「モモくん、食べるもの決まった?」
「あ……えっと、じゃあ、スープで」
「駄目だよ。ご飯、ちゃんと食べないと倒れる」
「……じゃあ、サラダセットを……」
「モモくん」
「…………ハンバーグ、セットをください」
「分かった」
こくりと頷いたユキさんは、定員の呼び出しボタンを一度押して、オレの代わりに食事を頼んでくれた。
圧に負けて、目に入ったから、という理由だけでハンバーグセットを頼んでしまったけれど、ユキさんのホットコーヒーとこのハンバーグで千五百円はいきそうだ。流石にそれぐらいの手持ちはあるものの、明日は土曜日で買い出し日。生鮮食品のマイナス千五百円分は、かなりでかい。
……やっぱり、オーダー変えてもらおう。一番安いサラダの単品を頼むべきだ。
そう決めて呼び出しボタンに手を伸ばすと、反対側から伸ばされた手のひらがそれを制止した。
驚いてユキさんを見ると、表情なく「大丈夫だから」と告げられ、思わず困惑の眼差しを向けてしまう。
「……大丈夫、というと」
「お金ならある。心配しないで」
「…………へ」
窓際、テーブルを挟むように向き合った四人席。ファミレスにありがちな構造の、ありがちな席だ。そこにオレとユキさんは通されている。
コンビニ前で合流してから十五分近く歩いてやっと見つけた、よくあるチェーン店だった。
価格帯は、そこそこ。高くはないが、特別安いわけでもない。普段のオレたちだったら、一ヶ月頑張ったご褒美として使うような場所だった。
ユキさんは現状、手持ちはほとんどないはずだ。それは家計管理をオレに任せてくれているからで、オレがいくら「せめてこれぐらいは」と渡そうとしても、コンビニでちょっと飲み物が買えるぐらいしか手元に残さない。突然外で倒れたらどうするんだと言っても、取り合ってくれなかった。
あったら、使ってしまうかもしれないし。そう言って、渡したお金をそのまま共同財布にしまうのが常の人だ。――いくら手持ちがあったって、無闇やたらとお金を使い込むような人じゃないことぐらい、オレは知っているのに。
こちらの困惑を察したらしいユキさんが、視線をゆるやかに外し、窓の外を見る。オレも釣られるようにして、同じ方向を見た。
まだ夜の八時だというのに車の通りは少なく、帰りは一時間近く歩く覚悟が必要だった。ここから家まで、タクシーを使えるほどの余裕はない。いや、今、なくなった。ユキさんが疲れてしまったら、どこかで休むか、最悪おぶって帰ればいい。
そう。それぐらい、オレたちは貧乏だった。
それなのにユキさんは「お金ならある」と言う。
だから、あの女性の姿が脳裏を過ぎるのも、仕方のないことだった。ユキさんは求めなくても与えられてしまう人だ。それがあるから、バイトもなかなか続かない。ユキさんはそういうユキさん自身に、よく悩まされていた。
何か喋るべきなのだろうか。正解か分からず、言葉が喉元でつっかえて金魚みたく口をパクパクさせてしまう。
すると、ユキさんが抑揚のない声で言った。
「凛太郎だよ」
「え?」
「凛太郎が、貸してくれた。ここまでのタクシー代も、この店の食事代も。僕が一文無しだって知って、絶句してたけど」
ユキさんは未だに、窓の外を見ている。というよりも、オレのことが真っ直ぐに見れないようだった。
ユキさんの言う凛太郎とは、岡崎事務所の社長である、岡崎凛太郎で間違いないだろう。
わざわざ一度、岡崎事務所まで向かったのか。
……オレを探すために?
