あの日から二週間が経った。
今日も変わりなくバイトをこなしてはレッスンに足を運んでいる。
変わったことと言えば、アパートの鍵だ。社長が勝手に手配して、つい今しがた付け替えが終わった。赤の他人が家に上がったことは事実だとしても、盗聴器の設置調査まで入り面食らってしまう。まだ駆け出しのアイドルである自分たちに、ちょっとやりすぎじゃないかとも思ったけれど。それぐらい、大事にされている証拠でもあった。
それなのに、
「これも出世払いだな」
社長の言葉はユキさん〝だけ〟に向けられていて、オレは恩を忘れて露骨に顔を顰めてしまった。
けれどユキさんは、そうすることが当然のように深々と頭を下げる。しっかりと90度に腰を曲げ「有難うございます」と言った。それが心からの言葉だと、誰もが分かるような後悔と、誠実さがあった。
ユキさんにこんなことさせるぐらいなら、オレが土下座しますと、本当は言いたかった。当然言ったところで、ユキさんのプライドを傷つけるだけだ。気持ちを落ち着かせるように、拳をぐっと握りしめた。
なんで、どうして。二つの言葉が頭の中でぐにゃぐにゃと反響して、酔いそうになる。酷く気分が悪かった。明らかに不服そうなオレの態度は、褒められたものではなかっただろう。
けれど社長もおかりんも、そんなオレを見て、何か言いたそうにしながらも、何も言わないでいてくれた。
業者が去り、社長とおかりんが去って、真新しい鍵を握り締めながら、オレたちは二人で玄関先に立ち尽くしていた。
「本当にごめんね」
真昼間でもユキさんの声は寒そうで、悲しくなる。気にしないでくださいと言いたくて、ギリギリのところで飲み込んだ。そう声をかけても、結局はユキさんを傷つける。
『本気で、気にしないでいられるような人間だと思うの?』
――そう問わせてしまっては、元も子もない。その代わり、首を一度縦に振る。せめてオレだけは、真昼間の陽光のようでいなければ。ユキさんの「ごめんね」を受け入れるフリをして、納得したみたく振る舞って、パッと顔を明るくさせるのだ。
……あんなことがあったのにもかかわらず。
「じゃあ、買い出し行きましょうか!」
ユキさんの眉が八の字に下がって、何か言いたそうな気配を悟った。先手を打つように「セールの時間終わっちゃいますよ!」と被せ、続く言葉は生まれる前に殺した。
オレはこれ以上、謝罪の言葉を聞きたくない。謝られる度に、悲しみが蓄積していくから。オレでは溶かしきれない氷塊に押しつぶされて、二人から体温を奪ってしまうことが恐ろしかった。
オレのあからさまに作られた無邪気さを前に、ユキさんが力なく笑う。何もかも気づいている顔。そしてオレは、そのことに気づいていて、気づかないフリを重ねている。
ユキさんの後悔をオレの嘘で挟んでも、オセロみたいにひっくり返ったり、掛け算みたくプラスになったりはしない。ただただ、ミルフィーユのように層を作り上げ、嵩ばかりが増していくだけだ。
不健全だなあと思う。でもそうする以外に、まともに会話をする方法を知らないのだ。
「……うん。そうだね、急ごう」
寂しそうに笑うユキさんは、オレがどれだけ近くにいても、ひとりぼっちだ。
オレも、ユキさんからは、そう見えているんだろうな。
今この場所に、たった二人なのに。
――二週間前の夜ことは、お互いの中でタブーとして扱われている。
女性を連れ込んだ事実についても、今日で清算は終了だ。
そう考えると、今回の鍵交換の件は、社長からユキさんへの激励とも取れた。ユキさんのケジメのために、あえてオレの前でユキさんに頭を下げさせたんだろう。それで救われた何かが、きっとあると信じたかった。
真新しいドアノブに手をかける。
昼間の日差しが暗がりの玄関を照らした。なんだか今のオレたちには不似合いに思えて、〝駆け出しアイドル〟なのになあと口元が歪む。
せめてユキさんだけは、この光のなかでキラキラと輝いていて欲しい。
だからオレは、オレに出来る範囲の、出来る限りの努力をするしかないのだ。
一歩踏み出す。軽快な足取りとは言えなかった。
*
今週はいつにも増してバイトが忙しく、家のことが疎かになってしまった。金曜の夜、オレはヘドロみたいになりながら玄関をくぐった。
洗濯物はユキさんが担当してくれているお陰で極端に溜まるようなことはないものの、包丁を扱えないユキさんの代わりに、野菜を切る役目はオレの担当だ。なのに、今週はそれすらままならなかった。必然、ユキさんに任せることになる。
