ユキさんのことを「ユキ」と呼ぶようになったのは、セックスをするようになって一年ほど経ってからだった。
 確か、最中に呼び捨ててしまったのが最初。そこから日常会話でも時々口にするようになって、いちいちさん付けに戻すのも変だよと指摘されてからは、ユキ呼びのままにしている。ユキはとっくにオレを「モモ」と呼ぶようになっていて、始めこそくすぐったかったそれも勝手に馴染んだ。
 呼び捨てとか死んでも無理! なんて思っていたのになあ。
 まあ、散々セックスしておいて、今更呼び方で照れるも何もなくなってしまった、というのもある。体の距離が縮めば心の距離も縮むのは当然で、恋愛の危うさを孕まない分、この関係は相当建設的だ。
 Re:valeの夫婦漫才も確立しつつあった時分、仲良しアイドルの在り方としては正しく、ファンも当然喜んでくれる。『とうとう百ちゃんが呼び捨て……今日は呼び捨て記念日だ……』『なんでいきなり!? 絶対なんかあったんだって!!』憶測が憶測を呼んでそれなりの賑わいを見せたので、折角だし、とペアリングを着けることも提案した。ユキは二つ返事で了承してくれ、それが更なる憶測を呼んだ。一時的にラビッターのトレンドに載ったのは、戦略勝ちだ。エゴサをすれば、サジェストには「呼び捨て」と「ペアリング」が必ずあがるほど。大正解の花丸百点を叩き出し、大満足の結果となった。
『きっと初夜を迎えたに違いない』
 微妙にバズっている上、それなりに叩かれてもいるツイートが、トップツイートとして表示される。これにいいねを付けたらどんな反応が待っているか、考えるのはそれなりに楽しい。
 まあしかし、初夜はとっくのとうに迎えている。

 ユキが時代劇のエキストラに出た頃から、Re:valeの風向きは明らかに変わった。千葉志津雄の力添えもあって、ユキのドラマ出演が急速に増えていったのだ。
 いくら舞い込んだ大きめの仕事とはいえ、経験のほとんどない演技畑に躊躇なく足を踏み入れたのは意外だった。おかりんから打診の連絡があった時、オレはうっかり隣で大喜びしてしまって、そのせいであとに引けなくなったのかもしれない――なんて考えていた時期もあったけれど。
 後で聞いてみたら「モモのせいじゃないよ。モモのおかげ」とだけ返されて、頭の上にクエスチョンマークを乗せて終わった。
 ともかく。ユキの演技は素人のオレから見ても初心者のそれではなく、生まれ持っての勘の良さや才能、舞台度胸にオーラと、全てが揃っているように思えた。
 努力家の天才に太刀打ちできる人間なんて、この世にいるんだろうか。その上とんでもない美貌の持ち主である。改めて、オレの相方は最高だな、と鼻高々だった。

 バラエティ班の百と演劇班の千で綺麗に役割分担をこなしながら、二人揃えばバカをする。そんな芸風がお茶の間に受けたのは、運やタイミングを味方につけていたことも大いにあった。
 ゼロが消えてから暫く男性アイドルの氷河期が続いていた日本に、〝カリスマ性〟で売るのではなく〝親しみやすさ〟で売るアイドルが登場した。となれば、自ずと注目は集まる。
 何より、Re:valeにはユキという正真正銘のカリスマがいるのだ。
 時流にうまく乗れたことに間違いはないが、ここまでの道のりは必然でもあった。見つけてさえもらえれば、ユキは輝ける。オレはそれを、自分の持っている全てでサポートしていくだけだ。
 27時から30分弱という、とんでもない時間から始まったNEXT Re:valeも二周年を迎え、次の改編でとうとうゴールデンに進出することになった。
 業界の土俵に乗ることすら難しかった過去とは違い、同じ土俵で戦わせてくれる今、オレにも分があると言えた。
 何せここ二年、オレは人身掌握の術を磨くことに腐心していたのだから。


