あの家に帰るのをやめて欲しい。
 いくら言っても、モモの返事は変わらない。
「引っ越しする時間ないもん」
「そんなの金を積めば一発だ。モモが収録してる間には全部終わってる」
「オレがいない間にオレの家のものの配置が決まってるの、なんか気持ち悪くってさー」
 そんなこと、欠片も思っていないくせに。眉間に皺が寄って、不機嫌が増す。モモはそれを肌で理解していて、けれどいつもみたく僕を宥めることはしなかった。
 この話題になると、君は何故か冷たい。僕はその理由が分からず、困惑するし、悲しくなる。そして何より、とことん腹が立つのだ。
「じゃあ、この前ネクリバのDから貰った宮島御砂焼の茶碗、部屋のどこに置いてあるか分かってるんだ」
「……キッチン、には……置かないから〜……、リビングの、テーブルの上?」
「洗面台にあったけど」
 うそマジッ? とモモはちょっと驚いてから、まあそんなもんだよね、とでも言うように喉だけで笑った。
 僕はさっきからモモの後頭部を追いかけているので、どんな顔をしているのか分からなかった。

 ネクリバ収録を終え、その後スタジオを変えてMC番組の収録が控えている、そんなタイミングだった。
 3時間以上の空きがあり、仮眠を取りに10分もせず帰れる自宅へ戻るというので、無理矢理家にまで着いてきた。僕が隣に居るのに、あの家に一人で帰すことがとてつもなく嫌だったから。
 いつものように(僕は最近、モモを自分の家に連れ帰ることにしていた。あとは帰るだけ、の状態になるまで、モモ個人の取材を待つことだってあった)僕の家に来ればいいと言っても、スタジオ位置的にそれは現実的ではない。だから着いていくことにしたのだ。合理的な判断だった。
 モモはしかし、僕の行動を仕方なさそうに笑う。歓待するわけでは決してないが、僕を撒くようなことは流石にしなかった。そんなことをされたらユニット存続の危機だ。
 理由? 怒りに支配された僕が、君を監禁するから。
 モモだって僕を監禁する願望があるような男だし、過激思想はおあいこだ。

 先を行くモモは、玄関に脚を踏み入れたと同時に振り返り、『聞き分けの悪い子供』を見つめる眼差しを僕に向けてきた。その居心地の悪さたるや、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 モモの部屋は相変わらず雑多でとりとめがなく、それなのに妙に生活感がなかった。
 互いに一人暮らしを始めて3年半以上が経ち、引っ越しもしていない中で、それは異様だった。家主の執着が、この家からは見えてこない。
 理由は簡単だ。
 Re:vale結成から五年で、どこかに姿をくらませようとしていたから。
 あえて愛着を向けず、いつでも引っ越せるように準備していたのだ。この男は。それだけでも十分腹立たしい事実なのに、今はこうして引っ越しを拒絶する。まるで意味が分からなかった。
 理由を反芻してみる。
 ――自分がいない間に、家の物の配置が決まっているのが、気持ち悪い?
 なんて適当な嘘だろうと、ため息が出る。そもそも、この家で決まった場所にしまわれているものなど、包丁ぐらいしかない。それすら和泉兄弟が泊まりに来た時にやっと買い、三月くんが使って以降、きっと一度も触れていない。
 モモは家事全般が得意じゃなく、あらゆる場所になんでも積み上げる癖があった。
 そのうえ食品は冷凍庫に突っ込んでおけば一年経とうが食べられると信じているし、食洗機の電源を入れる気力もないと平気で紙皿を使う。
 洗濯機だって、出番は殆どない。積み上がった服を見て、僕がまとめてクリーニングに出すのが常だ。
 僕がそれを知っていることを、モモが一番分かってる。なのに適当な嘘でいなすように笑う姿が忌々しく、僕は物騒にも、ぎゅう、ときつく拳を握った。
 勿論それで殴りかかったりなんかしないけれど、ゲンコツをかますぐらいは許されたい。僕自身がそれを許されないから、握るだけに留めている。もどかしかった。

