ユキがオレにかけてくれる言葉は全部特別だ。
「可愛いね」
「いじらしいね」
 ――この辺は平気だった。
「十年後も二十年後もずっと一緒にいよう」
「モモが嫌なら結婚なんかしないのに」
 ――ここからちょっとしんどくなって、
「好きだよ」
 ここでノックアウト。
 ダメだと分かっているのに、ユキのことを好きになってしまった。しかも、愛じゃなくて恋の方。もしかすると、恋よりももっと重苦しくって、ベトベトしたものかもしれないけど。
 これはRe:valeをやっていく上で、考えうる限り最悪の選択だ。
 当然ながら、腹をくくって告白出来るほどの勇気はなく、そのくせ、いつかは応えてくれるんじゃないか、という淡い期待も持ち合わせている。
 最低だな、面倒くさいやつ。そう言われても、その通りですと頷くことしか出来ない。認めているくせに止められないって、めちゃくちゃだ。  
 言葉にしなくても分かってよと、ユキは言う。
 オレは出来るだけ言葉にしてよって、ずっと伝えてた。
 ユキが言ってた意味が、やっと分かった。


 だから、酔った勢いでセックスをしてしまった日、オレは柄にもなく、一度でいいからこの世が終わることを望んだ。
 ユキが明らかに「ノリ」と「勢い」でオレを抱いた事実。嬉しくて嬉しくて、素直に抱かれたオレ。その時点で、「いつかこの恋心に応えてくれるんじゃないか」という期待は潰えた。
 翌日、ユキは珍しく先に目覚めていて、朝ご飯を作ってくれていた。更には「体大丈夫?」なんて心配までしてくれて、記憶がしっかり残っている証明もなされた。
 その事実に、また打ちのめされる。
 取り返しがつかないことをした。ワンチャン忘れててくんないかな、などと思っていた自分の浅はかさにも傷ついた。勝手に。
 食卓を共にしている時の、ユキの言葉数の少なさと、普段よりわずかに作られた笑顔。そこから後腐れの無さを求められていることを感じ、再度体調について窺われても、「ぜんっぜん余裕!」と、全力の笑顔で返してやった。空気を読むのは誰より得意だ。
 日本アカデミー賞、新人賞ぐらいなら獲れたかもしれない。大根演技だったら、ユキはきっとその場で気づいた筈だから。
 翌日も、その翌日も、与えられた仕事は完璧にこなした。
 半月ほどして、一人になった時。
 一度終わってしまった世界でも、日常は続けられるのだと思い知った。

 男と寝るのは初めてで、これから先、二度とない。だからオレは、ユキがオレに突っ込んだ感覚を忘れないように下腹をそっとさするのが癖になった。懲りない体は、それだけで熱っぽく息を吐く。
 痛くて、苦しくて、慣れたら死ぬほど気持ちよくて、どうにかなりそうだった。二人とも色んな体液ででろでろになって、ゴム、何個使ったっけな。途中ユキが止めようとしても、オレが強請った。正気を失ったフリして、まだ終わらせないでと首を振った。
 思い返せばあれって、ほぼ土下座みたいなもんだったな。あんなところで勇気を振り絞らなくても良かったろって、虚しすぎてちょっと笑える。
 もう、誰のことも抱けないし、抱かれたくないと思った。
 体の感覚全てをユキに奪われて、ユキの体温や肌の感触、頬にかかる髪の毛のくすぐったさ、そういうもの全部、宝物みたくしまって、閉じ込めて、誰にも触れさせない。
 それだけを頼りに生きていく。