 故に、今日も今日とて古今東西飲み会行脚だ。
 一軒目はワインバル、二軒目は高級居酒屋、三軒目はビアホール。完全なるチャンポンで胃の中がひっくり返り、最後の店ではかなり長い時間トイレを占領した。それすら面白がってもらえるのだから、我ながら得な売り方をしたなあと思う。
『飲み会にはRe:valeの百が居てくれれば安心』という空気を作りたいという魂胆は、つつがなく成功している。その代わり、色んな物を失ってはいるけれど――自分の消費期限が決まっている分、さくっと切り捨てることが出来た。
 コネやパイプは、あればあるほどいい。いつどこで使うことになるか、何が必要になるかすら分からない業界だ。要望があれば即座に対応出来るよう、有り余るほどの手数が欲しかった。例え相手がグレーゾーンギリギリをいく、有名プロダクション所属の、極悪非道の道楽息子だったとしても、だ。勿論、何かを得るには対価が必要で、その対価に見合う働きをさせられることも往々にしてある。その全てがユキの知り得ないことで、一生知らないでいいことだった。
「捨て身だねえ」と道楽息子は言った。「そう見えるなら本望だよ」とオレは笑顔で返したはずだ。

 ユキとおかりんとバイト先と実家。その四件しか登録されていなかった新品のスマホには、もう数え切れないほどの連絡先が入っている。
 主要SNSもRe:valeの百名義で作り毎日欠かさず投稿して、時折ファンの子に返信するのも忘れない。
 これもまた、ユキには出来ないことで、する必要のないことのひとつだ。案外とおふざけが好きなユキは、たまにオレのアカウントにログインして、勝手に投稿したりもするんだけど。それもまたファンサービスに繋がっているので、ある程度は自由にさせていた。
 そもそもオレ関係の投稿ばっかりだから、炎上するどころか盛り上がるいっぽうだ。天然でやってのけるのだから凄いなと、素直に感心することも多い。
 とはいえ、まだまだ求めるほどの認知度からは遠い。ユキを見つけてもらわなければいけない人がいる。その人の目に留まるための努力を惜しみたくはなかった。
 だからこうして、バカのひとつ覚えみたいに飲み会に参加している。
 コネやパイプは勿論のこと、一番の目的は顔を売ることだ。Re:valeを覚えてもらわないことには始まらない。
 便器に顔を突っ込んでから、どれぐらいの時間が経っただろうか。さっきから尻ポケットに入れているスマホが何度も鳴っている。着信の知らせのあとに、二回メッセージが入った。着信用のメロディをユキ専用にしているから、すぐに分かる。
(……あ。帰りの連絡入れるの忘れてた)
 便器から顔を無理やりあげ、胡乱にタンクを見つめる。空っぽの胃袋に注げる水は手元になく、アルコールが薄まる気配はない。ゆえに、スマホを手に取る気力は戻らなかった。
 これが例えば、ユキじゃなければ、オレはすぐに見ていただろう。緊急招集に駆けつけるために、常にセンサーを張っているから。
 ちょっと前とは真逆だ。
 誰よりもユキからの連絡を優先していたオレは、もういない。戦い方を覚えてしまったから。
 ユキはそんなオレが、嫌で仕方ないだろうけど。


