暴走機関車が煙を出して横たわっている姿は、実はさほど珍しい光景ではない。あくびを噛み殺してから機関車の横を抜け、千はキッチンへと足を運んだ。
外から、ホワイトノイズのような音が漏れ聞こえる。土砂降りの雨だった。
ケトルで湯を沸かしつつ、冷蔵庫から昨日の残りのアンティパストを取り出す。眺める間もなくホットサンドにすることを決めて、普段と趣向を変えてちょっと甘めの味付けにしようと考えた。
オリーブオイルをほんの少し垂らしたフライパンに、中途半端に残っていたキャロットラペとキャベツのマスタード和えを全て放り込む。砂糖を少し入れた溶き卵を落として、ざっくりと炒めた。酸味と甘みが混ざった複雑な香りが食欲をそそる。
卵が固まりきる前に皿によけて、フライパンの表面をさっと拭いてからバターをたっぷり落とし、熱で溶かした。そこに六枚切りの食パンを乗せて焼き、両面をこんがりとさせたらもう一枚。
この時、萎びることのないように二枚目を重ね置きしないのが鉄則だ。暴走機関車――百は、これを絶対に守らない。いつだって適当に重ね置きして、一番下がへなへなになっても、ちっとも気にしないのだ。千からすれば考えられない、悪魔の所業である。
なんてことを考えながら、百用にと別でハムを焼いた。パンに炒めた野菜スクランブルエッグをのせ、ハムをのせ、その上からほんのひとさじのキウイソースをかける。もう一枚のパンでサンドして、完成。
冷める前に食べさせようと、皿に乗せてリビングへと持っていった。ソファに座りながらも、ローテーブルに突っ伏するような形で微動だにしないモモのすぐそばへと置く。
ことん、という音と鼻をくすぐる匂いに釣られてか、モモがやっとのことで顔をあげた。
健康的とは程遠い、土気色の顔色。
「ひっどいな。水でも飲む?」
「べつに、大丈夫だし。こんなの、二日酔いじゃないし……」
「そうね。死ぬほど酒臭いけどね」
「でも、違うし。雨だからだし……」
「はいはい」
まあ、それも半分本当なのだろう。雨の日のモモは、大抵こうだ。生粋の晴れ男に、雨は特大のデバフなのだと言っていた。
千と言えば、外に出る理由が一つも二つも減ってくれるので、そこそこ好みの天候だ。
ドリップコーヒーをカップに注いで、自分の分と一緒にトレーに乗せて運ぶ。水が入ったグラスを目の前に置いてやると、のろのろと伸びた手がそれを掴んで、喉元に一気に注がれた。毎度見事な飲みっぷりである。
ぷはあ、と息を吐いて、グラスを置いてから、間髪入れずにサンドを手に取る。両手で持たないと溢れてしまうぐらい具だくさんのそれに、百は大きな口をこれでもかと開けてかぶりついた。
「!」
途端に、胡乱げで眠たそうだった瞳がパッと輝く。キラキラと光るそれは、千を見てコクコクと何度も頷いた。想像と違う味だったことへの驚きと、その美味しさにいたく感動しているのだろう。表情だけでも十分に分かった。
二日酔いで、寝起きで、雨のデバフを受けているはずのモモ。そんなものは、僕の料理の前では関係ないと言われているようで、気持ちが良い。
正面から存分にその様子を堪能して、千も自分用のそれを口に運ぶ。サクッとした食感とほんのりとした甘みは、確かにとても美味しい。我ながら出来がよく感心した。
パクパクとあっという間に平らげてしまったモモは「もうなくなっちゃった」と名残惜しそうに言った。
「どうせ胃が荒れてるんだから、朝はこれぐらいにしておきなよ」
「うー……」
「それに今日は雨だからね。暴走機関車も形なしだ」
「ぼ……っ、は? なにそれ?」
「僕の中のモモのあだ名。その45ぐらい」
「うそ……ひどい……ユキってば、オレのこと鉄の塊だと思ってたんだ……ッ」
「あ、そこ?」
さめざめと泣くフリをする百からは、しかしいつもの覇気は感じられない。ホットサンドとコーヒーぐらいでは、燃料には程遠いことは千にも分かっていた。
でも、別にこれでいいと思うのだ。今日はせっかくのオフ、それなのに豪雨で、どこにも出かけられやしない。デートの予定は完全にポシャり、外に一歩も出られないうえ、この悪天候ではデリバリーも頼めないだろう。百にとっては災難極まりない一日だ。
けれど。
やっぱりこれでいいと思うのだ。別に、いつだって百が元気でいる必要もない。せめて今日ぐらい、いや、千の前でぐらいは、部屋が湿気るほどウェッティで、どうしようもない男であって欲しいとすら願っている。明るい百も素敵だが、アメーバみたくなっている百だって魅力的なのだ。
例え、本人がそれをよしとしなくても。
僕がいいなら、それでいい。
「今日はモモ点検デーだね」
「……車体の?」
「そう。ふにゃふにゃにしてあげるよ」
「そこは、ピカピカでしょ~~」
でも、今日はきっとそうなれないことを、百も分かっている。観念したようにソファに背中を預けて、天井を仰いだ。
「ああー……やる気が……な~んにも出ないよう……。せっっっっかくのデートが……モモさんが考えた最強のデートプランが……」
「お家デートでいいじゃない」
「それはね、あえて、あえてやるからいいの。代替案ですることじゃないの……」
なんだかよく分からないが、「へえ」とだけ返しておいた。普段ならそんな気のない返事しないで! と騒ぎ始めるところ、今日はそれもない。
それでいい。今日はそういう百を甘やかし尽くし、自分なしではいられなくさせる日だ。
「モモ、とりあえずもう一回お風呂に入ろう。酒臭さ、抜けてなさすぎ」
「昨日しこたま飲ませたのは、誰……?」
「僕だね。だから責任を取るのも、僕。一緒に入るならいいでしょ?」
そう言って手を伸ばせば、百は渋々手を取り「昨日とは真逆だ……」と悔しそうに言った。
「そうね。昨日は僕がピカピカされたものね」
「うん。発光しすぎて目が潰れそうだもん、今」
昨日。ハードが過ぎる仕事明け、完璧なデートプランを引っさげて登場した百は、床と一体化していた千を担ぎ上げてこれ以上なく丁寧にブラッシングをしてみせたのだった。そのお陰で、千の肌は白磁のなめらかさを見せていたし、髪は銀糸と言って相違ない。
百をアルコール漬けみたいな匂いにさせてた犯人も、百自身が持ってきた上等なブランデーだ。
ベロベロになりながらも、僕を抱きしめて眠ってくれたモモは、確かに僕の毛布だった。
「有難う。モモのお陰で、なんとか生き返ったよ」
「……うん」
「今からは、僕の番」
立ち上がらない体に腕を通して、よいしょと抱きしめるようにして持ち上げた。
人より少し体温が高いモモと、人より随分体温の低い僕は、くっつくとちょうどいい塩梅になる。神様もよく作ったものだなと、初めて抱きしめあった時には、密かに感心したものだ。
踏み出した一歩が百の体重分、しっかりと重くて思わず笑った。
「い、今、デブだこいつって思った……?」
「さあ、どうだろう」
わざとそんな返しをしたら、百は死にそうな声で「もう二度とご飯食べない」と言った。
そんなこと、許すはずもない。
だって今日は、君を僕という毛布で包み、僕なしではいられなくさせる日なのだから。