予想だにしない場面に出くわしたオレの第一声といったら、酷いものだった。
「わ、あっ」
折角ワークショップにも通い始めたというのに、この体たらく。
しばらくの沈黙。何度か瞬きを繰り返してから、やっとのことで声を取り戻したオレは、ほとんど叫ぶみたいに言った。
「お、オレ、どっかで時間、潰してきますね!」
ユキさんが何か言う前に慌てて古い三和土へと降り、スニーカーをひっかけて、鉄製の扉を力いっぱい閉めた。
がごん、という鈍い音を背中に走り出す。
(ヤバい、ヤバいヤバい)
階段を駆け降りる最中に靴の中に踵までおさめて、準備を整える。走るぐらいなら問題なくなった脚を久々にフル稼働させて、ボロアパートから全速力で逃げ出した。
周りの景色がびゅんびゅん流れていって、まるで自転車に乗ってるみたいな速度だ。すれ違う人たちがいちいちオレを振り返っていく気配が、その証拠だった。
こんなに本気で走ったの、いつぶりかな。どんだけビビってんだよ、って、空笑いすら起きない。
(ああ、もう、なんで……)
″あの″光景を前にしたオレは酷い有様だった。全力で体を強ばらせ、声はぶるぶる震え、喉はカラッカラに乾いている。あからさまな動揺を隠せもせず、茫然と立ち尽くした時間はどれぐらいあったろう。
醜態を晒すって、ああいうことを言うんだな。
わざと明かりを消した薄暗い部屋には、西日が差し込んでいた。そのせいで、オレの姿も、ユキさんの姿も、お互いの視界に綺麗に映り込んでいたに違いない。
無遠慮に開けた内扉を、開きっぱなしのまま出てきてしまったことを思い出す。
でも、それくらいは、許されてもいいよな?
だって――
知らない女の人が、いた。
下着姿のままユキさんの上に跨って、今から事に及ぼうとしていることは明らかだった。
ワークショップの後にバイトを入れていたオレは、帰りが遅くなる旨を今朝方ユキさんに伝えていた。しかし、シフトのミスで同期とバッティングしてしまい、オレが譲る形で早めに帰宅した矢先のことだった。
ユキさんにとっても、想定外の出来事だったに違いない。もしかしたら今までも、オレが知らないだけで同じことをしていたのかもしれなかった。それでも仕方ない。ユキさんが求める〝それ〟は、オレに解決出来ることではないから。
ユキさんの精神は、未だ不安定な状態にある。心が安定する材料がひとつもないのだから、当然と言えば当然だった。元々の相方であり、現在行方知れずのバンさんを見つけ出す手がかりは未だ無く、そのせいかオレと組み始めてからというもの、一曲も仕上げられていない。
オレはオレで歌もダンスも未経験のド素人だから、技術的なサポートは不可能だった。
曲が作れないから、ダンスを学ぶ。まだ一回しか行けていないけど、ワークショップで演技の基礎も覚え始めた。歌は、昨日もうまく歌えなくて、ユキさんを困らせてしまったばかりだ。
オレの固く伸びのない歌声のせいで、Re:valeの素晴らしい曲たちを、つまらなくしている。だからその後も、夜の公園で自主練を繰り返して――自己評価でしかないものの、昨日よりは今日の方が、まだマシになっている、とは、思う。
でもそれだけだ。オレが出来ることなんて、それしかない。
ポケットに入れていたスマホが数回震える。取り出すことはせずに、ここではないどこかへと向かって、ひたすら脚を動かしていた。
メッセージの相手が、ユキさんだったらいいのにって、思う。
でも、きっと違うから。傷つきたくなくて、いっそ気づかないフリをした。
――極端に「書けない」時、ユキさんは寂しくて寂しくてたまらなくなるのだと言う。心にぽっかり穴が空いて、なかなか埋まらないと。
それを埋めてくれていた存在には、もう頼れないから。真夜中の布団の上で、ぽそぽそと細切れに話してくれたことを思い出す。
それが今ここには居ないバンさんであることをオレは理解していたし、オレがバンさんの代わりになり得ないことも、同じくらいちゃんと理解していた。