 前後不覚寸前の状態でアパートの階段をなんとか登りきり、鍵を取り出すことも面倒でチャイムを鳴らした。
 待ち構えていたように(実際待ち構えていたのだろう)、鉄製のドアがギイギイと悲鳴をあげながら開く。今の収入に全く見合わない古びた音が面白く、ケラケラと声をあげて笑った。
 その奥から、不機嫌を隠しもしないユキの姿が見えた。口をヘの字にして、おかえりの一言も言わない。着ているものは以前よりずっと上等で、古着屋で二着百円の服を大事に着ていた時代を思うと、感慨深くなる。
 それもつい一年半ほど前の話だと思うと、芸能界特有の目まぐるしさに恐れをなすこともあった。
 ユキから放たれる怒りの空気には全無視を決め込み、
「ただいまあ〜〜」
 と、へろへろの声で帰宅を告げた。覚束ない足取りのまま玄関へ体を滑り込ませると、ユキは心底気に食わなそうに三和土へと降り、オレの代わりに扉を閉めてくれる。吹き込んでいた風がやんで、部屋の暖かさにほっと吐息が漏れた。真っ直ぐ立っていられず、扉に背中を預ける。
 式台へ足をかけ、廊下に戻ったユキがオレに向き直ると、今度こそおかえりの代わりに声を聞かせてくれた。
「酒くさいんだけど」
「ん〜……そりゃ、飲んできたかりゃねえ」
 自分が思っていたよりよっぽど回らない呂律が可笑しく、更に声を出して笑うと、ユキがギロリと睨みつけてくる。眉間に刻まれた皺の深さで、不機嫌の度合いがよく分かった。
 なるほど。今日はなかなか、最底辺だ。どこに行ってきたか大体予想がついていて、だからこそ怒っている。
 これが例えばユキが世話になっている馴染みの星影タレント相手だったなら、マシだっただろう。
「モモ。帰りが遅くなる時には連絡しろっていつも言ってるだろ。もう二時だよ」
「さきにねててよかったのにぃ〜」
「……マジで酒くさいよ。……どうせアイツに会ったんだろ」
「え〜? アイツってだれ? TVSの社長と会食でしょー、CZ局のディレクターに呼ばれたでしょー、それと」
 わざとらしく指折り数えてみたら、ユキは痺れを切らしたように声を重ねた。
「ツクモは」
「……さいご」
「……そこでしこたま飲まされたな。あの男……ツクモの息子もいたんだろ?」
 ツクモの息子――月雲了を、ユキは以前から敵視している。全身から気に入らないオーラを出しつつも、オレがツクモ担当であることを理解しているので、いつももどかしそうだ。
 どうせちゃんと答えたところで不機嫌にさせるだけだと、誤魔化すように笑う。
「んはは、今日はおへやがあったかいですぞ〜〜」
「答えないなら家の前に放置してあげてもいいけど。明日の朝には凍死したモモが発見されるかも」
「ええ〜〜やだぁ〜〜〜」
 一歩踏み出して駄々っ子のように正面から抱きつくと、よろめきながらもしっかり受け止めてくれる。そのまま脱力し始めたオレの体を、ため息をつきつつ受け入れてくれるのだからユキは優しかった。
 酒で熱っぽくなった脇の下に白い腕が差し込まれる。そのままガシリと掴まれて引きずられたかと思うと居間に放り投げられた。うつ伏せで畳に寝そべったまま動かずにいれば、爪先がふわりと軽くなり、履きっぱなしだったスニーカーがあるべき場所に戻されたのが分かった。
 年代ものの畳に右頬をくっつけて、うっそり目を閉じる。
 あー、やっぱり、この家が一番落ち着くなあ。実家みたいな安心感。
 なのに。
 こんなにも思い出が染み付いたこの家から、オレたちはあと一ヶ月もしないうちに出ていく。引っ越しの際はひと悶着もふた悶着もあったけど、とうとう引っ越しの予定日が決まった。
 現住所が少し前からファンの間で噂され始め、有名掲示板で住所そのものが書き込まれことがきっかけでストーカー被害が加速した。それが発端となり、結構な問題に発展したのも一度や二度ではない。毎回訴えを起こすのも手間であること、何よりタレントの安全を第一に考えれば、事務所から引っ越しの打診をされるのは当然だった。
 それでもここに住み続けていたのは、単純にこの場所に愛着があったこと、何より二人の思い出を手放すようで、惜しかったからだ。
 しかし、いい加減手狭であったことも否めない。どれだけ掃除をしたところで、そもそもの部屋数が限られている。そこかしこから貰う手土産や賞品をしまう場所が無いせいで、居間の空間は圧迫される一方だった。
 そして某クイズ番組でオレがジープを当ててしまったのが、決定的だった。このオンボロアパートにバカでかい車を格納出来る駐車場なんて、あるわけもない。
 先月決めた新居は、それなりに見栄えするエントランスに、コンシェルジュもいる。当然ドアはオートロックだ。安心すると同時に、とてつもなく味気なく感じた。高級車を何台だって停められる地下駐車場も、寒々しくて好みではない。
 それに、どうせRe:valeを辞めたらすぐに引っ越すのだ。それゆえに、わりかし適当に決めた部屋だった。三年後、それなりの貯金はあるにしても、同じ家賃を払い続けられるとはとても思えなかった。