食材も買い足せていないせいで、冷蔵庫は空っぽだ。ユキさんが一人で買い出しに行くことはなく、それはオレが「しないで欲しい」とお願いしているからだった。重い荷物を一人で持たせることがまず耐えられないし、その時間で一曲でも多く作って欲しいという、単なるオレのワガママだった。
今週のダメさ加減に自分を責めながら必死に頭を下げて謝ると、ユキさんはあっけらかんと「野菜はキッチンバサミで切るからいいよ」なんて言った。
思わず頭を上げて、え、と声を漏らす。
「き、キッチンバサミ……?」
「葉物なんて手で千切れるし」
「…………」
「人参とかキュウリとかはそのまま齧りつける。カボチャはまるごと蒸せば柔らかくなるしね。意外と、包丁なくてもなんとかなるよ。……だからモモくん、そんな顔しないで。冷蔵庫も今日で丁度スッキリしたし、明日、一緒に買いに行こう」
「…………、はい……」
スーパーの投げ売りで手に入れた傷物の人参。外側の葉が傷んでいるレタス。ひとつまるごと買うには高級なキャベツ。有機野菜のゆの字もないそれらを、味付けもそこそこに、ユキさんは一人で食べている。せめて隣で一緒に食べたいのに、バイトに忙殺されてそれすら出来ない。
何させてんだろう。
スポットライトに照らされた舞台に立ち、全身から発光するみたく輝いて、歌って踊ってファンを魅了する。それがユキさんの役目なのに。
好きな歌を、好きなだけ歌っていて欲しい。ただそれだけなのに、叶えることがこんなにも難しいなんて。
アラームも何もなく、自然と目が覚めた。
しばらくぼんやりと意識の淵をさまよって、はちはちと瞬きを繰り返しながらゆっくりと脳を覚醒させていく。
寝返りを打って枕元のデジタル時計を見た。Saturday/AM6:00、蛍光グリーンに光る文字の意味を数秒後に理解してから、ふああ、と軽くあくびをする。昔からの早起きのクセは、この生活になってもなかなか抜けなかった。新聞配達のバイトの時に、この体質を重宝したっけ。
昨日はかろうじて風呂に入った記憶まではある。その後あえなく撃沈したらしく、布団はユキさんが敷いてくれたようだった。
そうだ。今日は夕方からバイトの予定があるから、早めに買い出しに行かねばならない。一緒に買いに行こうと言ってくれたものの、ユキさんは午前中に行動出来るだろうか。
一日のスケジュールを頭の中で組み立てているうちに、意識は大分クリアになった。まだ連日の疲れが残る体で、のっそりと上半身を起き上がらせる。
ぐっと両腕を天井に伸ばし、片腕の関節を反対の肘にひっかけるようにして力を入れた。そのまま体を横に倒してから、反対側にも倒す。肩も背筋も、体の側面もほどよく伸びて気持ちがいい。鼻から息を吸い込み、口から吐く。オレの朝のルーティーンだった。
「……あれ?」
そこでやっと、隣の布団が空っぽなことに気づいた。
こんな早朝にユキさんが起きていることは珍しい。トイレにでも行っているのだろうかと視線を彷徨わせると、キッチンが明るいことに気づいた。
そこにユキさんが居ることは分かっても、何をしているのかが分からない。水を飲んでいるのか、小腹が空いたとか?
でも、冷蔵庫は空っぽで、何も無いはずだ。足音を立てないように近づき襖から顔を覗かせた瞬間、――時が止まった。
「……え?」
シンクを前に、ユキさん背中が目に入る。
右手には包丁が握られていた。
「なっ…………!」
大声をあげかけ、すんでのところで堪える。慌てて駆け寄って、硬直しているユキさんから、半ば無理やり包丁を奪い取った。
突然のことに、ユキさんが目を見開いてオレを捉える。お互い同じような顔をしながら、暫く動くことが出来なかった。
は、は、と呼吸が浅くなり、心臓がバクバクと鳴る。包丁を持つ手がガタガタと震えた。
「ゆ、ユキさん、なんで、何を……」
「何って、トマトを、……」
切ろうと。
朝の冷えた空気に消えてしまった言葉をなんとか拾い上げて、改めて「なんで」と問いかける。キッチンバサミでいいよって、言ってたのに。
先端恐怖症のユキさんにとって、刃物の切っ先など最も恐ろしいものであるはずだ。調理器具は先が尖ったものだらけで、常日頃から出来るだけしまいこんではいるものの、キッチンにはあまり近づかないで欲しかった。
剥き出しの包丁を持ち続けているだけでも脅かしてしまうと、シンクの棚にしまい込む。ユキさんはそれをどこか悲しそうに見ていた。
改めて振り返り、視線だけで問い掛ける。
――なんで?