だから、女性を抱くことは、いわば当然であり仕方のないことなのだ。肌と肌の触れ合いは――それが一過性のものであったとしても――ユキさんの途方もない悲しみや寂しさを慰めてくれる。
オレには、それをしてみせることが出来ないから。
でも。
オレがもっと優秀で、即戦力であったなら、あんなボロアパートでユキさんを燻ぶらせることもなかったはずだ。すぐさまデビューして、テレビ番組に沢山出て、オレたちの姿をバンさんに見つけてもらえるはずだった。そうすれば、バンさんはユキさんの元に帰ってきて、ユキさんは元通り元気になって、オレもファンに戻る。あっという間にハッピーエンドだ。
結局のところ、引き止めた割に何も出来ないオレが悪い。
事実を並べているだけなのに、妙に息があがって、肺が痛む。そんなことはお構いなしに、目的地すら決めず爆走を続けていた。
信号が赤だったら右に、青だったら真っ直ぐ。覚えのない路地を曲がって、立ち入り禁止の小道も平気で通り抜けた。肌を照らしていた夕暮れはいつの間にか落ちきり、既に辺りは暗くなっている。
カラオケか漫画喫茶で一晩過ごして、明日の朝になったら、ユキさんに連絡して帰ろう。
いや、女の人がゆっくり帰れるように、昼ぐらいまでは連絡を控えた方がいいかな。
流石に初速ほどではないものの、勢いをつけたまま小さな街を駆け抜けていく。何もかもを振り切るようにして走っても、さっきの映像が網膜に焼き付いて離れず、嫌になった。
これってプライバシーの侵害になる? でも、オレだって見たくて見たわけじゃないんだよ。
なんて、言い訳がましい言葉を並べてしまう。
忘れたくて仕方ないあの一瞬は、そのくせ今まで観てきた数少ない映画のどんなシーンよりも印象的で、美しかった。
ユキさんの上に跨っていた女性は、黒髪のロングヘアにゆるくパーマをあてていた。すらりと伸びた脚、ほどよい肉付き。触れたらきっと柔らかいんだろう。ユキさんほどではないけれど、肌も白かった。顔は、分からない。ユキさんと目が合った瞬間から、全神経がユキさんに向いてしまったから。
重なった視線。ユキさんの薄縹色の瞳は昏く、けれどオレを真正面から映していた。少しだけ寄せられた眉根は、言外に「なんで」と伝えてきて、それがまた美しくて堪えた。
準備運動をしていなかったせいだろうか。肺が、さっきよりもずっと苦しい。痛い。苦しい。
はあ、はあ、と呼吸が乱れて、乾いた唇を舐める。
なあ、これ。本当に肺なのかな。胸が、苦しいんじゃなくて?
(……なんで? なんで胸が苦しくなんの?)
オレが、役立たずだから? 一番埋めてあげたい場所を、オレ〝だけ〟は絶対埋められないって、理解させられたから?
それとも、それとも――。
今度は、鼻の付け根がツンと痛み始めて、嫌な予感がする。けれど生理現象は止められず、せり上がってくる涙が、頬を一筋流れたのが分かった。
情けない。恥ずかしい。
ごくごく当たり前のことでいっちょまえに傷ついて、バカみたいだ。
泣きながら全速力で走る男、怖いだろうな。職質とかされたらどうしよう。なんて、しょうもないことを考えても、さっきの光景が何度もフラッシュバックして、オレの思考を奪っていく。
努力でカバー出来ることは、していきたい。残された時間の限り、ユキさんを支えたい。でも、オレには限界があるんだ。
バンさんじゃないから。
女の人じゃないから。
オレが、オレでしかないから。
「ふ、ぐ、うぅ……っ」
鼻も、喉も、こめかみも、心臓も、全部痛い。
*
泣きながら全速力で走り続けるなんて、5分持つかどうかだ。いい加減膝が笑い始めて、全く見覚えのない団地の真ん中で、速度を落としながら、ゆっくりと立ち止まった。
ぜえぜえと肩で息をしながら体を折り曲げ、膝に手を置く。額から吹き出た汗を拭うことも出来ず、汗とか涙とか鼻水で、オレの顔面はぐしゃぐしゃだった。
仮にもこれからアイドルになろうって奴が、この醜態。有名じゃなくて良かったと、今だけは思える。