事務所はアパートからそう遠くないとはいえ、電車に乗らなければ辿り着けない距離だ。そもそも外に出ることを好まないユキさんが、そこまでの行動を起こしてくれたこと自体、身に余るものを感じた。
連絡を取りあってから合流までの時間を考えると、恐らくあの女性とは、何もする時間はなかっただろう。
――そっか。
………そっかぁ。
この安堵の理由は、とても人に聞かせられるようなものではなかった。それに、今考えるようなことでもない。邪念を振り払うように頭を振って、静寂を破るように口を開く。
「追いかけてもらうようなことなかったですよ! それにお金なら、いつでも共同財布から……」
そう言い終わるより前に、ユキさんが大きく目を見開いて、オレに向き直った。
しまった、と思う。
正面から見るユキさんの、驚きと困惑が入り混じったような顔は、恐ろしいくらい悲しみの訴求力を持っていた。
一瞬で、口にしたことを後悔する。ユキさんは、生活費を勝手に使い込むような人ではない。当然のことだった。
「す、すみません、オレ」
「僕のせいで君はいなくなったのに? 共同財布の中身だって、モモくんが汗水たらして働いてくれたお金でしょう」
ユキさんの諭すような言葉に、というよりは、自分の不甲斐なさに落ち込んで、俯く。
生活費をオレが稼ぐなんて当たり前のことで、それをどう使ってもらっていい、というのも、本心だ。
ユキさんのように特別な才能を持たないオレからすれば、稼ぎのアテにしてもらえてることは、精神的支柱となっている。それすら奪われてしまったら、自尊心が保てなくなってしまうだろう。オレがユキさんを支えている、という事実がひとつでもなければ、オレ自身が潰れてしまいそうなのだ。
だから、ユキさんをバカにしたりだとか、軽んじたわけではない。決して。
それをどう伝えればいいのか分からず、情けないことに黙ることしか出来なかった。
ユキさんを前にするとすぐ緊張する癖は、一体いつになったら治るのだろう。コントロールをする余裕がある時はいい。こうして勝手に追い詰められている中では、そう簡単に自分を操縦できなかった。
こんなんじゃ、呆れられて当然だ。
電話越しに聞こえたため息が脳内でリフレインして、また深く心臓へと突き刺さる。
数十秒に渡る沈黙。オレが何も話せない状態であることを察したらしいユキさんが、改めるように口を開いた。
「……ごめん。怒ってるわけじゃなくて……。そもそも、怒る権利なんて僕にはない」
その言葉には思わず顔を上げて、反論する。
「そんな……っ」
「大変お待たせいたしました~。ハンバーグセットご注文のお客様ぁ?」
店員の気の抜けた声がオレの言葉に被って、次の言葉が告げなくなる。ユキさんが視線だけでオレのものであると伝え、店員もそれを正しく受け取った。
「ソースが跳ねますのでお気をつけくださ〜い」
「あ、は、はい」
目の前に置かれたハンバーグと、ライス。久々の肉を前に、オレの正直な腹は急激に唸り声をあげた。こんな時でも腹は減って、よだれは口に溜まるのだ。その事実に、恥ずかしくてたまらなくなる。ユキさんにも轟音は絶対に聞こえているのに、気にしないフリをしてくれた。
「冷めないうちに食べなよ」
「…………はい」
観念するようにシルバーを持ち、ハンバーグを切って口の中に放り込む。歯ごたえのある感触から、肉にかかったデミグラスソースまで、全部が美味しい。じんわり涙が浮かんだのを、慌てて袖で拭った。
びっくりした。よっぽど涙腺がバカになってしまったらしい。
「美味しい?」
「はい。美味しいです」
「よかった。……なんて、これも僕が言えることじゃないけど」
ふと、ユキさんの長い腕が伸びてきて、オレの目尻を軽く拭った。驚いて固まっていると「まつげついてたよ」と見せてくれた。それだけだ。