それを受け止めたユキさんが、はあ、と浅く息を吐く。
「モモくんは傷ついてるんだろうな、と……思って」
「……え?」
予想外の言葉に、反応が遅れた。
「昨日、キッチンバサミの話した時、凄く辛そうだったから。ああ、こんなんじゃダメだって思ったんだよ。せめて包丁ぐらいは扱えるようにならなきゃって」
「そんな、そんなの、……」
必要ない。
そう言い切ることで、ユキさんの努力を無視することは簡単だ。しかしそんなことが出来るはずもなく、だからといってオレのために無理をして欲しくない。
うまく言葉に出来なくて、黙ることしか出来なかった。
「――せめて」
この人の瞳は、真夜中の色をしている。
「せめて、君の役に立ちたい」
昏い瞳に映し出されたオレは、笑えるぐらい酷い顔をしていた。
*
その日から、ユキさんは震える手で包丁を扱うようになった。
とはいえ、たまに気を失いかけることがあるので(迷走神経反射と言うらしい)、必ずオレが見ている前でだけ、と約束してもらっている。
一度や二度のチャレンジでは、とてもあのトラウマを払拭することは出来ない。血の気の引いた顔で、冷や汗を垂らしながら野菜に立ち向かうユキさんは、それでも絶対に止めようとはしなかった。
ギターを掻き鳴らす指が、時折包丁で切れてしまう時もある。ユキさん以上にオレが悲鳴をあげて、ショックで泣いてしまうこともあった。結局オレが慰められ、宥められ、情けなさに凹んで、それでもユキさんは包丁を手に取る。繰り返しだ。
食卓に並んだ不揃いのトマトに塩をかけ、ユキさんは笑う。
「昨日よりは薄く切れた気がする」
「た、確かに……?」
「モモくんが泣いた数だけ、僕にスキルが備わっていくのかも」
「そんなシステム、絶対に嫌です……」
絆創膏だらけの指を見て、また泣きたくなった。ユキさんはそれにも機嫌よく笑うので、オレはもっと変な顔をして、無言で返事をすることしか出来なかった。
こんな風に指を痛めつけるユキさんの原動力は、未だ『モモくんの役に立ちたい』だ。生きて、息をして、動いてくれているだけで、ユキさんはオレどころか世界の役に立ってるのに。その上、最高の曲を生み出して人を幸せに出来るのに。
「モモくんって、明日ってなんのバイト? 何時に帰ってくるんだっけ」
「あ、ええと、朝イチで新聞配達のバイト行ってからファミレスでランチタイム入ったあと、ワークショップに行く予定です。夕方には帰れると思うんですけど、お腹空いたら先に食べててください」
「なんで? 一緒に食べようよ。ポトフ、挑戦しておくよ」
「それはオレが見てるとこじゃなきゃダメです!」
「うん。だから、ご飯食べ終わったら下ごしらえ監視してて」
「……うぅ……」
「いつか、フレンチのフルコースが振る舞えるぐらい上達するから。ちゃんと、ずっと見ててね」
冗談みたいな言葉は、きっと本心だ。そんな優しさを前に、拒否することは出来なかった。それに、ユキさんが作ってくれたご飯を同じ食卓を囲んで食べれることは、申し訳ないながらも、心からの幸せでもあった。
そしてそれは全部、オレのためなのだ。オレだけのため。
――ユキさん。そんなのダメだよ。
もう二度と思い出さないと決めたあの夜のことを、思い出しそうになる。オレが失敗した理由。オレの本当の気持ち。
心臓が、色んな方向に引っ張られて痛い。
ひた隠しにした想いが顔を出しそうで、力いっぱい押し戻した。
――調子に乗っていたのかもしれない。だから、バチが当たったのかも。
神様なんて居ないと何度も絶望しながら、こういう時だけは、神様ってしっかり見てるんだなあと、しっくりきたりもする。
少し長引いたワークショップを終えたのは、十九時を過ぎた頃だった。スタジオから家までは徒歩で二十分程度。ユキさんに『今から帰ります』とLINEをすると、『気をつけて帰ってきてね』とすぐに返事が来て、ホッとする。今日もユキさんは、無事に一日を過ごせたようだった。