 最近は、スポーツ紙より、テレビのニュースより、ネットニュースより、SNSでの目撃情報が最も信憑性が高いとされている。
 盗撮はまたたく間に拡散し、トレンドに載り、公式アカウントには疑念と失望に満ちたリプライが無数につく。
 オレといえば、自宅で一人、それらを胡乱げに眺めていた。二人同時は久々だなあ、という感想しか浮かばない。業界の慣習に慣れきってしまった実感を嫌というほど得ながらで、スマホの画面を無意味にスワイプし続けていた。
 リプライの中に、わざわざ拡大してコントラストを上げた写真が載せられていることに気づき、指が止まる。
 オレは、単独でMCを務める番組の準レギュ女性アイドルと。ユキは絶賛月9ドラマ共演中の主演女優と。しっかり、二人きりで帰っているところを盗撮されている。
 ユキに至っては、女優が腕を絡めているのだからそこそこ決定的だ。きっと付きまとわれて、断り疲れて、それぐらいは許してやった。それだけだ。互いのマンションに立ち入った写真が上がっていないのが何よりの証拠だった。だってユキは、わざわざ記者を撒くようなことはしない。
 けれどそれを知ってるのはオレと、おかりん、あと極少数の関係者しかいないので、ある程度の〝理解を得られる〟説明は必要だった。
 対してオレは、他局の悪名高いプロデューサーから執拗に枕を迫られていると相談を受けた、帰りだった。ストーカー被害もあると聞いて、それならば、と家まで送った。マンションの高層階に住んでいるという話だったので、エントランスにも入らずに別れたけれど。
 ――同日。ほとんど同じ時間。初出がSNS。
 ハメられたんだろうな。オレも、ユキも。
 相談内容が的を射ず、曖昧模糊としたものであったことを思い出す。震える唇は、嘘がバレやしないかとヒヤヒヤしていただけだ。タクシーをマンション前まで乗り付けず、やけに手前で降りて歩かされたのも、今思えば不自然だった。そもそも、ストーカー被害があるなら、片時も離れずマネージャーが守るはずだ。
 どれも、普段だったら気付けるようなことだった。ユキはともかく、オレは絶対に、気づかなきゃいけないことだった。
 失敗した理由なんて一つしかなくて、だとしたらその原因への対処は不可欠だ。
 上手くやれると思ってた。でも、無理だった。
 結論としては、それだけのこと。
 Re:valeのブレーンである〝百〟が、こんな体たらくではいけない。だらりと伸ばしていた手足に力を込めて、ソファから立ち上がる。
 持っていたスマホを慣れた手付きで操作して、液晶を耳に当てた。
 下腹を一度さする。
「――あ、ユキ? ごめん、今からそっち行ってもいい?」


 ユキの家の全てが新鮮に見えたことで、この場所に足を踏み入れるのが久々であることを思い出した。
 オレが適当に置きざりにしていた服や小物は跡形もなくなっていて、恐らく処分されたのだろうことが分かった。そのせいか、生活感は今まで以上に薄い。
 ユキの物だけがユキの部屋に収まっている姿は、正しさばかりが目につく。
 オレの存在の異質さが際立ち、心臓にナイフが突き立てられた気分だった。
 ――いちいちこんな程度のことで傷ついて、本当に懲りないな。そんなことだから写真も撮られるし、鎮火も間に合わないんだ。
 おかりんには「ユキと話しておく」と一言連絡を入れてある。数時間後、日の出と共に事務所に集まって作戦会議の予定だった。
 慣れている。
 対処は出来る。
 オレが、オレらしくさえあれば。