 ――約半月前。モモの自宅で行われたのは確かな犯罪行為だった。
 半グレの男たちに上がり込まれ、酩酊状態にさせられた挙句、ベランダから落とされそうになったのは紛れもない事実だ。
 全ての黒幕が捕まっていない以上、自体が収束したとは言い難い現状。そんな最悪の記憶が残る場所に、何故帰したいと思う。どうしてそのまま住めと言える?
 何よりも僕が耐えられないのだ。
 おまえが僕の目の前で身投げしようとした部屋なんて。
 言葉が下手くそな僕なりに何度も伝えて、それでもモモは「無理だよ」「難しいよ」「ちょっと嫌かも」そんなことばかり言って僕の提案を拒否し続ける。
 いい加減、我慢の限界だった。
「モモ」
「んー?」
「どこにいくの」
「どこだと思う?」
 仮眠を取りに帰ってきた筈が、モモは寝室への入り口をスルーしてリビングを通り抜けていく。
「質問に質問で返すなって、下岡ちゃんに習わなかったの?」
「逆だよ。下岡ちゃんこそが教えてくれたんじゃん。名MCは、求められている場以外で自分の話を先にしちゃダメだってさ」
 僕は今答えを求めてるだろう明らかに。苛立ちすぎて舌打ちしかけ、くっと唇を噛んだ。
 ヒリつく空気など気にも留めないで、モモはベランダへの窓に手をかける。まるで見せつけるみたいに。
 ヒヤリとしたものが背中を駆け抜けて、伸ばした腕で肩を掴もうとしたのに失敗した。ベランダに降り立つモモと、空を切った指先。最悪の画。
「モモッ、」
「ごめん、一本いい?」
「は」
 焦って追いかけようとした僕の方を向いたモモは、制止するように声をかけた。その声に虚を突かれて、モモの思惑通りあと一歩を踏み出せないまま、暗闇で光る躑躅色と視線が交わる。
 ベランダの柵に背中を預けたモモがポケットから取り出したのは、真新しい煙草ケース。トン、と指で叩いて一本取り出し、いつの間にか持っていたライターで先端に火を付けた。
 風よけの為にかざした手のひらと、ライターの火に照らされる伏し目がちの表情が、恐ろしいほど様になっていた。
「……いつから?」
「実は、結構前から。こういう、ちょっと長めの休憩の時とかにだけ吸ってるんだよね」
 ふー、と吐き出された煙草の匂いはキツく、思わず顔を顰めた。わざと匂いがこちらに届くようにしたのは分かっていた。
「わはっ、顰めっ面もイケメン!」
「モモ」
「ユキ、煙草嫌いじゃん? だからユキの前では絶対吸わないようにしてたんだよね。匂いでバレたくないから、家でもほとんど吸ってないし、服も着替えたりしてた」
「……」
 煙草が嫌いであることは、否定は出来ない。わざわざ肺を汚しにいく必要を感じないし、服に煙草の匂いがつくことを、喜ぶ人間もそう居ないだろう。そもそもモモが傍にいてくれれば、ストレスもある程度は解消されるし。
 でもそこまでして隠し通すようなものなのかとも思う。モモが吸っていたら、それだけで嫌いになるとでも?
 モモは煙草を咥え直し、それからもう一度、長く吐き出した。
「ユキはさ、この場所も煙草も、嫌かもしんないけど。この家でベランダだけは、オレのお気に入りスペースなんだよね。こうして煙草吸いながらさ、星空見上げてぼーっとしてると、色んなこと思い出したり、逆に忘れたり出来る」
「……ベランダつきの家なんてごまんとある」
「だから、ここがお気に入りなんだって言ってんじゃんかー!」
 モモの大きな身振り手振りによって、灰がベランダに落ちる。モモは掃除が苦手だ。きっとこの灰も処理出来ないだろう。
 落ちた灰から、モモに視線を戻す。大きな瞳は暗闇の中でいっそう輝き、意思の強さを表していた。
「……オレから、この場所取り上げないでよ」
 そう言われて、僕はたまらず、靴下の状態でベランダへと出る。モモが驚く間も与えず、煙草を奪い取った。
「ちょっ、」

