「攫われたい」と君は言った。
*
「う、う、海だー!!??」
「海だよ」
「波だ〜〜!!」
「波だね」
百のはしゃぎようを見て、ほっと吐いた息は真っ白だった。それも、すぐ暗闇に溶けて消える。頬を撫でる海風はおそろしく冷たく、早く帰りたいとまろびでそうになる言葉を、千はくっと飲み込んだ。
地元は海沿いであるから、物珍しさなどまるでない。しかし百にとってここはしっかり非日常らしく、それだけでまあ来た甲斐はあっただろうと自分を納得させた。
とにもかくにも、寒すぎる。家で曲作りが趣味かつ仕事の人間の代謝など、一般人以下だ。ガクガク震える体を自分で抱きしめるように、両腕を胸の前で組んだ。
攫われたい。と君は言った。
誰に? と聞いたら、
……えー。……波に?
なんてふざけた返しをされたから、お望み通り海に来た。それだけのこと。
年が明けてからふたつき。この時期、番組改変期を前に各所に引っ張りだこの百は、顔には出さないが人並み以上に疲労が溜まっている。
忙しすぎて、大好きな飲み会も運動部も開けていないらしい。ストレスゲージが最高潮に到達した瞬間、ふいにこぼした言葉を、千は聞き逃さなかった。
それだけ耳をそばだてているのだ。柄にもなく。
「ユキ、やばい! めっちゃ冷たい!」
「危ないよ。本当に攫われないようにね」
「はぁ〜い!」
〝公園〟と名のつくこの場所の規模は広大で、住宅街とは無縁の地だった。
すでに深夜二時ではあるが、どれだけ大声を出したところで、無限の海に吸われ消える。百の犬そのものみたいな元気いっぱいの返事も、千にしか届かないのだ。
それが、いいなと思う。
百が自分のため〝だけ〟に発する言葉があるというのは、素晴らしいことだから。
浜辺の整地されたコンクリートに腰をおろして、波打ち際で騒ぐ姿を遠目に見た。スニーカーで、寄せる波をぱしゃぱしゃと蹴り上げ、冷たいだの潮風が目にしみるだと騒いでいる。
きゃーきゃー言っている姿は少年のようでもあれば女子高生のようでもあり、
(まあ、犬かな)
と改めて納得した。冷たいならこちらに来ればいいし、潮風は目にしみるどころか髪がベタついて最悪だし。犬はそういうこと、気にしない。
とはいえ、百に、何も気にせずはしゃげる時間が出来て良かった。
「ただーいまー」
「相当遊んだね」
「うん。真夜中の海とか映画かよ! ってテンションブチ上がっちゃった」
見てたらそうと分かる。百は膝下にかかった砂をぱたぱたとはたきながら、千の隣に腰掛けた。伸ばした膝の先には、しとどに濡れてぐしゃぐしゃになったスニーカーが見える。
まず単純に、冷たくないのか、と驚いた。訊く前に百が答える。
「案外染みてないから大丈夫!」
「でもそれ、お気に入りのやつでしょ。ダメになっちゃうよ、いいの?」
「今度新型が出るからそれに買い換える予定なんだよね。こいつも最期に、ユキと海で遊べて本望なんじゃないかにゃ?」
「僕とも遊んだカウントなんだ」
「そりゃそうだよ。ここに連れてきてくれただけで1カウント!」
あまりにお手軽なカウントに口を緩めて微笑むと、「うわぁ、暗闇で発光してる……」と百は神妙に言った。なんだそれ、と吹き出してしまう。
暗闇といっても人工の浜辺だ。しっかりとライトアップはされている。百の感情表現の豊かさは特に顔に出るので、ちゃんと見えるぐらいの灯りがあって良かったと今更ながら思った。
百が海へと向き直るのにならって、千も同じようにまっすぐに前を見た。ライトが届かない海辺はあまりにも暗く、沖までは望めなかった。
「怖……ずっと見てると飲み込まれちゃいそうだね」
「次は明るい時にくる?」
「え、付き合ってくれるのッ? ユキの為に、水着新調しちゃうよッ!?」
「シーズンを外してくれたら、いいよ。水着はその時見るね」
「風邪ひくってぇ!」
千の穏やかな横暴にきゃらきゃらと笑う百の声は、あっという間に海に呑まれてしまった。先程まではこの声は自分だけのものだと満足気にしていたものの、もっと声の余韻を楽しみたいのに、すぐに連れていかれてしまうのを不満に思う。
更には、予告なしにびゅうと吹きすさぶ潮風が、凍えるほど冷たかった。マフラーからはみ出たひとふさが、強く靡く。
「さっ……む……っ」
「ダーリン、そんなに着込んでるのにまだ寒いの? モモちゃんがぎゅっとしてあげようか?」
「うん、して」
「えっ!」
自分から言い出したくせ、即答されたら固まるのだから勝手だ。実際問題本当に寒いので、人肌が必要だと本能で感じている。ぐいぐいと百の肩に頭をなすりつけると「し、失礼しまーす……」なんて他人行儀な言葉と共に、ゆっくりと肩に手が回された。
「……付き合いたての彼氏じゃないんだから、ちゃんと抱きしめてよ。全然あったかくない」
「あ、いや、そうなんだけどねっ? なんかほら、ちゃんとやろうと思うと、ちょっと照れるっていうか……?」
「僕は照れないのに」
「それもどうかと思うッ! 照れてよ〜!」
眉をハの字に下げて笑う百を、千は不思議そうに見つめる。百の照れるポイントが、未だに分からないのだ。
勢いをつけて抱きついてくる時、頬にキスされることすらあるのに。友好の証だから恥ずかしくない、ということなのか、なんなのか。じゃあこれは、〝そう〟ではないと?