 玄関から戻ってきたユキがオレを見下ろしている。影で少しだけ暗がりとなって視界でむにゃむにゃとまどろんだ。
「……お風呂、は……無理だな。ほら、モモ。腕伸ばして」
「んん〜〜〜……」
 うつ伏せのまま腕をT字に広げると、ユキが無理くりダウンジャケットを脱がせてくれる。ロングシャツとインナー一枚になったオレは肌寒さを感じ、猫みたく体を丸めた。
「モモ、あと二回転したら布団だよ」
「うぅ……つれてってぇ……」
「寝転ぶぐらい出来るだろ?」
 呆れながらも、ユキはオレの体に覆いかぶさるようにして背中に腕を回し、しっかりと抱えてからすぐ隣の布団へとおろしてくれた。
 さっき引きずられた時にも思ったことだが、ユキはこの二年で、何より筋力を付けたように思う。時代劇の続投が決まってからの定期的なジム通が功を奏しているのかもしれない。通うこと自体には辟易としながらも、ちゃんと続いているのだから素晴らしかった。
 触れたら壊れてしまいそうだったユキが、頑張ればオレを持ち上げることすら出来るのだ。そんな機会があと何度あるかは、分からないけど。
 酔ったついでに、離れていこうとする腕を軽く引いた。ユキがオレの顔を覗き込むような姿勢になり、パチリと視線がう。簡単にキスが出来る距離だ。まどろみの目はとろりと溶けて、ユキを誘うような色を灯した。
 それでもユキは言い聞かせるように言う。
「……モモ、もう寝なさい」
 子供相手にするような言葉に、少しむくれる。気がなくたって、もう少し言い方ってものがあるだろうと。
「やだ」
「今日の酔い方、酷いよ。気持ち悪くなったりしてない? 大丈夫?」
「ねえユキ、いいから……」
 掴んでいた指をゆるく外し、覚束ない手付きで透き通るような白い頬に触れる。人肌のそれに指先が痺れて、酔いが少し冷めた。
「……ダメだよ。モモが吐く」
「いいじゃん」
「そういう趣味はないし、どうせ片付けるのは僕だ」
「ふふ、だいじょぶ、オレが片付けるよ〜」
「絶対嘘だな。寝落ちするに決まってる」
 頬に添えていた手に、ユキの手のひらがそっと重なり、制止するように下ろされた。
「……どうしてもだめ?」
「……おやすみ、モモ」
 ユキは有無を言わさず、オレの瞼を手のひらでそっと閉じた。毛布を体にかけられて、体の感覚が次第に消えていく。残念、あっという間に夢うつつだ。
 実のところ、ここ数ヶ月、セックスはほとんどしていなかった。ごくたまに抜きあいぐらいまではしても、準備いちいち大変だしね、と言われて終わり。オレは大丈夫なのに、と言っても、そもそもユキが乗り気じゃないのだ。
 時の流れによって、オレの〝お願い〟の効力はすっかりと消えてしまった。オレの偽りの寂しさはユキの手で拭われることはなくなり、ただの嘘だけが取り残された。
 初めてセックスをした日から一年は、利害の一致を感じていた。ユキは孤独を埋められ、オレは役に立て、お互いの精神状態は良好そのもの。
 しかし、次第にユキはセックス無しでも曲をコンスタントに生み出すことが出来るようになり、ドラマの仕事も順調にこなしていくようになった。女優陣から共演NGを食らう確率も飛躍的に上がっているので、今後は恋愛要素の少ない作品への出演が主になるらしい。刑事ドラマは人気があれば続編が作られ続けるし、そもそも主演がユキの時点で成功は約束されている。
 Re:valeの千として、役者の千として、正しい充足がそこにはある。
 オレの〝お願い〟で補填する必要など、もう無いのだ。