「あまり僕を舐めるなよ」

 もっと、地を這うような声を出したかった。それだけで脅してしまえるようなももに。出来なかった。僕の声はどこか裏切られたような、子供っぽい響きが載ってしまって、これじゃただの拗ねた大人だ。
「嘘をつくな。ここで煙草を吸うのがお気に入り? 灰一つ落ちてないのに?」
「そ……れは、掃除してるし。それに、風に飛ばされたりするでしょ、普通に」
「普通に? 普通にね。……普通は、灰皿があるんだよ。まともな人間は、面倒だからいちいち床に灰なんて落とさない。それとも何。モモは、毎回綺麗に掃除してるの?」
「……!」
 モモが目を見開く。ビンゴだ。こいつ、絶対ここで吸ってない。
 一度や二度はあるかもしれないが、頻繁に吸うならベランダ付近に灰皿を置いているはずだ。そしてこの家で灰皿なんて、一度も見たことがなかった。たった今携帯灰皿を出さなかったのも、慣れてないからに違いない。
 こんな嘘をついてまで、この家に留まりたい理由が、本当に分からなかった。
 心当たりがあるとすれば、唯一。
 体中に巡る血液が沸騰しそうに熱い。モモから奪い取った消えかけの煙草を床に落とす。
 モモの瞳は、それに釣られることなく僕を見ていた。焦りと困惑が、入り混じる瞳。そうだよ。僕を舐めているから、こんな目に遭う。
「アイツが、ここの住所を知ってるから?」
「……あ、アイツ……?」
 モモの声は震えている。
「月雲了。ここにいつか来るかもしれないから、引っ越せないのか」
「……ち、」
「まだ、許すつもりでいる? アイツのせいでおまえを失いそうになって、頭がおかしくなりそうだった僕のことなんて、どうでもいい?」
「ちが、違う、そうじゃない、ユキ」
 絞り出すような声は悲痛に歪んで、本気で否定しているようにも聞こえるし、アイツをかばっているようにも聞こえる。
 いよいよ本気で舌打ちが出て、長い髪が鬱陶しく、乱暴にかきあげる。こんな可能性、最初から排除したかったのに。口にするのも忌まわしい。
「もし、そうだったとしたら。やっぱり僕は、モモをここに留まらせることは出来ない。――どれだけ恐ろしい思いをしたか。僕の気持ちが、おまえに分かるか?」
 こんなの、癇癪を起こした子供のようだと思う。けれど、これでも我慢した方だった。モモには基本的に、全幅の信頼を置いている。そして何より、これ以上ないぐらいの愛情を、注いでいるつもりだ。
 その全部が、なんの意味もないような気がする瞬間。それが今だった。
 僕が言うことを、全部否定する時。そのくせ、何も教えてくれない時。
 迷子の子供に、手を差し伸べるのは、おまえの義務だろうと言いたくなる。
 僕限定の、モモの義務なんだと。
 言えない。大人だから。モモを独り占めしたい思いよりも、優先されるべきがモモの自由であることは、嫌というほど理解しているから。

 は、は、と浅い呼吸を繰り返しているうち、少しずつ冷静さが戻ってくる。
 それから、ああ、やってしまった、とあっという間に後悔した。モモの顔が見れず、落とした煙草に視線を落とし、俯く。
「……ごめん」
「…………」
「スタジオに戻るよ。……ちゃんと、仮眠も取って。戻ってくる時には、一言連絡」
「ユキ、」
 ぎゅっと掴まれた腕に驚いて、顔を上げる。モモは、眉を八の字にして、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
 ああこれ、図星のやつか。最悪だな。
 ごめん、その通りだった。その一言を聞きたくなくて、腕を振り払ってしまおうかとも考える。けれどモモはそれを予想していたみたいに、更に腕を強く握り込んだ。少し、痛いぐらいに。
「ごめん。煙草、嘘だった。このベランダが好きっていうのも、嘘だ。下手な嘘ついてごめん」
「……」
「ほ、本当のこと言ったら、呆れられるって、嫌われるかもって、思って……」
「……」
「本当に、ごめんなさい……」
 そうだね。呆れたし、嫌いになったよ。
 そう言えればどれだけよかっただろう。酷いとか、悲しいとか、虚しいとか。そういう感情は勿論、ある。けれど呆れたわけでも、嫌いになったわけでもないのだ。
 それに。モモが泣きそうになりながら頭を下げている今、更に責めるような言葉は生まれてこなかった。
 ただ少し、疲れた。怒りよりも、裏切られたような喪失感と虚脱感で、気分がぐったりとしている。
 もういいよ、とは言えない。けれど、頭は上げてほしい。
 どうしたものかと考えているうち、モモが、ゆっくりと頭を上げた。掴まれていた腕が解放される。
 その顔は、何故だか真っ赤だった。

「ここ、すぐに引っ越しちゃったら。ユキがオレのこと、お持ち帰りしてくれなくなるって、思って」

 ……………。
 …………………………は?