千からすれば、百から向けられる好意はどんな形であれ嬉しい。手を繋ぐのも、抱きつかれるのも、頬にキスだって、その全てに幸福を感じている。
であるなら。
「僕をあっためられるの、幸せじゃないの?」
「……うん? なんて?」
「僕はモモにあっためてもらえるの、凄くハッピーなんだけど。モモはそうじゃないから、抱きつけないってこと?」
少し拗ねるように眉を寄せて言えば、百はしばらく停止してから「いや、」と神妙に口を開いた。
「そんなわけない。……そうだよね、ユキのこと合法で抱きしめられるなんて……めちゃくちゃ凄いことだよね!?」
たった今気づきましたと言わんばかりの勢いに、眉間のシワはすぐに解けて、むしろ山なりに丸まった。
「合法なの、百ぐらいだよ」
「ほんとに!? ヤバ……。こんなに素敵な機会を、恥ずかしいってだけでみすみす逃すのは……物凄く勿体ない気がしてきた!」
「そうね。その調子」
ではどうぞ、と告げると、百は意を決したように千の体を引き寄せて、ぎゅうと抱きしめた。正面からではなく、ほとんど真横からなのが少し残念ではあるものの、あたたいことに変わりはない。百の体温は千よりよほど高いので、ぬくぬくとして心地よかった。
それにしても、端から見たらどんな光景なんだろうな、これ。
身投げでもするのか? みたいなこと、僕だったら思いそう。
「なんか心中する二人って感じしない?」
と、百が耳元でおかしそうに言った。
「僕も同じようなことを考えた。実際は、僕を抱きしめられて幸せなモモと、モモに抱きしめられてあったかい僕なのにね」
「え!? あったかいだけッ? ユキはハッピーじゃないわけ!?」
がばりと体が離れていって、批難めいた顔と冗談めかした声で責められる。あはは、と思わず笑うと、「答えて!」と体を揺さぶられた。そう、その調子。
元気が出てきて嬉しいよ。
「ごめんて。ちゃんと嬉しいよ」
「ほんとぉ……?」
ジロジロと千を見つめる怪訝な視線すら楽しい。千も百に向き合うようにして、今度は自分からぎゅうと抱きしめた。
まだまだ暖は取り足りないし、それ以上に、無性に抱きしめたくなったので。
「うぇっ? ユキからなんて珍しいね!?」
「うん。モモが可愛いから、ついね」
「……相手が可愛ければ、つい抱きしめちゃうタイプ?」
「ふふ、違うな。言い直そう。可愛いモモだから、ついね」
「大ッ正解! 花丸百点!!」
百の腕が満足気に伸び、正面同士で抱き締めあえた。
心中だなんてとんでもないな、と思う。
こんなの。どんなドラマのワンシーンよりも、ロマンチックに違いない。
*
帰りも千が運転すると宣言し、百は助手席に座らせた。
濡れた靴で車内が汚れることを失念していたと散々謝られて、そんなことを気にしたこともなかった千は、じゃあお詫びに、今度モモの靴を選ばせて、と言った。
「それ、全然お詫びにならないんだけど……オレが嬉しいだけなんだけど」
「僕はモモに好きな靴を履かせられて満足だし、モモも嬉しい思いが出来る。win-winだね」
始めこそブツブツ言っていた百も、東名高速に入ってしばらくしてからは、舟を漕ぎはじめていた。
「寝てていいよ。僕、まだあんまり眠くないし」
極寒の海辺より、空調の効いた車内の方がよほど過ごしやすいのもある。寒さのおかげで相当目が冴えてしまって、家につくなり倒れ込むようなこともないだろう。それはむしろ、百の方であるはずだ。
しばらく「んー」「でも〜……」なんてブツブツと言っていた百も、いい加減自分の状態を理解したのだろう、おぼつかない手付きでシートを倒して「寝ます……」と宣言した。
「おやすみ」
「ん……。ねえ、……ユキぃ〜」
ほとんど夢に片足を突っ込んでいるような、ふわふわとした喋り方が耳にくすぐったかった。
百の声は、眠りにつく直前が一番甘ったるい。舌がうまく回らないせいだろう。
「うん?」
ふやふやの問いかけに、出来るだけ優しく答えると、百はゆっくりゆっくり、まるで独り言のように続けた。
「ほんとはね」
「うん」
「あの時」
「うん」
「『ユキに攫われたいって』言い、た……」
……すー、すー……。
「え、そこで寝る?」
ふは、と思わず笑いが漏れて、けれど大きな音にならないように喉元でなんとか抑えた。絵本を読み聞かされた子供のような寝方だ。
適当に流していたカーラジオのボリュームを絞りきると、車内には百の穏やかな寝息だけが浮かんでは融けて消える。
安心を絵に描いたような姿に、千自身も安堵を覚えた。
「知ってるよ」
だから一番初めに「誰に?」と訊いたのだ。
僕を差し置いて、波になんて攫わせるわけがない。
このままモモは、僕の家に持って帰ることにする。
風呂に入れて、全部お世話して、同じベッドで抱きしめあって眠る。
それが僕に、攫われる、ということだから。