オレも早く帰らなきゃと帰路を急ぐ。鍋に入ったポトフを想像して、ぐうぅ、と素直な腹が鳴った。
不揃いの野菜がゴロゴロと入ったポトフは、業務スーパーで大安売りしていたソーセージも沢山入っていた。肉はオレの専門だから、ユキさんには人参を沢山あげよう。味付けは素材そのままでも、塩辛くてもなんでもよかった。作ってくれたという事実だけで腹が膨れる。
いつの間にか、歩調は小走りのそれになっていた。等間隔に設置された防犯灯の青白い光が夜道を照らす。そろそろ十一月に入る頃、例年より早めに訪れたらしい寒波が体を冷やした。正面から吹く北風にぶるりと体を震わせ、衣替えについて思いを馳せた。秋服はもう要らないから、古着屋に冬服を買いに行かなきゃ。暫く使えるように、少し高くてもダウンを買った方がいいかもしれない。ユキさんは寒がりで、冬を特に苦手としているから。
そんなことを呑気に考えていた。その時だった。
「あ。……百くん?」
アパートまであと数十メートル、というところだった。
完全に気を抜いていたオレは、暗闇からの突然の問い掛けに「ヒッ」と小さな悲鳴をあげてしまう。随分と情けない声に、声の主は喉を鳴らすように笑った。聞き慣れない女性の声。
足を止めて、辺りを見回す。すると、進行方向から、ゆっくりと人影が現れ――……
息を呑んだ。
「こんばんは」
「…………あ、…………」
そこには、にっこりと微笑みをたたえた、〝あの時〟の女性が佇んでいた。
ゆるくパーマをあてた黒髪のロング。ショート丈のタイトスカートからすらりと伸びた脚はほどよい肉付きで、ユキさんほどではないけれど、肌も真っ白。
彼女は、まるで芸能人のように綺麗な顔立ちをしていた。記憶の中でのっぺらぼうだった顔が上書きされ、それがまた、あの時の質感よりリアルにさせる。無理やり蓋をしていた記憶が無理やり引っ張り出され、今まで以上に鮮明に思い起こされた。
百くん、とオレを呼ぶ声はなんだか得体がしれなくて恐ろしかった。名前を知られている事実も。
「……何か、用ですか」
強張った声に、女性がケラケラと笑う。オレが怯えている様子を楽しんでいるようだった。かつ、かつ、とハイヒールがコンクリートを蹴る音が二回。少しだけ距離が縮まって、オレはその分後ろに下がった。
「千、元気かなーって。いきなり連絡つかなくなっちゃったから、心配で」
「……心配?」
「うん。だってヤリ足りてないでしょ、絶対」
「……ッ」
その言葉選びには、明らかな悪意があった。容赦のない不意打ちに、胸が潰れた。
オレが動揺したのを見て、重そうなまつ毛をのせた瞳が弧を描くように細められる。ぬらぬらと光る赤い唇が、グロテスクにさえ思えた。
怖い。
これ以上何も聞きたくない。
なのに、一歩も動けない。
「アイツ、女全員切るつもりみたいでさ。全っ然連絡取れないの。多分ブロックされてるんだけど、散々相手させといて用無しになったらポイだよ? ひどくない?」
「……」
「はーあ。……何回しゃぶったと思ってんの、マジで」
オクターブ下がった声に背筋を寒くさせる。表情は笑顔のままなのが、恐ろしい。
オレは何も言えず、立ち尽くすほかなかった。
だってこれはユキさんの問題で、ユキさんの責任だ。オレは死ぬまでユキさんの味方だけど、ユキさんの行動全てを肯定することは出来ない。それを、ユキさんが望んでいないから。
だからといって、この女性に寄り添うことも出来なかった。オレを待ち伏せして、害意ある言葉をぶつけて、一体どうしたいのだろう。
オレの表情で何かを察したのか、女性は声のトーンを元に戻して、途端に軽やかな口調で言った。
「あ、別にユキを殺してやろうとかは思ってないよ? それで人生棒に振るのもバカバカしいし……。だからもう、家にも行かない。様子を知りたいだけなんだよね。アイツ、元気してる?」
身を守るように、肩にかかったリュックの紐を両手でギュッと握った。
――元気にしてる、だって?
