初めてユキさんのにおいを胸いっぱいに感じたのは、おんぼろアパートで抱きしめられた時だった。
 ユキさんの肩に鼻水をひっつけながらびーびー泣いていたオレは、香水なんてつけていないはずのユキさんから香った甘いにおいに、やけに安心させられていたっけ。

 そんなユキもいつの間にか香水をつけ始め、意外にもホワイトムスクを愛用している。
「女子ウケがいいヤツだ!」
 と茶化したら、
「モモウケが一番よかったヤツだよ」
 と返されて、何も言えなくなってしまったのは、三年ほど前の話。
 確かに、ユキが一度つけていた時、絶賛したような気がするけれども。
 こういう時、ずるい人だなと思う。
 別段オレを喜ばせる為に言ったわけではない、そのニュートラルなノリを筆頭に。オレが顔を赤くさせて「そうだっけ?」ととぼけても、機嫌よさそうに笑うだけだ。
 期待したいのに、させてくれない。それがオレだけに見せる顔じゃないことを知っているから。

 そんなオレはTPOに合わせて付け替える派。
 石鹸の香りか汗臭いか二択だった少年が、こんな成長を遂げるとは我ながら信じられなかった。
 これもまた、業界に染まった証だ。

 ユキもオレも、人工物を身に纏って、ちゃんと「千」と「百」をやっている。

 *

「——遊んできたの?」
「んあー……、ごめん、タバコ臭かった?」
「それもあるけど。モモ、女の子と遊ぶ時にしかつけないでしょ、それ」
 と、何気なく言われて驚いた。
 オレの香水を気にしている素振りなんて一度だってなかったのに。インタビューでもこの手の質問には答えたことがないから、ユキ本人が香りの変化に気づいていなければ、そんなことは言えないはずだった。

 麻布十番のクラブからユキの家まではタクシーで五分。
 浴びるほど飲んだアルコールはさほど抜けず、連日の激務からくる疲れと眠気のトリプルコンボ、うす暗い地下からの階段を上って地上に出た瞬間の「全部終わった感」を前に、自宅へ帰る選択肢が消えた。
 結局、この時間絶対に寝ているユキに言い訳のラビチャを飛ばして、勝手に合鍵を使わせてもらうことにしたのだ。なにせタクシーで五分だ。その誘惑に勝てる人間はそういない。
 リビングのソファで軽く横になって、二時間程度寝かせてもらったら帰ろう。
 そんな心づもりで足を踏み入れた先、寝床にする予定だった場所を陣取っていたのは、まさかの家主だった。
 ライトもつけないで、正面のソファで待ち構えるように座っていた。

 そして冒頭の会話に至る。
 「おかえり」や「ただいま」は勿論のこと、「お邪魔します」も「いらっしゃい」もない。
 朝の四時なら当然だった。
 特別製の薄縹がオレを上から下まで舐めるように眺めている。どこか不機嫌そうなのに相変わらず何をどうしたって綺麗な人は、寝起きらしく後ろでひとまとめにした髪が少し乱れていた。
 シルク素材で仕立てられたシャンパンホワイトのパジャマは、オレが去年の誕生日に贈ったものだ。しなやかで上質な生地のお陰で体のラインが綺麗に見えるからお気に入り。六桁出した甲斐があった。
 なんてことをふわふわした頭で考えながら、L字型のソファの短辺にぼふりと腰を下ろして、寝そべるように倒れた。
 短辺だけで二人分ゆうに座れる広さがあり、寝るのはこっちでいいやとユキの視線を遮るように目を瞑る。ふかふかに半身を包まれると、急激な眠気に襲われた。
 くああぁ、と声が出た豪快なあくびにも、ユキは何も言わなかった。こんな早朝からオレと会話をする気らしく、明らかに返事を待っている間がそこにはあった。
 ――女の子と遊ぶ時にしか、つけない香り。
 そうだね。そういうTOPが、あるからね。
「女子ウケ、いいからねえ、これ」
「ああ、そう」
「んはは、興味なさそぉ〜」
 訊いてきた割にいかにもどうでもよさそうで、それなら会話にさせる意味なんてなかったように思う。
 だってユキは、興味のないことにはとことん興味がない。今みたく、へえ、とか、ふうんとか適当な相槌を打って終了だ。
 それはしかし、ユキが誰にも媚びへつらうことない証明で、嘘をつかない証拠だった。そのことを理解出来る人間は、そういうユキを愛してやまない。オレもそのうちの一人だった。
 だからこそ、香水に触れられたことに驚いたのだ。過去一度も、オレのつける香りに良いも悪いも言ったことはなかった人が、その種類を把握しているなんて想像もしていなかった。
 出来るだけ態度には出さないように気をつけながら、それでもどこか高揚してしまう。

