オレって結構ヤバい奴だなって思う時があって、それが例えば今だ。
無性にやるせなくて、自分の気持ちを思うようにコントロール出来ない。そんな夜に、家から二駅分ぐらい離れた場所を数時間散歩する。
これ、言ってしまえば深夜徘徊じゃん? 老人になったら、完全にその道まっしぐらじゃない? とか、結構不安になったりするんだけど。でも、どうしても、やってしまう。
きっかけは明らかだった。
ユキと、同棲を解消してからだ。
めちゃくちゃに疲れて、しごかれて、ヘトヘトになって帰った日。
今までは、ユキの「おかえり」を聞けたし、あるいはユキに「おかえり」を言えた。どれだけ苦しかろうが辛かろうが最悪の失敗をして地の底まで沈もうが、その一言で、夢みたいに幸せになれた。
元気が湧いて、でも体のこわばった部分の力は抜けて、やっと、深呼吸が出来る。そんな、大事な大事な時間だった。
あ、でも、ユキのお姫様みたいな寝顔に「ただいま」を言うことも、同じぐらいの効能があったな。寝息があんまり浅いから怖くなって、最初は何度も口の前に手を添え、息をしてるか確認したっけ。
楽しかったな。幸せだったな。あの時間を知らない自分には、もう戻れないな。
――でも、戻りたいと願うことは、出来ないな。
夜風が頬を撫で、自分が外に居ることを思い出す。目深にかぶったキャップに、妙に大きな伊達眼鏡。マスクは目立たないよう普通の白だ。出来るだけ人気の少ない道を通って、てくてくと歩く。
硬いコンクリートを一歩一歩踏みしめるたび、オレは、今、ひとりであることを実感して、物凄く、寂しくなった。
誰か、すれ違ってくれないだろうかと願う。すれ違うだけでいい。誰もオレを知らなくていい。
どこかに誰かがいるって、ただ、実感できれば。
「いつでも来てね。気に入ったら、そのまま住めばいい」と渡されたユキの家の合鍵は、未だ出番はない。恐らく、今後使うこともないだろう。だってこれでのこのこユキの家に行ってしまったら、秘密基地を出た意味がなくなってしまう。
――あれ以上一緒に居続けるのは、オレが限界だった。
あのままずっと一緒に過ごしていたら、ユキの「おかえり」なしでは、生きていけなくなっていただろうから。馬鹿な話だと思うかもしれない。でも、本当の話だ。
そして何より。
「モモ」その、やわい呼びかけに、甘い声で「なに?」と返して、それを聞いたユキが、くすぐったそうに笑い「可愛いね」と、ただそれだけ。
そういう、誰にも触れさせない時間が、オレたちにはあった。
二人だけの秘密基地で、内緒話をするみたく、意味のない言葉を交わし合う時間が。
あんなに夢見心地になれる時間は、なかった。代わりになるものを見つけられるとすれば、それもきっと、ユキとの何か、なのだろう。
でもオレは、その優しいぬるま湯に体が浸かりきってしまう前に、無理やり上がったのだ。戦線離脱。敵前逃亡。いや、ユキは、圧倒的に味方でしかないんだけどさ。
オレは逃げた。ユキとの幸せな時間に恐れをなして、裸足で逃げ出したのだった。
だっていつか、オレはユキの前から消えなくちゃいけない。涙と鼻水で顔中べしゃべしゃにしながら、土下座して始まった関係だ。せめて身を引く時ぐらいは、跡形もなく綺麗に居なくなりたかった。
未練が残らないように、削いで、削いで、削ぎ尽くして、最後の立ち姿は、紙ペラ一枚でいい。
吹けば飛ぶような軽やかさで、オレはユキの前から消えたかった。
ある程度範囲を絞って歩き続けていると、どこかで行き止まり当たる。そういう時は踵を返して、わざと大通りへ向かうことにしていた。同じ道を通って帰れば流石に怪しまれるし、仮にも新人アイドルが深夜徘徊で撮られるなんてシャレにならない。