「だからずっと、引き伸ばして、ました……。本当にごめんなさい。言い訳は、ありません……」

 たっぷり、五秒は黙った。
 そしてその間、モモの顔、耳、首までもが真っ赤に染まっていくのを、僕はどこか祈るように見ていた。
 本当に? そんな理由?
 ……お持ち帰り?
「つ、月雲は……?」
「了さんは一ミリも何一つ関係ありません。っていうか、来られたとしても凍った鮭とか投げつけて追い返すよ」
「ああ、モモの冷凍庫、魔窟だもんね……」
「…………」
「…………」
 モモは顔を覆ったまましゃがみ込み、「消えたい……」と、本当に消えそうな声で呟いた。
「……引っ越したって、お持ち帰りぐらい、するよ?」
「しない。ぜーったいしない。ユキは今、オレをお持ち帰りするブームなだけだよ。バンさんにポエム送るブームだってすぐに終わったじゃん」
「アレをブームって言うの、バンとおまえだけだし。そもそもブームじゃないし。……じゃなくて、あのね、モモ」
 視線の高さを合わせるように、僕もしゃがみこむ。モモの顔を覆う両手を掴んで、無理やり目と目をあわせた。モモの顔は歪んで、今にも泣きそうだ。
「なんでそんな、回りくどいことしたんだ」
「だって……だって、ユキが悪いんだよ。オレのことすっごい心配してくれてさ、一人にさせないようにって、ユキに手を引っ張られて帰るなんて、一緒に住んでた時もしたことなかったのに。絶対離してやらない、みたいなさぁ……」
「……うん」
「あんな、あんなの……、オレ、もう、ダメだぁーって、なるじゃんか……」
 最後の方は殆ど聞こえなかった。けれど、言いたいことは、十分すぎるほど分かった。
 そして僕も多分、同じぐらい、顔が赤い。
「……僕、そんなに必死だった?」
「そうだよ。……そうじゃなかったの?」
 恐る恐る、寂しそうに訊いてくる。その声も、顔も、反則だと思った。
 モモの方が、悪いことをしたのにね。
「嘘をつかれて、悲しかったよ」
「ごめんなさい」
「回りくどいことされて、腹も立った」
「ごめん、なさい……」
「でも僕が、悪かったなら。しょうがないね」
 モモの顎を軽く掴んで、少しだけ上を向かせる。
「……?」
「これでチャラにしよう」
 モモの柔らかな唇に、自分の唇を重ねる。ちゅ、とわざとらしく音を立てて、今僕らがキスをしたという事実を、モモにしっかりと認識させた。
 煙草の香りがするキスは、モモらしくない。あとでちゃんと、仕切り直させてもらうとしよう。
「…………………………は?」
「よし、じゃあ今から僕は、モモをお持ち帰りしようかな」
「え、ユキ、ちょ、ちょっと、何いまの、何、何何何」
「何って、キスだろ。知らないの?」
「し、っっっってます、けど!?」
 モモの手を引く。立ち上がらせる。モモはぎゃあぎゃあ喚いていて、さっきまでの殊勝さが嘘みたいだった。
 なんだ。最初っからこうしていれば、我慢することも拗れることもなかったのか。
 仮眠の為にベッドに向かいながら、僕なりに考えた折衷案を提案してみる。
「今の場所を引き払っても、お持ち帰り出来る方法、一つあるよ」
「……どんな?」
「一緒に住めば、いくらでも出来る。その上、僕をお持ち帰りすることだって出来るよ。ちなみに僕にそんなこと出来るのは、この世界でモモ、一人しかいない」
 凄いでしょう、と自慢げに微笑んでみせる。
「…………それは、」
 死ぬほど贅沢だね、とモモは笑った。
 その顔があんまり愛しくて、次に一緒に住むならば、一生離れがたいような、とんでもなく愛着を持てる家にしてやろうと。
 誓うように、結んだ手のひらに力を込めた。



余談。
「モモのこと、監禁せずに済んでよかった」
「なんてッ?」
「やぶさかでもないでしょう」
「……ノーコメントで!!」
 煙草はゴミ箱に捨てた。





うちに帰ろう