数分浅い呼吸を繰り返したところで、やっと息が整って顔を上げた。長袖の裾で、べとべとの顔を拭う。呼吸が落ち着くにつれ気持ちも少し落ち着いて、涙もいい加減止まった。
全く見知らぬ土地をとぼとぼと歩き始めると、すぐにコンビニに行き着いた。吸い寄せられるように近づき、入店した。
虫みたい、って、ユキさんなら笑って言うかも。オレはオレで、蚊の鳴き声とか真似するかもな。蛾の鳴き声を知らないから。
店内にオレ以外の客はいなかった。住宅街に佇むコンビニはこの時間、あまり需要がないらしい。ミネラルウォーターを手に取り、セルフレジへと向かう。普段は聞き流してしまう店内放送がよく聞こえて、流行りのミュージシャンの新曲が、パーソナリティーによって箔付けされながら紹介されていた。
――本当は今この瞬間、〝バンさんとユキさんの〟Re:valeの曲が、流れていたかもしれないのに。
毎週ヒットチャートを賑わせる期待の新人。キラキラした笑顔を振りまきながら歌って踊る二人を、オレは毎日録画する。どれだけ小さい記事だとしても、Re:valeが載っている雑誌は全部買って、一意専心にファン活動を続けていたことだろう。
(そう。だからユキさんも、〝あんなこと〟をする暇がないくらい、目が回るほど忙しくて――……)
考え始めたらきりがない、あったかもしれない未来を思い描き始めて、いけない、と首を振る。
誰に見られているわけでもないのに気まずくなり、そそくさとコンビニを後にした。
近くの交差点に小走りで向かうと、最近はほとんど見なくなった歩道橋が視界に入る。ふもとに近づき、トントンと階段を登って車道の真上で止まった。住宅街からほど近いそこは、車の通りも少なく静かだった。
この高さならもう少し遠くまで見えるだろうかと東側に目を凝らす。が、ヒントになるようなものは何もなく、遠くの方に青色の標識が見えるだけだった。
我ながら、なかなかの脚力。どんだけ遠くまで来たんだ?
暫くはその場所でぼーっとしてみたものの、10分ほど経つと流石に体が冷えてしまった。カラオケに行くにしてもマップを見ないことにはどうにもならないと、凍える手でスマホを取り出した。
すると、まるでタイミングを見計らったように、バイブレーションが鳴った。
一気に緊張が走る。
恐る恐る画面を見ると、そこには「ユキさん」の文字が煌々と表示されていて、息が止まりそうになった。
メッセージではなく、着信だ。
え、どうしよう。取るべきなのかな。いや、取らないとか、あり得ないだろ。何考えてんだよ百瀬。
頭では理解しているのに、指は震えたまま、緑のボタンの上で停止してしまう。
だって、何を話せばいいのか分からない。わざわざ電話してくる理由も分からなかった。メッセージで済まないようなことが、あったのだろうか。
いつもであれば、三秒以内にタップして、勢い余って大声出して、ユキさんをびっくりさせているオレだ。こんな風に逡巡するのは初めてで、自分自身に狼狽える。
大丈夫? いつもみたいに、笑える? オレ、うまいこと喋れるかな。
なんて考えあぐねているうちに、スマホの振動は止まってしまった。
「あ……」
申し訳ないことをしたと思いつつも、どこかホッとしている自分もいる。
着信が切れたと同時に、過去の通知も表示された。そこで、ユキさんから二通連続、しかも20分以上前にメッセージが送られていたことを知る。走りながら感じていた振動は、間違いなくユキさんからのものだったらしい。
(……すぐ、送ってくれてたんだ)
期待しないようにしていた分、先程とは別の意味で心臓が一度、強く鳴った。
「っ、え?」
すると、再びスマホが振動し始めて目を見開く。画面には同じく「ユキさん」の文字が浮かんでいた。
わざわざ、二回も電話をかけてくるような人じゃない。電話に出なければメッセージで済ませる人が、わざわざ、二回目を鳴らしている。
――これを取らなかったら、何かが終わってしまう気がした。
意を決して、緑のボタンをタップし、震える手でスマホを耳にあてた。