「……分からない、です」
「は? ナニソレ。一緒に住んでるんじゃないの?」
「一緒に住んでたって、本当に元気かなんて、分からないですよ」
言っていて、やりきれない気持ちになる。しかし、オレの本心からの言葉を、彼女は煙に巻こうとしていると判断したらしい。
わざとらしい相好が崩れて、不愉快そうな表情に変わった。
「あっそ。一回セックスさせてやればちょっとは元気になるのにね。百くんはそれ、出来ないもんね」
「……」
「出来ないんだから、こっちに戻してよ。セックスだったら、私の方がよっぽど役に立つよ」
「…………は、……」
耳を塞ぎたくなるような言葉の羅列に、否が応でも想起させられる映像がある。頭を振って、そちらへの意識をなんとかそらした。こんなのは、ワザと言っているだけだ。オレをおちょくって楽しんでいる可能性すらある。
確かにオレは、彼女たちがしてきたようなことは、ユキさんには出来ない。なんなら、出来ると勘違いした上、拒否までした最低の男だ。
だからといって。
〝戻す〟というような言葉を使う相手に、ユキさんを連れて行かれるわけにはいかなかった。ユキさんはモノではない。生きている人間なのだから。
そしてオレの、神様なのだから。
喉にぐっと力が籠もる。強張りながらも、確かな音で伝えた。
「なら、オレが出来ることを、探すだけです」
「……はあ?」
「……今度また待ち伏せするようなら、警察呼びますから」
その言葉に、綺麗に整えられた眉が、不快そうにぎゅっと寄る。
「あのさ、マジでウザいんだけど。何様?」
「……ユキさんは」
吐き捨てるような言葉のあとに続ける。オレの声色が落ち着いたものに変わったことに気づいたのか、彼女がふいにオレを見た。
視線が合う。
「モノじゃない。ちゃんと生きた、人ですよ」
元気かどうかは、分からない。オレが断定してはいけない。でも、確かに生きている。生きてそこにいてくれている。確かな音を紡ぐ、その日のために。
それ以上続ける言葉は無かった。そもそも優しい言葉をかける気はなかったし、心配しないで、大丈夫だから、安心して、これからはオレが傍にいる――そのどれも真実ではない。寄り添える時間にすら、リミットがあるような相方だ。
そんなオレを、力不足に感じているのは、誰よりも自分自身だった。
投げられた言葉を彼女は受け取り損ねたのか、あるいは拒否したのか。表情は固まったまま、そこから微動だにしなかった。
今度はオレが、コンクリートを蹴る番だ。彼女の横を通り過ぎ、足早にその場を去る。
「……うざすぎ」
小さく漏れ聞こえた声は、力なく響く。
すれ違いざまに漂ったムスクの甘さが鼻について、しばらく離れなかった。
ドアノブにかける手がバカみたいに震えそうになって、二・三回、ぐーぱーと手を握ったり開いたりしながら呼吸を整える。
金属製のそれに手をかけ、ガチャリと回した。
「わっ、いい匂い!」
玄関に入った途端、コンソメの香りが漂っている。くんくん、とわざと鼻を鳴らして、犬みたく装った。そんな様子を見て、キッチンで準備をしていたユキさんが軽く笑う。
「モモくん、おかえり。遅かったね」
「ただいまです! すみません、ちょっと寄り道しちゃって……」
「どこ? コンビニ?」
「そんな感じです!」
ふうん、とユキさんは不思議そうな顔をしながらも、それ以上言及されることはなかった。オレは笑顔を貼り付けたまま、急いでリュックを置き、上着を脱ぐ。まだ鼻に匂いがついているようで、バタバタと洗面所に駆け込み、電気もつけずに手早く顔を洗った。
石鹸の匂いで甘ったるい香水を上書きし、そこでやっと息をついた。
…………本当に、心配してただけなのかもなあ。
自分が彼女の立場だったら、確実に心配するし、不安になる。何がきっかけで爆発してしまうか分からないような状態を、彼女あるいは彼女たちも、見てきていたのだろうから。
だからといって、この場所を譲る気はさらさらない。
洗面台の前、濡れた顔を鏡に映す。
――一回セックスさせてやればちょっとは元気になるのにね。百くんはそれ、出来ないもんね。
ガラッ、と洗面所の扉が開いて、びっくりして肩が跳ねた。
「電気ぐらい付けなよ。ポトフ、もう出来てるよ」
「――やった! 今いきます!」
タオルを腕に引っ掛け、がしがしと顔を拭く。
笑顔の裏で、冷静な部分が囁いた。
……いい加減、覚悟を決めたらどうだ?