 だから。
 ――今日断られたら、もう終わりにしようと思っていた。
 オレから誘わなければ、ユキから誘われることもない。これからは別々の家に帰るとなれば、尚更機会は減るだろう。
 女性関係だって、今のユキなら綺麗なお付き合いが出来るはずだ。
 わざわざ同じユニットのメンバーかつ、準備に手のかかる男かつ、〝お願い〟をされているから抱くなんていうのは――ユキが得られるメリットが無さすぎる。続いていた今までが、奇跡みたいなものだった。
 それに。
 この関係が始まってから、一度だってユキから「抱きたい」と言われたことはなかった。
 オレの役目が全て終わり、ユキとバンさんのRe:valeに戻った時、「あれはモモのワガママだった」で終らせてもらえるなら、それに越したことはない。
 我ながら、あっさりとした、いい終わりだ。いちいち「終わらせよう」と口にすることも必要としなかった。
 そこで意識は手放した。何かが頭をふわりと撫でる感触が心地よかった。

 何かを失うのはとても簡単で、こんなにもあっけない。
 けれど今はその現実に、救われている。
 一番大事なものを手放すその日にも、あっけなかったな、と終われる自分でいたいから。


(ユキが、バンさんとのアルバムをめくっているのを見たのは、その二週間後だった。
 あっけなく終われるわけがないのだと、こんなにも早く思い知らされるなんて。
 握った拳に爪が食い込む。喉奥から血の味がした)

