってた」
逆に、それ以外である理由も分からない。けれどユキはオレの言葉を受け、きょとんとしてから軽やかに笑った。
「ああ、あれ? まあ確かに、きっかけではあったけど……別に、もう怒ってないよ」
「お、怒らないの!?」
「ははっ、なんでモモが驚くの。まあ『空気読めよ』とは思ったけどね」
「空気って、な、なんの……」
「さあ?」
ユキが意地悪く笑う姿は、まるで異星人だ。実は別の星に住まう王子様だったんです、と言われても全然驚かない。けれどユキは日本に住まうトップアイドルで、オレの相方なのである。色んな意味で凄いことだし、わけがわかんないよな、と思う。オレのこういった思考のスイッチも、きっとユキには理解できないんだろうけれど。
もはやユキは多くを語らないモードに入っているようで、これ以上言及したところで無駄なことは経験上分かっていた。その上だ。
「今日は泊まっていってもいいよね?」
絶対に断れないタイミングでのお願いをしてきたので、露骨に顔を顰めてしまった。
「……まだ掃除する気?」
「うん、スイッチ入っちゃった。ほんと、掃除しがいのある家だよね」
「お褒めにあずかり光栄ですぅ……。……さすがに、オレも、手伝ウヨ……」
「モモは冷蔵庫の在庫整理」
「ぎゃ! いっちばんめんどくさいやつ!」
嫌だ嫌だとぴゃあぴゃあ喚いてみても、ユキの中では決定事項らしい。
「冷蔵庫って、あまり他人が触るべきものではないでしょ」
「……ユキの冷蔵庫だと思ってくれていいのに」
「昔はそうだったけどね。今は、モモだけのものだよ。……残念だけど」
モモがそれを選んだんだから。
ユキの言葉に責める意図はない。けれど間違いなく寂しそうで、オレはバツが悪くなって自分の迂闊な言葉選びを恨んだ。
オレたち二人の冷蔵庫はいつだってスカスカで、その度に頭を悩ませながら、創意工夫で乗り切ってきた。なのに今となっては、もう二度と手をつけないだろう使いかけの食材が、冷凍庫に詰まりに詰まっている。
――オレは変わった。ユキも変わった。
あの頃に戻りたいとは、もう思えなくなってしまった。
だからオレは、自分の気持ちを永遠に突っぱねるしかないのだ。
結局夜通し掃除と在庫整理をしてしまったオレたちは、朝五時頃、気絶するようにベッドへと倒れ込んだ。かろうじてシャワーを浴びて着替えることまでは出来たものの、それ以降の記憶がない。
だから眠りに落ちる瞬間、ユキに抱きしめられたことに、気づかなかった。
目を覚ますと、至近距離に夢みたいに綺麗な寝顔があって、危うく悲鳴をあげかけた。すんでのところで両手を使って口を塞ぎ、心臓がバクバクと脈打つ音を聞く。
ユキの力ない手のひらがオレの肩からするりと解け、もう片方は腕枕状態になっていて、そこで抱きしめられていたであろうことに気づく。
(……うわ、もったいな……)
抱きしめられていた感触をひとつも覚えていないなんて、勿体ない。そう心底思ってしまって、なんだかなあと呆れる。
セックスをしたあと、生々しい匂いを追い出すように窓を開け、一緒にシャワーを浴びてから、同じ布団に入り抱き締めあって眠る。それが当たり前になっていた時期が、オレたちにはあった。
愚かさにややこしく悩み、終わるたび虚しさを感じるのに、夢よりも夢みたいなひととき。
ゆっくりと、白磁の頬に手を伸ばす。なだらかな曲線に指先を滑らせると、そこから毒が回るように痺れ始めた。
「…………モモ?」
目を閉じたまま、問いかけられる。そうだよ、の代わりにもう一度頬を撫でた。
ユキの双眸が開いていく瞬間が、スローモーションで映る。まるで映画のワンシーンのようで見とれた。閉め損ねたカーテンから朝日が差し込み、ユキの銀糸がきらきらと輝いている。
「まだ寝る?」
内緒話をするみたいに潜めた声には、なんとも言えない色が乗ってしまう。それに応えるように、ユキがすり、と体を擦り寄せてくる。高飛車な猫のような、甘える子猫のような、そんな仕草に懐かしさすら覚えた。
昔なら、背中に腕を回していただろう。
今はしない。
「……モモはどうする?」
耳元で囁くように告げられた言葉に、ぶるりと震えた。声が漏れなかったのが奇跡だ。
多分ここで、「まだ一緒にいたい」と言ってしまえば、オレたちはすぐにでもあの頃のやり方を思い出してしまえる。もう戻らないと思っていた〝あの〟空気が、今この場にはうっすらと漂っているから。
だからこそオレは、間違いのないよう、丁寧に、かんぺきな笑顔を作るのだ。
「もう、起きようかな」
空気を読むって、こういうことで合ってるはずだ。
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