眠らずに迎える朝があることを、今日まで知らなかった。
大事な試合の前日も、初めてユキさんと布団を並べた日でさえ、いつの間にか眠れていたというのに。
見つめる視線の先には、天井に染み付いた真っ黒な闇。事故物件にお決まりの消えないシミを、その日初めて、何時間も見つめていた。
彼女の言葉が頭の中を何度も回って、着地しない。ぐるぐるぐるぐる、何度も何度も反響して、目が回りそうだった。
ひたすら、考えていた。ユキさんとオレにおける、関係の最適解について。
ユキさんは、オレの〝役に立ちたい〟と言い、包丁を握った。
オレへの負い目から、その罪滅ぼしをしているように思える。オレの役目はひとつ減って、その結果バイトやワークショップにあてられる時間が増えた。生活の水準が、ほんの少しだけ上がった。
そして何より、ユキさんは教えてくれた。
鍋にお玉を突っ込んで、かき混ぜているような何でもないような時間。時々音が聞こえるようになったと。
ポトフを食べながら、どこかホッとしたように。
「その音を一音一音繋ぎ合わせれば、メロディになるかも」
ユキさんからオレへの罪滅ぼしが、巡り巡ってユキさんを助ける何かになっている。
オレの心は苦しいままだけれど、結果自体は出ていた。
なら。
その前提に於いて、この考え方もある種の正解だと思うのだ。
――オレがユキさんに〝抱いて欲しい〟と懇願するのは、どうだろう?
一緒に湯舟に浸かった日のことを思い出す。オレが、女の人の代わりになれるだのとのたまったあの日。
ユキさんはその言葉に倣うように、オレにキスをしようとした。キスが出来ていたなら、恐らくそのまま抱いてしまうことだって、ほんの少しは考えたはずだ。
ユキさんは、気持ちがなくてもキスが出来るし、セックスも出来る。孤独を埋める手段に、感情は関係ない。オレ相手でも、一抹の寂しさは埋められると〝思ってくれた〟のだ。
でもそれを、オレは拒否してしまった。ユキさんに恋愛感情を持ってしまったが故に、体だけの関係を心が拒否したのだ。すぐに耐えられなくなると、もっと迷惑をかけると、理性が察した。
だから決めた。
どうせ自分の手で終らせることの出来ない恋だ。あっても邪魔なだけのそれを、まずはユキさんに壊してもらおう。そしたらきっと、オレはもっと役に立てる。純粋にユキさんを慕うだけの、信徒になれるのだ。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、仄暗い部屋のほんの少し色づかせる。どこからともなく聞こえてくる彼女の声。
――百くんは出来ないもんね。私の方がよっぽど役に立つよ――
目を閉じて、深呼吸する。
オレの「役に立ちたい」と言ったユキさんは、オレが「抱いて欲しい」と願えば、きっと叶えてくれるだろう。包丁を握ったあの時のように、罪滅ぼしと果てしない善意で。
その瞬間、オレの恋は木っ端微塵に砕け散って、再起不能になる。好きな人に好きになって欲しいと求めるより先に、ろくでもない願いを叶えさせるのだ。
要はきっかけが欲しかった。もう一度やり直すチャンスが。
そうして愛の伴わないセックスを体に覚えさせることが出来たら、オレの役目は果たされるだろう。
その行動がユキさんをどれだけ呆れさせようと、あるいは軽蔑されようと、オレが見据える先の未来にオレは居ないのだから、別に構わなかった。
パン、と両手で濡れた頬を叩く。痛みでいっそう目が冴えた。
スマホで検索すれば、きっとオレが欲しい情報はそこらじゅうに転がっているはずだ。
「……大丈夫」
声を震えは、聞こえなかったことにした。
*
十一月に入り、誕生日を迎えてまたひとつ年を重ねた。
ユキさんが腕によりをかけて用意してくれた手巻き寿司は、質素な具でも抜群に美味しかった。
「お誕生日おめでとう。沢山食べてね」
「ありがとうございます! わーい、オレ手巻き寿司大好きです!」
最近のユキさんは料理自体にハマっているようで、野菜の切り方にも色々あるんだよ、と教えてくれたりして、以前よりずっと元気そうに笑う。先端恐怖症の克服はまだまだ遠いものの、失神したりすることはなくなった。
「慣れって凄いよね。フレンチも夢じゃないかも」
「ユキさんなら出来ますよ! 本当に美味しいもん」