  *

 個人的な荷物がそもそも少なかったせいか、引っ越し作業は想像の数倍早く終わってしまった。すっからかんになった居間に二人で並びながら眺め、ほーっと息をついた。
「怒涛だったね」
「どんな業種もプロって凄いんだねえ。オレ、マジで立ってるだけだったや」
「それは僕のセリフでしょ。モモはちゃんとまとめて欲しい荷物のこととか指示してたよ」
「そうだっけ? 台風みたいだったから、もうなんにも覚えてないや……」
 敷金も礼金もなかった格安事故物件には、明らかにオレたち以外つけた傷もあった。せめてものお礼にと大家さんに許可を取り、これから簡易リフォームをしてもらう予定だ。
 オレたちが住んだことで晴れてこの物件も〝事故〟の字を取り除くことが出来ると大家さんも喜んでいた。とはいえ、暫くは誰も住まわせないらしい。確かに、Re:vale跡地として観光名所になりつつあるこの場所は、ほとぼりが冷めないと使い勝手も悪いだろう。
 お世話になりましたと頭を下げれば、あんなに迷惑をかけたはずなのに、大家さんは泣いてくれた。寂しくなる、また思い出した時に遊びに来て、という言葉に、勿論です、と心からの返事をする。
「リフォーム後、どんな感じになるのか気になるね。あの黒いシミ落ちるのかな〜」
「あれはもう呪いの一種だから、無理でしょ。確認する術がないのが残念だけど」
 そんな呪いと普通に暮らしていたオレたちは、相当図太いに違いない。返事の代わりに笑ってから、改めて感慨深く辺りを見渡した。
「オレたちが作った思い出、結局オレたちで一掃しちゃうんだな……」
「そっちの方がいいでしょ。この部屋のことは、僕たちだけの思い出でいいんだよ」
「……うん。特別感あっていいね」
 まっさらの畳に腰を下ろして、天井を見上げる。寝る前に必ず視界に入っていたシミや傷も、もう見納めた。すでに目に焼き付いている、一生忘れない思い出のひとつ。
 ユキもオレの隣に座り、同じように天井を見上げた。
「僕、モモと違って夜、眠れないことが多くて」
「ムム…!? オレだって眠れない夜のひとつふたつみっつ……!」
「ふふ、ごめんごめん。……だからさ、モモよりよっぽどこの天井に馴染みがあるよ。で、夜に呪いのシミを見ると、結構ゾワゾワするじゃない?」
 ユキが人差し指で差した場所は、真夜中みたく真っ黒に染まっている。30センチはあるだろうか、今のような真昼間ですら、じっと見ていたら本当に呪わそうなほど不気味だ。
 ひと目見てから軽く頷けば、ユキは楽しそうにオレの方を向いた。
「だから、モモの寝顔を見て、安心してから寝るのがクセになってた」
 数秒、何を言われたか分からずに停止する。
「……えぇ!!??」
「可愛かったよ。基本即爆睡するから、よくよだれ垂らしてて」
「ぎゃあああーー!! 何言ってんの!? ちょっと、止めてよ!! モモちゃんはモモちゃんが可愛くしてる時に可愛いって言ってもらえるのが一番嬉しいんだよ!!??」
「モモは素の時が一番可愛いよ」
「そ、それ、嬉しいけど、フクザツ……!」
 嫌だーッ、と畳に転がって悶ると、ユキの愉快そうな笑い声が何もない部屋を彩る。転がるオレの頭を、手のひらがゆっくりと撫でた。昔は怖くなるほど冷たかった肌が、今ではしっかりと人肌を取り戻していることに、毎回飽きもせず安堵した。
 まあでも、それとこれとは別だ。
「寝れなかったらなら、オレのこと起こして話し相手にしてくれればよかったのに!」
「出来るわけないでしょ。それに、モモの寝顔、幸せそうで好きだったから」
「すっ……き、とか言われても、恥ずかしいことに変わりはないんですけど……ッ?」
 ユキの何気ない一言に反応しかけて、しっかりと誤魔化した。おおらかなユキはオレの動揺などちっとも気づかず、あははと笑うだけだった。
 そういうところに何度も救われて、何度も歯噛みしたっけな。
「まあ、毎日のように見てたものが見れなくなるのは、寂しいけどね」
「……オレ的には、よかったーっとしか思えないけどね!」
「酷いこと言う」
「ユキの方がよっぽど酷いッ! 最後まで秘密にしといてよそこは!!」
 わあわあ一人で騒いでいると、「あ、そうだ」とユキがコートのポケットから何かを取り出し、オレに向かって握った手のひらを差し出した。
「うん? 何?」
 問い掛けながら、上半身を起こす。ユキの手の下に来るように、オレも自然と手を伸ばしていた。
「少し早いけど、誕生日プレゼント」
 コロン、とユキの手から落ちてきたものは、部屋の鍵だった。暫くそれを見つめてから、「嘘でしょ」と、思い当たる節を恐る恐る口にする。
「……え、もしかしてこれ、ユキの家の……?」
「そう。合鍵。僕に何かあった時のために、モモと、おかりんに渡すことにした。今出来る最高額のプレゼントだよ」
「いやいやいやいや、おかしいでしょ、貰えないって!」
「いつでも来てねってこと。ちゃんと受け取ってくれないと困る。僕はこれから四六時中、モモ不足になるわけだから」
「……そんな……」
 そもそも期限はあと二年だ。合鍵なんて大それたものを持っていいはずがない。
 それなのに、オレはその真新しい金属がひどく尊いものに思えて、ぎゅっと握り込んでしまった。だってこれは、ユキが言う通り、ユキ自身を明け渡してくれているようなものだ。