両目は未だ腫れっぱなしで、真っ赤なままであることを知っている。もの凄くブサイクな顔を見せてしまっていた。しかし、ついさっきまで泣いていたことを誤魔化せるようなスキルは、持ち合わせていなかった。言及されないことが、心底有り難い。
「さっきの続きだけど」
一緒に運ばれていたコーヒーに口をつけつつ、ユキさんは続ける。オレはシルバーを置き、顔を上げた。
「凛太郎のところ行って、最初に言われたよ。『自業自得だ』って。『このまま百が帰って来なかったら、どう責任を取るんだ』って」
驚いて、勢いをつけて否定する。
「帰らないなんてこと、ありません! 絶対!」
「でも、逃げたでしょう。自分の家から逃げるなんて、一番必要ないことだよ」
「それは……っ」
「アイツが言ったこと、徹頭徹尾全部正しかった。『責任なんか取れないくせに、ろくでもない行動をとって相方を傷つけて、何してんだ?』ってさ。返す言葉もないよ。……モモくん、いいから。食べながら聞いて。こんな話し、せっかくのご飯が不味くなっちゃうかもしれないけど」
オレの手が止まっていることに気づいたユキさんはそう言って、オレがハンバーグをもう一切れと、ライスを口に入れるのを見届けるまで喋らなかった。
正直、こんな話を聞きながら、オレだけが黙々と食べるなんてしたくなかった。けれど食べなければ、ユキさんは喋ることを止めてしまう。なんだか、オレにちゃんと食べさせるために喋っているようだ。
「……何ひとつ言い返せずに項垂れた僕に、一万円札渡した凛太郎の気持ちなんて、考えたくもなかったよ。僕が〝こう〟なせいで、凛太郎まで惨めな気持ちにさせてる」
「お……オレは、そうは思いません。社長も、いつもみたいな軽口のつもりだったのかも――」
「そうね。モモくんは絶対思わない。僕のファンだったから」
確信を突かれ、言葉が詰まる。
そうして生まれた沈黙に、一人で押しつぶされそうになった。今日はもう、間違ってばかりだ。物事をしっかり理解する前に、ああだこうだと決めてかって失敗している。だから、一番してはいけないことが出来たのだ。
ユキさんの連絡を無視するようなことが。
目の前から逃げて、いなくなるようなことが。
相方を失ったユキさんが、最も恐れることを、オレはした。そしてオレは、そのことを結局、まともに謝れもしない。
だって、逃げたことそのものを謝ったら、「ユキさんが悪いことをしたせいです」って、責めているみたいじゃないか。オレは、社長の言っていることを、理解したくなかった。ユキさんの自責も自嘲も、認めたくない。
オレは、オレが悪かったことにしたい。全部。責任の所在なんて、全部オレにあればいい。
「モモくん」
いつの間にか俯いていたことに気づき、ハッと顔を上げる。ユキさんの表情は依然昏く、いつも穏やかな光をたたえている瞳にも、輝きがなかった。
「す、すいません、ちゃんと食べます……」
シルバーを手に取り、再び黙々と食べ始める。咀嚼と嚥下をひたすら繰り返して、一人分の料理はみるみる無くなっていった。付け合せの人参やジャガイモも、噛みしめるように食べる。
ユキさんがコーヒーを口につけ、置き、もう一度持ち上げて口につけ、置いた。逡巡を思わせるその動きのあと、言いづらそうに口が開いた。
「……モモくんはさ、さっき電話で……自分のこと、『へたくそ』って言ったよね」
「え?」
唐突な切り出し。その意味を咀嚼するより先に、
「僕だよ。僕が下手なんだ、全部」
そう言って、ユキさんはその時初めて、項垂れるように頭を俯かせた。
右手で、綺麗な髪をぐしゃりと潰す姿に、驚きすぎてフォローも出来ない。ユキさんの表情は隠されたままに、くぐもった声が届く。
「……こんな時に、万の話するけど、いい?」
「な、なんでそんな……勿論ですよ、話してください!」
「そう? モモくん、万の話になると顔が固くなるから。気になるなら、やめるよ」
「え?」
そんな顔、してた? オレが?