 ユキは、キッチンに併設されたバーカウンターのテーブルに寄り掛かるようにして腕を組み、こちらを見ていた。
 オレも案内されたソファには座らず、少し距離を取りながらユキに向き合う。顔色は、とっくに元に戻している。
 誰もが寝静まるほど深い夜。静けさで耳が痛む。
 口火を切ったのはオレだった。
「撮られちゃってごめん」
「それは僕もだよ。完全におあいこじゃない?」
「いや、オレの方は完全にオレのミスなんだよね。普段だったら回避出来たもん」
「……普段だったら?」
「そう。……ちょっと、最近調子悪くてさ」
 ユキの、作り物みたいに綺麗な眉間がぴくりと動いた。それだけなのに、一瞬怯んで言葉が詰まる。
「ああ」
 思い当たったような声を漏らし、ユキはそのまま続けた。
「ならこの前の、なかったことにしようか。あれが原因でしょう?」
 まるで明日からの予定を諳んじるみたいな言い方に、僅かに目を見開く。言葉にする前に結論が出てしまったことに、少なからず動揺もした。
 あ、そうだ。
 ユキはそもそも、オレとの一夜を、軽い事故ぐらいにしか思っていないのだった。
 だからこれは、オレなりのけじめでしかなくて、そしてそのけじめの為の言葉も、ユキの提案で必要がなくなってしまった。
 話が早くて、助かる。
 ……助かる。
「………うん」
「分かった。いいよ、それで」
 組まれていた腕が解かれて、ひらりと手を返す仕草は様になっていた。ユキが涼し気な目元を細めて、にっこりと笑う。
 それなのに。
「いくらでも、モモが望むようにしてあげるね」
 その言葉には明確な棘があった。
 わざとらしく嫌味を含んだ声色は、初めて聞くものだ。まるでオレがそれ〝だけ〟を願っているみたいな、そんな言い方。
「オレが望まなくたって、ユキは最初からそのつもりだっただろ」
 喉から絞り出すような声は、自分が思うよりずっと切羽詰まっていた。恨み言みたいに響いたし、実際、恨み言そのものだったように思う。
 話が早くて助かる、だなんて。本当は思ってもいない。聞き分けがいいふりをしただけだ。
 ユキのため息が耳に届く。
「まあ、そうね。実際セックスしたあと、あーあって思ったし」
「……ッ」
 ギリ、と拳を握って耐えた。事実を並べられるだけで、どうしてこうも苦しい。
 この場所に来た本来の目的は完遂され、けれど一番言いたかった言葉は封殺された。
 こんな調子で、明日から、オレは、オレたちは、いつも通りのRe:valeに戻れるのだろうか。
 続く言葉を見つけられず、ひたすらユキを見つめることしか出来ない。怒りも悲しみもたたえた瞳は、いつもよりずっと雄弁だろう。
 そこでユキが、初めて目を逸した。
 この話は終わった、とでも言いたいのだろうか。
 オレはもう、帰るべきなのだろうか。
 オレは本当に、言わなくていいの?
 あの言葉を。
 壁掛け時計の長針が、チクタクと重たく響いている。一体どれだけの時間が経った頃だろうか。
 見つめる先で、どこか苦々しく床に視線を落としていたユキが、ぽつり、呟いた。
「だってさ」
 嫌味のような、当てつけのような声色は消えていた。その代わりどこか――諦めの気配を感じる声だ。
 もう一度、ユキが確かめるように繰り返す。
 だってさ。

「僕があげたいもの、モモは要らないでしょ」

 眉間に、力が入る。足りない言葉を前に、続く言葉を待った。
 ユキの声は昏く、空気を静かに震わせる。
「……だからせめて、思い出ぐらいは欲しいなって思っちゃったんだよね。あの時、二人とも、機嫌良かったでしょ。モモもいい感じに酔っ払ってて、可愛くて、……うん」
「……それで?」
「結局、『これでおしまい』って思っても、モモに求められたら、いくらでも与えたくなることが分かった」
「…………」
「だから『あーあ』って思ったよ。あんまり気づきたくないことに気づいちゃったなって」
 はーあ。今度は演技ぶったため息だ。両の手のひらを上に向け、肩を竦めてやれやれと首を振る。 
「おまえは僕を、僕が想うようには想ってくれないし。それを理解出来ないほど子供でもない。……そんなのさ、少しの嫌味ぐらい、言ってもいいでしょ。一生の片想いを、これから続けていくわけだから」
 あ、言っちゃった。
 と、ユキは軽く笑ってから、ふと視線を宙へ彷徨わせ、ゆっくりと片手で顔を覆った。
 道に迷って途方にくれる、子供のように。
「ゆ……」
 思わず口をついた言葉に、声が重なる。
「大丈夫だよ、モモ。……ちゃんと、モモが望んだ、僕でいるよ。それが、一番の証明に、なるなら」
 決定的な言葉を、ユキは言わない。言えないのだ。いつもいつも、繰り返し伝えてくれていた言葉を、ユキは心の奥底に、しまい込んでしまった。 
 オレが置いていった、オレの持ち物も。それと同じように、どこかに隠しているのかもしれない。
 捨てては、いないのかもしれない。
 オレも、ユキも。あの一夜を宝物みたく閉じ込めて、それを頼りに生きていこうとしている。
 そんなこと、絶対に出来やしないのに。
 ――今から伝える言葉は、ユキの思慮や愛情を、踏み躙ることになる。
 けれど、言わずにはいられなかった。
 一歩、前へ出る。ユキの顔を隠す腕を掴んだ。

「ユキ。本当はユキに、好きって言いに来たんだよ」

 終らせる為に用意した言葉で、二人の未来が今、始まった。



愚者のマーチ