「大事にする……」
「大事にっていうか、ちゃんと使って欲しいんだけど。モモ、大事にしすぎてしまい込みそうだな……」
「使うかどうかは審議中です」
「は? それじゃダメ。使わないなら返してもらわないと」
「それはズルくないッ? 嫌だー! オレへのプレゼントだもん! 返却不可!」
 ユキがオレの手から合鍵を奪おうとするので、さっと躱す。ポケットからキーケースを取り出して、いそいそとしまった。二年したら返す宝物だ。今のうちに、百年分愛さなければならない。
 長財布のジッパーを閉めたところで、ユキが物言いたげにオレを見つめていることに気づき、「何?」と問いかける。
「……そんなに大事そうにされると、複雑」
「ええ? ユキ、情緒不安定さん?」
「一緒に暮らすことはあれだけ嫌がったのに、何が違うわけ? って話」
「全然違うと思うけど……?」
 引っ越しの話が出た際、一番に議題に上がったのは次も二人で暮らすかどうか、だった。勿論断固拒否を続けた結果、最後の最後にはユキが折れてくれる形になった。それを未だに引きずっているのだ。
 この話についてオレが取り合う気が無いと気づいたユキは、ムッとしたまま口を開いた。
「モモも、僕に渡すものがあるでしょ」
「え? ……なんかあったっけ?」
「はあ?」
 途端に不機嫌そうな声をあげられて驚く。思い当たる節が全くないので、ひとまずポケットを弄って出てきたガムを渡した。
「あれ、でもユキってこういうの食べるっけ?」
「食べないし、要らないし、全然違う」
「え、じゃあ何」
「等価交換って言葉、知らないの?」
「へあ?」
 特別間抜けな声を上げたところで、ユキの眉間にはこれでもかと皺が刻まれた。「なんですぐに思いつかないんだ」と責められているようでもあった。
 いや、そもそもこれ、誕生日プレゼントなんじゃないの。なんで等価交換が求められているわけ。
「……これの等価、見つからないんだけど」
「は? そんなの、モモの新居の合鍵に決まってるだろ」
「……えっ? オレんちぃ!?」
「なんでそんなに驚くかな……。モモがベロベロに酔っ払った時、誰が家まで送ると思ってるの」
「おかりんでしょ」
「例えおかりんが相手でも、僕の専売特許を譲ったりはしないよ。……まあ、たまにはそういうこともあるかもしれないけど」
 いやいや、全く等価じゃないし。そもそもユキ、車持ってないじゃんか。
 その問い掛けは、言葉にする前にすくい取られた。
「車はこれから買うし、最初に助手席に乗せるのはモモって決まってるよ。僕にとっては、モモの家の鍵、自分の家の鍵より大事だし。もっと早めの誕生日プレゼントだと思って渡してくれればいい」
「……冷静に考えて、ユキ。オレの家の鍵に、そんな価値ないよ」
「ああもう! いいから、スペアキーあるでしょ? 早く渡して。おかりんには新しく作って渡せばいいから。早く!」
 ずい、と手を差し出されて、意外な程の強引さに目を白黒させる。キーケースに適当に引っ掛けていたスペアキーを取り外し、そろそろとユキの手のひらの上に乗せた。受け取ってすぐ、日に透かすようにかざし、念入りにチェックされる。
「偽物じゃないよね?」
「お、オレのことなんだと思ってんの……」
「相方に合鍵を渡すことを渋るような冷たい男」
「いや、そりゃ、渋るでしょ! みんなそうだって!」
「僕の合鍵は嬉しそうに受け取ったくせに」
「ウッ……そ、それは、そうなんですけどぉ……!」
 そこを指摘されると痛い。ユキがオレの家の鍵をキーケースにしまい込む姿を見つめながら、ああ、本当に交換してしまった、と呆けた。
 何より厄介なのが、ユキがこうも強く合鍵を求めてくれた事実が、恐ろしいほどのよろこびをオレに与えていることだった。
 難儀だなと思う。もっとうまいこと、自分の厄介な感情を飼い慣らしたいのに。
 キーケースをポケットに戻したユキが、仕切り直すように言った。
「よし、そろそろ行こうか」
「んえ? あれ、どこか行く約束してたっけ?」
 ユキが先に立ち上がり、ぱぱっと膝を払ってから伸びをする。同じように立ち上がって、オレも真似するように体を伸ばした。
「おかりんの分のスペアキー、作りにいかなきゃ。今日渡すって約束してたんだよね」
「え、オレに先に渡しちゃったの?」
「? そりゃそうでしょ。モモが一番だよ」
 それが当たり前であるかのように、ユキが言う。またしてもよろこびを注がれて、きゅうと心臓が音を立てた。
「……うん、行こっか。今日はオレ、このあと何もないから作ってもらってる間にご飯も食べようよ」
「いいね。この前紹介してもらったワインバル、良さそうだったよ」
「昼もやってるかなぁそこ」
 鉄製の扉の前に立つ。一度替えたドアノブは、メッキがところどころ剥げていた。カーテンを失った窓から真昼間の日差しが遠慮なく差し込み、玄関は明るく照らされている。
 もう、二人でくぐることのない扉。二人で帰ることのない家。
 思い出が全てのここにあった。
「あんまり、実感ないな」
「……新居も楽しいよ、きっと」
 ごめんね、ユキ。
 寂しいって、言ってあげられない。

 言ったら最後、戻れなくなりそうで。




 


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