オレとユキさんの共通言語はほとんど無いに等しい。だからこそ、バンさんの話題をあえて出すことが多くあった。
本当は、それ自体よくないことだって分かっていた。けれど何を話せばいいか分からない時、決まって「そういう時、バンさんはどうしてたんですか」なんて訊いて、必死に会話を繋いでいたのだ。緊張は未だ抜けず、テンポも掴めていない中では、こうでもしないと会話すら難しい。
こんなところでも、バンさんに頼り切りの自分が情けなく思っていた。その申し訳なさが、知らず識らずのうちに顔に出ていたのだろうか。
そんなオレを、ユキさんはどんな気持ちで見ていたんだろう。
恥ずかしさに、身の置きどころがない。体を縮めながら「大丈夫です」と、全然大丈夫ではない声で言った。
未だ俯いたままのユキさんは、オレの異変には気づかなかったらしい。その言葉を正しく肯定と受け取り、続けた。
「……万は、相手がどんな人間でも、やけにコミュニケーションを取ろうとする男だった。だから、僕とですら罵り合いとか、……実は殴り合いの喧嘩も何度かしたよ。物凄く低レベルなやつ。結局、似た者同士だったんだと思う」
「……仲良し、ですもんね」
「〝仲良し〟ね。……喧嘩って、同レベルの相手としか出来ないんだよ。同じようなことで怒ったり傷ついたりするから、衝突する」
「……そう、ですね」
その通りだ。だから、オレとユキさんは、喧嘩をしない。オレが出来ないから。ユキさんのレベルまで、辿り着けないから。
喉の奥がツンと痛んだ。ゴクリと唾を飲み込んで、無理やり誤魔化す。ユキさんが零した小さなため息は、オレに向けられたものではなく、ユキさん自身にあてたものだと分かった。
「……なのに、万が許してくれたことを、モモくんにも許させようとしてたんだよ、僕は」
「……」
「寂しくて、誰でもいいから抱く。それで曲が出来るならいいでしょ、って。暗にモモくんに、納得させようとしてた。……万なら、怒って、喧嘩すれば、最後には受け入れてくれることだったから」
「そ、れは……」
「でも、あの時のモモくんの姿を見て、気づいたんだ。モモくんは、万じゃないって。モモくんは、僕にその場で殴りかかりもしなければ、怒鳴りもしない。ただ、僕を気遣って、僕のために、逃げ出すような子だったんだって」
ユキさんが、ゆっくりと顔を上げる。
泣きそうな顔。
「笑っちゃうよ。そんな、当たり前のことに気づかなかったなんてさ……」
とうとうと語られる紛れもない事実は、じわじわとオレの体から色んなものを奪っていく。
「モモくんは、モモくんだ。そんなこと、僕が一番よく分かってるはずなのに」
そう。オレは、春原百瀬であり、モモだ。
バンさんじゃない。
バンさんには、なれない。
それを、ユキさんが一番よく、分かってる――ことを、オレも分かってる。
「本当に、最低だった。全部僕が悪い。…………ごめんね」
なんでオレはこの人に、謝らせてるんだろう。頭を下げさせてるんだろう。
オレを前にして、ユキさんは未だ圧倒的に孤独だった。やせ細った肩は寂しそうに揺れている。遣る方ない思いを抱え続ける目が、無意識にオレを刺した。
進んで孤独になりたがる人なんていない。
ユキさんを孤独たらしめるものが、ユキさんの才能や、見目であること。その事実に、どれだけ苦しめられてきたのか、オレには到底、想像もつかなかった。
だから、バンさんが必要だったのだ。ユキさんの孤独を正面から理解して、埋めてあげられる人が。
そのバンさんと、オレは、違う。実際のところ、〝代わり〟なんてつとまらないのだ。
――こんなに役立たずなことが、あってたまるかと思った。
今のオレは、ただ漫然と食事をするだけの、ユキさんを困らせているだけの人間だ。
ならばせめて、と考える。頭を動かす。オーバーヒートしそうなぐらい、フル稼働させる。
せめて役立たずなりに、出来ることがひとつぐらいはあるんじゃないのか。
だからこの一言がどれだけ愚かな問いかけだったとしても、言わずにはいられなかった。
「オレでは、寂しいの、解消出来ませんか」
「……え?」
「オレ、それ〝だけ〟は出来ると思うんです。少しの間ぐらいだったら、きっと。ううん、……絶対、出来ます」
バンさんじゃなくて、〝オレ〟だから。
*
オレのしょうもない提案以降、ユキさんの口数は極端に減ってしまった。無理もないどころか、それは当然のことだ。