「そう? ならよかった」
オレのために用意された、甘い味付けのそぼろ肉がたまらなく美味しい。ユキさんはそんなオレを眺めながら「僕に出来ることがあったらなんでも言ってね」と申し訳なさそうに言った。
「モノじゃなくて申し訳ないけど……。それをプレゼント替わりにさせてもらえたらと思って」
口にいれたものをごくんと嚥下し、オレは「うーん」と考えるフリをする。
「じゃあ決まったら、ちゃんと言います!」
笑顔で返すと、ユキさんはほっと息をつき、何を言われるか楽しみだな、と言いつつ手のひらに焼海苔を乗せた。
オレの願いが、とっくに決まっているとも知らず。
ユキさんにバレないように準備をするのは、これで何度目だろう。始めこそ手間取った浣腸も、今ではなんの戸惑いもなくなった。トイレである程度準備してから、シャワーで全身を流す。ユキさんが寝入ってから既に二時間は経っていて、少しの物音では起きそうもないことを確認していた。
準備が整ったところで、新しいスウェットに着替える。そろりとユキさんの枕元に立ち、真上から見下ろした。
息をひそめて、眠る姿を観察する。薄い掛け布団はうっすらと、しかし規則的に上下しているので、深い眠りについているのが分かった。白々とした肌は触れたら冷たそうで、少し怖い。
オレはだから、ユキさんの寝顔を見るのがあまり得意ではなかった。もう起きてくれないんじゃないかと不安になるから。
でも、だからこそ今を生きてくれていることが、たまらなく嬉しい。
追い詰められていた頃のユキさんは、目を離したらすぐに消えてなくなってしまいそうなほど、儚い魂の容れ物だった。そんな人が今、こうして生きてくれていることは、確かな希望だ。
ゆっくりと床に膝をつき、腰を折って寝顔を覗き込む。準備をした穴からローションが漏れて太ももを伝い、その感触にぶるりと体が震えた。強く脈打つ心音が、耳の奥にズキズキと響いてうるさい。
そのまましばらく何も出来ずに固まっていると、ユキさんが長い髪を巻き込みながら、ごろりと寝返りを打った。骨が浮いた背中が見える。
カーテンの隙間から差し込む誘導灯の光が、ユキさんとオレを綺麗に二分していた。
いくらか開いた距離を音もなく詰める。
ユキさんの横顔は作り物のように美しかった。スラリと伸びた鼻筋に、傷ひとつない肌。しなやかな肩にかかる銀糸がキラキラと輝いている。
お伽噺に出てきてもおかしくないような人。
それなのに、好物の野菜すら、オレにばかり食べさせている人。
(そんなの、好きにならない方が無理じゃんね)
早く売れたい。売れて、バンさんに見つけてもらって、ユキさんに安寧を与えたい。今度こそ二度と同じ運命は辿らないと、待っている人たち全員に誓って欲しかった。
オレに出来ることは、バンさんにも出来る。
オレが出来ないことは、バンさんには出来る。
じゃあオレにしか出来ないことは?
――結局、〝これ〟しかない。
オレの行動は、ユキさんからすれば都合が良すぎるし身勝手だ。拒否される可能性の方が、本来は高い。
それなのにオレが成功を確信出来るのは、ひとえにユキさんの役立ちたいという善意が、本気であることを知っているから。プレゼントを望むオレを、無下に出来ないと知っているから。
ジリジリと焦れったいぐらいの時間をかけて、ユキさんの唇に自分の唇を近づけていく。震えすぎているそれを、噛みたくなるのを我慢した。
息が、ユキさんの頬にかかる。
その微かな感触に、ユキさんがもぞりと動いた。ドッ、と心臓が強く脈打って、ゴクリと唾を飲み込む。音もなく仰向けになったユキさんの瞳が、ゆるゆると開いた。まだ夢の淵をさまよっているような薄縹は、この状況を整理しているようだった。
しばらくして、ある程度理解したらしいユキさんが、ふう、と息を吐く。
ふんわりと、魔法にかけるみたくオレの頭を撫でた。
「……お願い、決まった?」
想像の何倍も優しい声が、耳の奥で溶ける。毒のようなそれが脳にまで流れ込み、冒された部分から麻痺していく。痺れるほど気持ちよく、耐えられないほど痛い。
そんな、愛おしいものにするみたいに、喋らないで欲しい。
意外なほどに硬い指の皮がオレの頬に降りて、さり、と撫でた。
肩が跳ねる。熱い息が漏れる。
震える唇が、開かれる。