大通りは、寂しくない分、見つかる確率も高いから、少し博打だ。でも今日はド平日とあってか、普段より人通りが少ない。オレがRe:valeの百であることは、流石に誰も気づかないようだった。
そう思った矢先だった。
「もしかして、Re:valeの百さんですか?」
と、大通りに入る一本前の道で、背後から話しかけられて、心臓が飛び跳ねた。
危うく止まりそうになった脚を気力で動かし、前へと進む。せっかく声をかけてくれたのに全力で無視を決め込んだオレを、声の主は気にせず追いかけてきた。
「あれ? 間違ってた?」
「……」
「……おーい、Re:valeの」
「ちょっと!」
振り返りざま声を張って、名前を呼ぶ前に制止した。ああ、もう。振り返ってしまった。オレはひどく負けた気分になって、あと一歩のところで人通りが増えるそこに背中を向け、わざと物凄く狭い路地へと足を向ける。当たり前のように、声の主もついてくる。
狭く、汚い、今にも鼠が飛び出してきそうな路地裏で、やっとちゃんと向き合った。
「……オレのこと探すの、やめてって言った」
「分かったって、言ってないよ」
長く美しい髪を一つにくくり、キャップにひっつめて、サングラスに、黒マスク。こんな怪しい出で立ちのくせに、全身から漂うオーラが、全く一般人のそれではなかった。まず、手足が長すぎるし、顔が小さすぎる。
しばらく、じっとりと睨む。サングラスの奥の目は、うっすらとしか見えないし、意図や感情を汲み取るには、この場所は暗すぎた。諦めるように目を伏せ、はああ、とため息をつく。
「……ユキ」
「うん。なに?」
「どうやって見つけてるの。時間とかさあ……色々……」
「見つけてるんじゃなくて、モモがそこに居るんだよ。帰巣本能でもあるんじゃない? だいたい同じルート通ってるし。本当に犬みたいだ」
オレが反論しようと顔を上げると、ユキはいつの間にか、マスクもサングラスも取っ払っていた。いきなり出現したとんでもない顔面に、非難する気が削がれてしまった。当然、ユキはそのことを分かっていて、わざと外したに過ぎない。
「もう、何回目?」
今度はユキがオレに問いかける番だった。それは、夜の散歩を始めて、という話ではない。ユキがオレを見つけて、何回目、という問いだ。そんなの、本人が一番分かっているだろう。
「……三回目」
「いい加減、僕も悲しいんだけど。一緒にご飯を食べようって誘う度に断られて、そのくせモモは呑気に散歩だろ。僕のこと、嫌いになった?」
「そんなわけない」
「じゃあなんで一緒に居てくれないの」
「…………それは、……」
ユキと長い時間一緒に居たら、またあの頃に戻りたくなってしまうから。
だから、オレがひとりに完全に慣れるまでは、仕事以外で会う時間を減らしたかった。二人きりでの食事は断って、でも、声をかけてくれた事実が嬉しくて、断ってしまった事実が申し訳なくて、寂しくて寂しくて、全部を紛らわすように、歩いた。知り合いを呼びつけて、時間を溶かすようなことも、耐えられない。
だって本当は、ユキに会いたい。誰よりも何よりも優先して、ユキと過ごしたいのだ。
初めてユキに見つかったのは、目撃情報が出回ったせいだった。オレはユキの誘いを断ってしまった事実に、身勝手にも物凄く打ちのめされて、――今思うと本当に不用意だけれど――ふらふらと駅前を歩いていた。目撃情報が流れてからは一瞬で、追っかけ気質の子たちにそれなりの距離を追いかけられ――タクシーを捕まえる暇もなく。
今みたいな路地裏に逃げ込み、息を潜めて隠れる時間が続いていた。その時に、目撃情報を目にしたらしいユキから連絡を受け、仕方なく場所を伝えたのだった。
思えば初回から、大失敗だった。