食事を全て食べ終わったところで、抑揚のない声で「帰ろうか」と告げられ、ユキさんに続くように立ち上がる。会計を済ませてくれている間に店を出て、がっくりと肩を落した。
結論。
オレの予想通り、ユキさんに断られることは、なかった。
その代わりに、ひどく困惑した空気と沈黙を差し出された。
それは何よりも分かりやすい拒絶で、否定だった。
やっぱりオレではユキさんの寂しさは埋められないのだ。1足す1は2、くらい当たり前の、分かりきった解だったのに、何故あんなこと言ってしまったんだろう。
役立たずは役立たずのまま。「もしかしたら」と希望を持つことすらあってはいけない。
あのまま会話を終わらせて、あとはおいしいおいしいと料理を頬張って、それで、終わらせればよかったんだ。
いくら後悔しようと、時を戻すことは叶わなかった。先に立たずとはこのことを言うのだ。先人たちはいつだって正しい。もっとちゃんと勉強してればよかったなあ、なんてどうようもないことまで考え始める始末だ。
オレは頭が悪いから。
取り返しのつかないことした事実を前に、どう行動するべきなのかも分からなかった。
タクシーは予想通りちっとも捕まらなかった。とはいえ迎車なんて贅沢なことが提案出来るはずもなく、自然と徒歩で帰る流れになった。
ユキさんが疲れたらおぶって帰ろう、なんて考えていた数時間前がバカらしく思える。それぐらい、二人の間に流れる空気は曇天の空模様に似て、重く淀んでいた。
ユキさんと二人並んで歩く。それすら、オレにとっては恐ろしく高いハードルだ。毎日「憧れの人の隣を歩くなんて信じられない」と、緊張しながらも、ドキドキと浮かれていたっけ。
けれど今、オレの心は冷や水を浴びせられた直後のように真っ青に染まり、不自然な沈黙に肌はヒリついている。逃げ出したい衝動に駆られるのを、ぐっと堪えた。
何のために、ユキさんがここまで来てくれたと思ってんだ。
これでまた逃げるようなことをしたら、それこそ取り返しのつかないことになる。
暗闇の中、自分の足元だけを見ながら自問する。
……そもそも。
まったく下心がなかったわけじゃ、ないんだろ?
自答はこうだ。
そうだな。全部の言葉が、100%の善意だったなら。
――こうして傷つく必要は、ないもんな?
*
結局、帰宅したのは二十二時を回った頃だった。
血の気の引いた顔を見られたくなくて、居間の明かりをつけて一直線に浴室へと向かった。今日見た〝あの〟光景がリフレインして、居心地が悪かったからもある。
ユキさんの冷え切った体を温めるため、ピカピカに磨かれた浴槽に湯を溜める。このオンボロアパートに追い焚き機能などついているはずもなく、オレは後からシャワーを浴びることに決めた。
居間に戻り、テーブルの前に腰をおろしていたユキさんへ、出来るだけ自然に聞こえる声色で話しかけた。語尾が震えないことを心がけた結果、明るく取り繕ったような声になる。
「あの、お湯溜まったら、先に入ってください!」
「……モモくんは?」
「ユキさんが入った後、シャワー浴びますんで!」
「そう」
必要最低限の返しが、今は心から有り難かった。このまま会話を続けたら、更なるボロを出しそうで不安だったから。
――ユキさんの寂しさを、解消させてください。
この言葉には、言葉には、『女の人の代わりが出来ます』『ユキさんにどう扱われても構いません』の意味が含まれていた。
弱りきったユキさんを前にして、オレは勘違いした。自分が迷惑をかけにもかかわらず、ユキさんを本気で助けられる気になっていたのだ。
相手の意思は二の次で、『それが最善策である』とでも言いたげな自分の姿を思い出し目眩がした。
バカを治す薬があるのなら、オレは誰よりも先に飛びつくだろう。薬を手に入れて必死に飲み込む自分の姿そのものがバカらしくて、口元に自嘲が浮かんだ。
それに気づいたユキさんが「モモくん?」とオレを不思議そうに見上げる。慌てて表情を作り、声を張る。
「そ、そうだ、暖房つけますね」
「いいよ、そんな冷えてないし」
「……っ、でも、」
「それより、モモくんも一緒に湯船、浸かろう」
「…………え?」
そう提案したユキさんの表情に特段変化はなく、何を考えているか、真意を図りかねた。いや、違う。もし言葉の通りなのだとしたら、それこそおかしな話だ。
だってオレはあなたに伝えたはずだ。あの、ろくでもない提案を。そしてそれを、撤回することすら出来ていないのだ。
——全部聞こえてて、だから、黙っていたんですよね?