『モモくん!?』
ユキさんの焦った声が耳に届く。ぶわわ、と一気に首筋に熱が集まり、途端に首をもたげたのは〝よろしくない〟感情だった。
――ふざけんな、百瀬。ユキさんが焦っていることに、申し訳なさ以外を、絶対に感じるなよ。
自分に言い聞かせて、戒める。ひゅっと強く喉を鳴らしながら息を吸い込み、吐き出すのと同時に勢いをつけて言い放った。
「あのっ、ユキさん! オレ今日バイトなくなっちゃって、そんで、早めに帰ったんですけど、ちゃんと連絡入れるべきでした。軽率でした、すみません!」
『……え?』
「これからは、帰る時は絶対絶対連絡いれます。その時、ユキさん的に都合悪かったらいつでも言ってください! もう、絶対邪魔しないんで、だから、ごめんなさい!」
『何、やめてよ、何言って』
「オレ、漫喫とか行って時間潰すの得意ですし。あ! 今日もこのまま、明日の昼ぐらいまでカラオケとか行こうと思ってますっ。明日はちょうどバイトないし、レッスンも夕方からだし、だからユキさんはさっきの方とゆっくり」
『モモ!』
「っ」
ビクッ、と肩が震えて、オレは声を詰まらせた。
『もう、いいから』
――え、ユキさん、怒ってる?
オレ、また何か間違えた? わざとらしすぎたんだろうか。逆に気を回しすぎたとか?
……まさか。
オレの、最悪の感情に、気づかれていたら、どうしよう。
ふるりと唇が震えて、また泣きそうになる。自分の涙腺がこんなにも弱いことを、今日初めて認めた。ユキさんには何度も「泣き虫だね」と言われていたけど、そんなことはないと、本気で思ってたのに。
今すぐ電話を切ってしまいたい。へらへら笑って、ユキさんの制止をなかったことにしたい。オレがもっと明るく、傍若無人であれば。「じゃあオレ、ジャンプの最新号読みに行くんで切りますね!」などと言って、終わりに出来るのに。
オレの喉からは勝手に、頼りない声が絞り出されていた。
「…………ごめんなさい…………」
涙で視界が濁る。ぽた、ぽた、と顎を伝って、鉄柵の上に水滴として残った。
『なんで謝るの』
ユキさんの声は平坦で、無感情にも聞こえる。ぶるりと体が震えた。
「オレが、全部、へたくそだから……」
『っ、……。………はあ』
そのため息が、トドメだった。心臓にナイフを突き立てられたかのような衝撃に、声が出ない。これ以上困らせたくないのは本心なのに、行動全てが裏目に出ている。
『ねえ、今、どこにいるの?』
「…………」
『……分かった、じゃあ、探すよ。朝までかかったって探す。だからせめて、安全なところにいて』
「……、なっ」
予想だしないセリフに反応が遅れた。それからすぐ、ツー、ツー、と終話を知らせる電子音が無情に流れる。
慌ててかけ直しても出てくれず、心臓がバクバクと早鐘を打った。
あてもなくオレを探すなんて無茶だ。すぐに帰らなきゃ、と慌ててタクシーの迎車アプリを開いても、タイミング悪く、近くを通っている車はなかった。
ひとまずさっきのコンビニに戻り、位置情報をラビチャに送る? ユキさんはちゃんとタクシーを拾ってくれるだろうか。絶対に、無茶はしないでほしい。そもそも、メッセージを読んでくれるのか? もし見るのが数時間後だったりしたらどうしよう。
歩道橋の階段を下りる足取りはおぼつかず、何度もずり落ちそうになった。
怒らせた。呆れられた。
怖かった。申し訳なかった。
それなのに、探してくれている。
マップを開いて、位置情報を取得する。メッセージを送るには、ユキさんから届いていた二通を確認する必要があった。恐怖に足がすくんで、けれど覚悟を決めるよう息を呑んだ。
震える指でラビチャを開き、文面を見て、オレは絶句した。
『ごめんモモくん ごめん』
『いなくならないで』
たまらず、その場にしゃがみ込む。
オレはやっぱり、何も分かってなかったんだ。
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