そしてその時に逃げ込んだ路地裏と、この場所は、確かに大通りを隔てて一本しか道が違わない。「モモ、本当に気づいてないの? ワザとこの辺歩いてるって。僕に見つけられたいからじゃないの。でなけりゃ、最近出来た飲み仲間と、居酒屋にでも行くよ」
「そん、なこと」
「なくても。……実際、ないのかもしれないけど。あるって言って。そしたら僕は、モモが僕にしたことを許せる。許したあとは、甘やかせるんだよ」
ユキの瞳は、かすかに揺らいでいた。確信めいた口調でも、確証はないから、不安なのだろう。
大事な人を不安にさせて、一体オレは何してんだろう。心底思う。
でも、甘やかされることは、望んでいない。だって、それをされたら、ダメになるから、逃げたのだ。
オレが何も言えずじっと黙っていると、今度は埃を払うような仕草で、ユキがゆるく首を振った。
呆れています、と全身で伝えてくるのが、しんどい。でも、甘んじて受け入れるしかなかった。
「……さっき、」
ユキの、今までの声よりワントーン低い声が漏れて、ドキリとした。
「時間とか、どうやって特定してるんだみたいなこと、訊いてきたけど」
「……うん」
「そんなの、ずっとこの辺、張ってた決まってる。『モモがそこに居る』なんて嘘だよ。歩いて歩いて、死ぬほど探して見つけてる。……僕にこんなことさせるの、モモ以外、あり得ない。なのに、見つけても全然喜ばないだろ、おまえ。あんまり腹が立ったから、ちょっと意地悪した」
困ったやつだな、みたいに眉を下げて、はあ、とこれみよがしにため息をつかれる。オレと言えば、気の利いた言葉ひとつ、返せない。
「そこは、ユキのために、時間、使ってよ……」
「こんなの僕のために使ってるとしか、言いようないけど。モモのためだったら、探さないでしょ。見つけられるの嫌がってるんだから」
「……ユキってさ」
「うん?」
「やさしすぎない……」
オレの、どこか諦めまじりの言葉に反して、ユキの表情はぱっと華やいだ。まるで、今までのこと全部、なかったみたいに。
それはもう、ユキがオレを許してしまった証拠だった。
「ふふ。でしょう。僕は優しくて、イケメンで、キュートな、ダーリンだからね。でも、こんな僕にしたのは、モモだよ」
伸ばされた腕がキャップの上に乗る。ぽんぽん、と何度か優しく撫でられて、唇を噛みしめた。
「ほら、モモ。帰ろう」
手を引かれて、歩きだす。
少し汗ばんだ手のひらは、オレを探していたことの、確かな証明だ。
オレ、この人に、迷惑をかけたくない。心配もさせたくない。無駄な時間も過ごさせたくないよ。
ただただ、幸せにしたい。
それだけでいたかった。なのに、いられなかった。
ひっつめた髪から、後れ毛が跳ねているのを見つける。その一本一本に、たまらなく愛しさを感じた。雑な変装。バレるのも時間の問題だ。
ふと、単純すぎる疑問が脳裏をよぎり、そのまま口から漏れた。
「なんで、見つけようとするの、オレを」
しばらく、返事はなかった。オレ自身、答えを求めているものではなかったので、そのまま黙りこくる。十数メートル歩いて、路地裏から大通りに差し掛かった時、ユキがふと、地面に落とすように言った。
「寂しくて」
え、と。唇はそれを音にしなかった。
「モモは、違うの……」
ユキのうなじが、うっすらと赤く染まって見えたのは、きっと気のせいではない。
(ユキ、……ユキ)
(オレも、死ぬほど、寂しいよ)
――もう、息すら漏れないでくれと、また、唇を噛んだ。硬いコンクリートを踏みしめながら、オレは今、ひとりじゃないことを、痛いぐらい実感している。
困ったな。嘘みたいにユキが好きだ。
いくら蓋をしても溢れてくる想いが、伝わることが怖かった。道先を案内してくれる、少し汗ばんだ手を、オレは静かに離したのだった。