 なのに、次にユキの口から出た言葉は、朝の四時みたいな温度をしていた。
「お持ち帰りはしなかったんだ」
 ひんやりとして実態が掴めない、感情が何も見えない声に、静かに、ゆっくりと体温が下がっていく。
 一気に現実に引き戻されて、目が醒めた。
「……は、ユキの家に? するわけないじゃんか」
 今、うまく笑えただろうか。
 無理やり半笑いで返してみたものの、冷えた空気はそのままだ。瞼の裏からでは、ユキがどんな顔をしているか分からない。怖くて開けられそうもなかった。
 あれ、オレ、ユキの家にまで女を連れ込みそうって思われてんだ? その事実が、地味に堪える。
 けれど実際問題、女ウケする香水つけてクラブに遊び行ってます、と公言しているようなものなのだから、そう思われるのも当然だった。
 ――あの場所には好きで行くのが3割、付き合いが7割。
 芸能界の縮図みたいな場所に飛び込んで手っ取り早く顔を売るのがオレの仕事。その点、クラブは本当にいい社交場だった。
 だから女子ウケする香水をつけるし、腕に引っ付かれるくらいは受け入れている。事務所との相談なしに下手に撮られても困るから、オレから肩や腰に腕を回すようなことは絶対にしない。
 ハメを外し切らないオレに興醒めする女の子もいれば、更なる安心感を持って迫ってくる子もいるから様々だ。
 でも、お持ち帰りなんて実際、一度だってしたことはなかった。週刊誌とは持ちつ持たれつの関係ではあるけれど、あえて餌をあげる必要もないだろ。
 ——というのは、建前で。

 オレが好きなのはユキだから、しない。
 それだけ。
 わかれよバカ。
 うそ。わかんないに決まってるよね。
 ごめん。

 いっこいっこの言葉が浮かんでは消えて、やっぱ来なきゃよかったと悔やむ。タクシーで二十分かけて、ちゃんと一人で帰っていれば、こんな気持ちにはならずに済んだ。
 ユキの家を選んだのは、あの場所からタクシーで五分だから。
 当たり前にそれも建前。ひと目でいいから、寝ててもいいから、ユキの顔が見たかった。それだけだ。
 誘っても絶対に来てくれない場所にユキを呼び出すことは不可能で、酒と疲れと眠気のトリプルコンボを理由に、勝手なことをした結果がこれだった。
 ユキが生み出す沈黙が苦しく、言外に「帰れ」と言われているようにも思え、深く息を吐いたのちゆるゆると起き上がった。頑なに下ろしていた瞼を無理やり開ける。
 しかし想像した場所に、ユキの姿はなかった。
「え?」
 空になったソファを前に呆然としていると、背中側、遠くの方からピロリロと間の抜けたメロディが聞こえてくる。
 あれ、これって。
「お湯、沸いたよ。湯船浸かって、ベッドで寝な」
 間抜けなメロディと同じ方向から声をかけられて、振り向きざま、オレが置きっぱなしにしているスウェットをぼふりと頭に乗せられた。