「ユキさん」
「……うん?」
「……さみしいの、なくしてくれませんか」
ユキさんはたっぷりと時間をかけて、何かを考えているようだった。
どれぐらい経っただろうか。ユキさんが小さく息を吐き、おもむろに目を細めて、
「いいよ」
と言った。
よろこびとも安堵とも悲しみともつかない感情が押し寄せてきて、オレはただ力なく笑った。
*
「さみしくなくなった?」
と問い掛けられて、オレは「はい」も「いいえ」も返さなかった。心地よい気だるさに身を委ね、瞼をあけることすらしない。明らかに答えを求めない問い掛けは、ただの独り言になってシーツの上に落ちた。
キスをして、肌を触れ合わせて、舐めて擦って出して、そういうことを他人としたのは、初めてだった。いや、キスぐらいはあるけれど、男の体に性的な意味で触れたことはなかったし、触れさせたこともない。
オレはキスひとつで酩酊しかけて、あれよあれよという間にグズグズにされていた。
ユキさんの手付きは優しく、慣れきって、爛れていた。
指先の動かし方ひとつで未知の快感を呼び起こされるのはとても怖くて、何度も縋るように腕を伸ばす。その度ちゃんと抱きしめてくれることに、最初のうちは新鮮に傷ついた。
誰にだってしてきたことだよ、と体に教えられているようなものだから。
胸の痛みに慣れるために、その日から何度も何度も求めた。それが結果、ユキさんの孤独を一時的にでも埋められるようになればいい。
キスして触れ合って、擦って、出し入れも随分とスムーズになった。
舐めるのは、出し入れより先に慣れた。舌先で鈴口を転がすのも、竿を舐めあげるのも、ローションにまみれた両手で竿を扱くのも、意外なほどすんなりと出来るようになった。気持ちいいよ、褒められた時には頬が緩んで、それってオレが、あの人たちの代わりになれてるってことですか、と。訊いてしまいそうになる前に、唇を寄せた。
薄く柔らかな唇がオレのかさついた唇に重なる瞬間、この上ない虚しさを感じる。
こんなに優しいキスをする人は、オレのことを好きじゃない。三回目のセックスで恋心を完全になくしたオレにとっても、ただ情欲を掻き立てるための行為にしか思えなかった。
でも大丈夫。
この虚しさは、二人の関係が正しいことを証明している。
心に巣食う空洞がほんの少しでも満たされると、それが呼び水となって音が生まれる。
とはユキさんの談。オレにはとても理解出来ない話だが、音が一音ずつ頭の中で弾けて、時間が経つにつれ洪水のように降り注ぐのだという。それはきっと、とてもいいことだ。それはユキさんの跳ねるような声色が物語っている。
年越しもセックスをして過ごした。ヤリ納めと姫始めを同時にしてしまったなあ、と他人事のように思う。
「夢の中でも音が止まらない時があるよ。こんなの本当に久々」
こたつに入りながらウキウキとした笑顔で語るユキさんに、オレは新しいTシャツに袖を通しながら返す。
「えー、でも、それってちゃんと寝られてないってことじゃないですか? 熟睡して欲しいんだけどなあ」
「そんなのもったいないよ。モモくんの寝息が少し聞こえるぐらいが、ちょうどいいんだよね。うとうと微睡んでる感じっていうか」
「え!? 寝息!? き、聞こえてるの!? オレ、変なこと言ったりしてませんか!?」
「さあ、どうだったかな」
「うわこれ絶対言ってるやつ……!」
オレの悲鳴みたいな声にからからと笑うユキさんの声は清らかで耳心地よく、そのまま歌い出しそうなほど軽やかだった。
こんなに幸せそうな姿を見るのは、出会ってから初めてで、たまらなく胸がいっぱいになる。
歌はまだまだ。ダンスはそこそこ。演技はズブの素人で、曲は多分これからも作れない。ここに来るまで何度も失敗しては後悔を繰り返したけど、オレは今やっと、本当の意味で〝役に立つ〟ことが出来ている。
汗や精液を洗い流した清潔な体と、どこか湿り気を帯びた居間の空気の生々しさ。それにももう、慣れてしまった。オレは多分、人より覚えがいいのだ。
今でも時折フラッシュバックするのは、彼女の顔と声。
けれど今は、胸を張って言える。
――ほら、オレにも出来たよ。
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