ひく、と喉が引きつりながらも、なんとか声を絞り出す。
「……ユ、キさん、一人で入ってください」
「なんで? お湯冷めちゃうよ。シャワーは交互に浴びればいいし、浴槽は広いから、二人でも普通に浸かれるでしょ」
「……」
なんでそんな、当たり前みたいに。
あまりに突拍子もない提案に、頭が追いつかなかった。
首肯すべきだと分かっている。けれどこの誘い自体、ユキさんが本気で望んでいることなのか見極められなかった。ユキさんは優しい。オレの自嘲を前にして、深読みした結果の慰めである可能性が、あまりに高かった。
当惑を隠せずにいると、まるで念押しするようにユキさんがゆっくりと唇を動かした。
「……一人で入るの、寂しいよ」
息を呑む。瞠目する。
「それとも」
続く先の言葉が、きっとよくないものであることは分かった。けれど、耳をふさぐことなど到底、出来ないのだ。
「あの言葉、嘘だったの?」
ユキさんに正しく伝わっていたことが、こんな形で証明されたのは、控えめに言って――最悪だった。
ユキさんの前で着替えることはあっても、裸になったことはない。
そんなの当たり前だ。ユキさんが先に入った浴槽に背を向けながら、オレはかなり長いこと、体を洗っていた。時間差で入ったことで、全身を洗い終えたユキさんは湯舟に浸かっている。
「……なんでそっち向いてるの」
ぽつりと落としたような声が、浴室に反響した。感情を読み取ることは早々に諦め、「あまり見られたくないので」と素直に答えた。
「どうして?」
「……緊張、しすぎる、からです」
それも間違いなく本音で、けれどそれ以上に、筋肉が落ちていることを悟られたくなかった。こればっかりは、以前より摂取カロリーが激減している以上どうしようもない。貧乏暮らしがてきめんに効いていることを知ったら、ユキさんは傷つく。そう思ってオーバーサイズのパーカーばかり身につけていたのに、文字通り丸裸になった今、その努力は水泡に帰した。元を辿れば自分に責任があるので、もはや笑えすらしない。
右脚ばかりゴシゴシと擦っていると、ユキさんはオレの答えに返事をするでもなく、突然名案を思いついたかのように言った。
「背中、洗ってあげるよ」
「へ?」
「だってそのスポンジじゃ、背中まで届かないでしょ」
「いや、届きます、届きますっ! ユキさんだって届いてたじゃないですかっ、だ、大丈夫ですよ!」
「いいから」
そう言ってユキさんが伸ばした腕は、オレの手から小さなスポンジを取り上げてしまった。古い建築物らしく洗い場自体は狭いので、湯舟に浸かりながらオレの背中に触れることは容易だ。ぺた、とスポンジが背中にくっついて「っ」驚きのあまり声が漏れそうになった。
ユキさんはオレの動揺など気にせず、問答無用でゴシゴシと洗っている。
なんなんだこの状況。緊張がいきすぎて、洗われた先から汗が止まらない。
時々ユキさんの指が背中に触れて、またも声を漏らしそうになる。憧れの人に素肌を晒して、あまつさえ触れられている状況。そのとんでもなさにくらくらした。たった数分にも満たないような行為が、冗談抜きで何時間にも感じられる。
「……よし、もういいかな。モモくん、これ」
満足げに呟いたユキさんから、スポンジの代わりにシャワーノズルを渡される。やっと終わったことに心底安堵したオレは、それを受け取ってすぐ、勢いよく全身の泡を流した。