  *

 せっかく沸かしてくれたのに、ここで帰るのは申し訳ないとか。服だって用意してくれたんだし、とか。
 誰に聞かせるでもない言い訳を並べ続けていたら、結局同じベッドで眠ることになってしまった。
 バスルームから戻ると、相変わらずソファで待っていたユキに手を引かれ、寝室へと連れて行かれた。ユキも寝直すらしい。
 ソファでいいと言ったところで聞く耳を持たない人は、いつも通り右側をあけるようにベッドへと潜った。
 オレも観念して、いそいそと羽毛布団の下に体を滑り込ませる。ユキに背を向けるように寝転がり、「おやすみ」と小さな声で言った。
 返事はなく、肌がヒリつく。
 全く眠れる気がしなかったが、体力にも限界はある。しばらくすれば気絶するように意識を手放せるかもしれないと期待して目を閉じかけ――逆に目を見開く羽目になった。
「……ゆ、ユキ……っ?」
 語尾が跳ねるのも仕方なかった。
 だって今、ユキに抱きしめられている。
 背中から回された腕が胸元に触れていて、オレの心臓がバカみたいに鳴っていることはバレバレだ。
「ど、どした? 寒いの?」
 言葉で答える代わりに、抱きしめる力がいっそう強くなる。ユキの鼻先がオレの首筋に当たっているのが分かり、「ひぇ」と情けない声をあげて身じろいだ。その程度では拘束は解けず、だからといって力ずくで逃れようなんて思えるわけがない。
 しばらく、自分の心臓の音をBGMに、ひたすら次のアクションを待った。時計の秒針が刻まれる音がして、背中が溶けそうに熱い。

「……もう」

 耳の中に直に吹き込まれるような声に、背筋が一気にそわつく。這い上がるような何かを誤魔化すように、「もう?」とオウム返しした。
 まともに思考する余裕もない。
「つけないで。香水」
 その言葉の意味が分からず、とうとう思考は停止した。その上ユキの声にはどこか拗ねたようなニュアンスがあって、それにも困惑する。
「……な、なんで……」
「…………」
「ゔっ…!? ユキっ、さすがに、潰れるっ……!!」
 その細身のどこに隠されていたのか、とんでもない力だ。言葉じゃなく行動で抗議を示すようなやり方は子供っぽくて、ユキらしさとらしくなさが合わさったようなやり方に混乱が極まる。
 もう一度背中を取られたら大変だと敢えてユキの方を向くと、想像以上に間近に顔があって悲鳴をあげそうになる。
 完全にパニックだ。
 非遮光のカーテンからうっすらと入り込む朝の気配が、ユキの薄縹を光らせたかと思うと、まっしろな瞼が胡乱におりて、ジト目でオレを見つめた。
「僕はずっと、モモのために香水をつけてるのに」
「……へ?」
「モモがとっかえひっかえ香りを付け替えるのは、僕のためじゃないから、……腹が立つんだよね」
 しばしの沈黙。ユキの眉間のシワを、近距離で見つめる。
 え、え? 何言ってんの。
 だってそれは「百」の為の武器だから。「千」だって、そのためにつけていたんじゃないの。
 ずっと、嫌だなって思ってたの?
「ゆ、……っ」
 訊くより前に、今度は正面からやわく抱きしめられる。長い指が背中を撫で、初めて抱きしめられた時の記憶が蘇った。
 ホワイトムスクとは違う、ユキさんのにおい。
 体からふっと力が抜けて、のろのろとユキの背中へ腕を回した。あわいを埋めるとそのにおいがいっそう強くなり、たまらず熱い息を吐く。
「ユキのにおいだ……」
「今は何もつけてないけど?」
 まだ拗ねてる。回した腕に力を込めた。
 それがいいんだよ、と言いかけて――別の言葉に直すことにする。
 深呼吸して、出来るだけ自然を装って、口を開いた。
「うん。でも、好きだよ」
「僕が? 匂いが?」
「……は、はあ? そこ言わせるッ? 普通!?」
 わざわざその二択にした時点で、ユキの中で答えは出ているはずだ。腕の中でキッと睨んでみても、ユキの表情は飄々としたまま変わらない。
 横暴だ、と抗議しようとしたら、首筋に鼻を埋められ、すん、と嗅がれた。
 自分も今しがた相手にしたばかりだというのに、想像以上の恥ずかしさに絶叫しかける。

 顔を上げたユキは、薄闇の中でも驚くほど綺麗に笑って、けれど少し意地悪に言った。

「僕は好きだよ。モモの全部が」

 いや、それはズルじゃん。
 と顔を真っ赤にして言えば「モモが気づくのに三年待ったからね」と返されて、もう何も言えなくなってしまった。



それから五秒後に告白した