緊張により冷えてしまった体に熱が戻り、ほ、と息を吐く。全てを流し終えたタイミングで「入って」と声をかけられたせいで、その安堵は数秒しか続かなかったけれど。
体を洗ったらすぐに出てしまおうと考えていたのを、見透かされていたのかもしれない。ユキさんには見えない角度で一度顔を顰めてから、ユキさんに背を向けつつ渋々浸かった。対面なんて、絶対に無理だ。ざばざばと浴槽から湯が溢れる音が耳に心地よく、全身にくまなく滲みる熱に体を預ける。
丁度いい湯加減であるものの、全神経が背中に回ってしまったかのようにヒリヒリしていた。
洗い場に比べて広さのある浴槽でも、ユキさんの長い脚がオレの腰に当たるのは不可避だった。密着しないだけマシだと思おうにも、その場所が妙に際どいせいで、意識してしまう。少しでもユキさんが動いたら、体が強く反応を示しそうで――そんなのは、おかしいから、と唇を噛んで耐えた。
湯船は、勝手に濃い乳白色の入浴剤を入れさせてもらった。オレの体を見られたくないから、は当然のこと、ユキさんの体も見たくなかったから。
――見たくない理由。
嫌悪なわけもない。
「あったかい?」
ユキさんの、湯に溶けるような優しい声が浴室に響く。耳の奥まで滲みて、少し震えた。
「は、い……」
「よかった。体洗うのに熱心なのはいいけど、あんまり冷やさないようにね」
気遣うような声が、本気であることを知らせる。
……ああ、そっか。早く湯舟に浸かって欲しくて、洗うの手伝ってくれたのか。
動揺しっぱなしだったオレは、そんな簡単なことにも、今気づく有様だった。申し訳なさが募り、ユキさんに背を向けたまま、ぺこりと頭を下げた。
「あ、ありがとうございました」
ユキさんから返事はなかった。そのことに妙にほっとして、自分の濡れた髪から水滴が落ちていくのを、どこか他人事のように眺めていた。
……よし。この水滴が十滴落ちたら、出よう。体は温まったし、これ以上一緒に浸かるのは、変だ。
オレが、変になる。
「モモくん、こっち向いて」
ふと、背後から伸びてきた腕が、うなじに触れた。ビクッと大きく肩を揺らし、え、と声にならない声が漏れる。ユキさんの長く綺麗な指が、最も無防備な部分のひとつに触れていることに、激しく動揺した。それは、伸ばされた脚が腰に当たってしまうだとか、そういうのとは明らかに違った。
明確な意思が伴っている、どこか扇情的な手付き。
心臓が笑えるほどバクバクと脈打って、すでに赤かっただろう肌が、一瞬で茹だる。
「そ、れは、ちょっと」
「なんで?」
「なんで、って」
答えに窮すると、ユキさんがもう一度、確認するように「なんで」と言った。
その声にはもう、ぬるま湯のような優しさは見当たらなかった。
一オクターブ下がった声が、真後ろから聞こえる。艶めいていて、男っぽい声。
「モモくんが言ったんだろ。『解消出来ないか』って」
「……は、」
「ねえ、こっち向いて。ずっと顔見れないと、不安になるし、寂しいよ」
うなじからするすると流れた指先は、オレの肩をぐっと掴んだ。その力のこもり方に、この期に及んで冗談にはさせない、と言われているみたいで怖くなる。
ユキさんが、オレに助けを求めている? なら振り向いてすることは、ひとつしかない。
ユキさん。オレは、あなたの役に立てるってことですか?
だとしたらあの時、あの瞬間。
なんでユキさんは、困惑して、黙りこくってしまったんですか?
すぐに咀嚼出来なかった? あの瞬間は受け入れられなかった? 帰り道で、思い直した? それは何故?
本当は無理をしてるんじゃないんですか。
――これが訊けるような関係だったら、苦労しない。目頭が湿っているのは、湯気のせいではなかった。
言わなきゃよかった。たった一日で、こんなに何度も何度も後悔することってあるんだ。バカって苦しい。愚かなことが悔しい。一発で正解に辿り着けるような、頭のいい人間になりたかった。
しばらく無言の攻防が続いた。けれど、この浴槽に追い焚き機能はついていないのだ。そんなことをしている間に湯は冷めて、風邪をひかせてしまうかもしれない。
オレは観念し、ばしゃばしゃと湯をかき混ぜるようにして体ごと振り返った。
ユキさんの薄縹色と、目が合う。白磁の肌はほんのりと紅く色づいていて、けだるげな情交の気配のようなものを感じさせた。慌てて目を伏せる。
肩を掴んでいた手のひらが離れ、ほっと息を吐き出そうとした瞬間、長い指先がオレの顎を掴んだ。
「……っ!?」
湖のように静かに揺れる瞳が間近に迫り、ドッ、と心臓が脈打つ。
安っぽい蛍光灯の下でも、西日が差した部屋の中でも、煙るような色素の薄いまつ毛ごと美しかった。
それに縁取られた瞼さえ完璧な形だと、ついこの前までオレは、写真を眺めて惚れ惚れしていたのだ。
そういう、距離でしかなかったのだ。オレと、ユキさんは。
それが今は、どうだろう?
「キスしてもいい?」
「……!」
「そういうことでしょ。さっきのって」
ユキさんの声はいたく平坦で、普通だった。何かを欲するような熱は感じられない。あくまで作業の工程を確認するような物言いに、恐怖心が芽生え震える。
気を使われても嫌、モノみたいに扱われても嫌だって? なんだそれ。恋人でもないくせに。全部、オレがそうして欲しいと言ったも同然なのに。なんでこんなに面倒くさくて、ままならないんだ。
心と体が別物だったらよかった。
こんなものでも役に立つなら使ってくださいと、ポケットティッシュみたいに差し出せれば。
ゆっくりと、ユキさんの顔が近づいてくる。反射的に後ずさっても、すぐ後ろのタイル壁に自分を追い詰めるだけだった。静かに、しかし確実に、体ごと密着していく。肌が触れ合った瞬間、思ったよりずっと温度の高いユキさんの体に「ひぇ」と情けない声が漏れた。すぐさま血が唇を噛み締めて、それ以上声が出ないよう耐える。
ユキさんの息が、オレの唇に当たる。あと一秒で重なってしまう。
その、間際。
顎にかかる指を振り払うようにして、顔を背けた。
――そうしなければ、ダメだと思ったから。
ここにきて拒絶を示したオレに、ユキさんは怪訝そうに眉を潜めた。
「……は。嘘だろ。ここで泣くの?」
そう言われるのも、無理はなかった。
オレの顎を掴んでいた指が、ぽちゃりと湯舟に落ちる。オレはユキさんに視線を戻さず、ただ浅く呼吸を繰り返し、滂沱していた。これは悲しみや、被害者意識から来るものではない。本気の嫌悪や拒絶でもない。ただ、プツリと糸が切れた。それだけだった。
そう伝えなければと思うのに、今は嗚咽が漏れるのを我慢するだけ精一杯で、簡単な言葉すら口にすることが出来ない。
深い深いため息が聞こえたかと思うと、ざばん、と湯舟が大きく波打った。
それからすぐ、扉が閉まる音が浴室に響き、オレは一人浴室に取り残された。
虚ろに顔を上げ、ガラス越しに脱衣所の方を見る。手早く支度を済ませたユキさんは、まともに髪も乾かさないまま、姿を消した。
ユキさんは、気持ちがなくてもキスが出来るし、セックスも出来る。
だから、ユキさんの一連の行動は、むしろ誠実であるとさえ言えた。オレが望んだ通りのことを、しようとしてくれたのだ。
でも、オレはユキさんと違う。違った。
キスもセックスも、嫌というほど心が伴う。理性でどうこう出来るものではなかった。切り刻もうとしても刃が立たず、引き千切ろうとしたら涙が出る。
それなのに、オレは求めてしまった。ユキさんに、心から求められることを。
恋愛感情を切り離せないくせに、余計なお節介だけを回したのだ。
好きな人にだけは、絶対にしてはいけない提案をした。
取り返しがつかないほどのバカさ加減に、脳がじんじんと痛んだ。
神様。
バカを治す薬が無いんだったら、一回死んで、生まれ直したい。
← →