「あー……」
たった今、目の前で世界が終わったような声を出したのはユキだった。
オレはと言えば、開いた口が塞がらない。
*
お互いの誕生月に設けた〝強化月間〟は、初めてやって以降、二人の間で定番になってしまった。
十一月はオレの家にユキが、十二月はユキの家にオレが泊まって、互いの身の回りのお世話をして、目一杯甘やかす。そういう、愛を育む強化月間。
だから、物置と化しているオレの家が、年に一度ピカピカに磨かれるのは、年末じゃなくて十一月だ。毎回、富士の樹海に迷い込んだような顔をしたあと、オレのことをじっとりと見咎めるユキも、十一月の風物詩になろうとしている。
わあ、そんな顔も超イケメン。いつも有難うダーリン。いや、オレだってね、本当は綺麗にしたいよ? でも、でもさ、人には向き不向きというものがあってね……。
ろくな言い訳をしないオレを横に置き、ユキは黙々と掃除を進める。いい頃合いで洗剤を渡したり、ワイパーのシートを付け替えたり、ちょこまかとお手伝いをするのも、慣れてきた。
オレがオレ自身のしょうもない言い訳に飽きて「ユキの掃除欲をここまで満たせるの、地球上でオレだけじゃない? 絶対そう……」みたいなこと言い始めた頃には、ユキはご機嫌に洗濯物を畳んでいる。オレはその隣で、慣れないアイロンがけを頑張ったりするのだ。
口もいいけど手もちゃんと動かしなさい、って言われた時は、思わず「おふくろ……?」と呟いて、ユキを爆笑させた。
どうも、笑顔の絶えない家庭、Re:valeです。
さてそんな最強にハッピーな期間を経て、今度はそれ以上にハッピーな十二月。
いつお邪魔しても埃一つないような、モデルルームそのままみたいな部屋を隅々までチェックするのが、オレが勝手に決めたオレの仕事だ。
サッシの隙間に指を滑らせ「おや、こんなところに埃が残っていますよ、ユキさん……」とピカピカの人差し指を見せたりする。それが仕事。
……あのさ。なんでこんなに綺麗なの? 超お高い空気清浄機のおかげ? オレも買おうかな、それ。え、毎日、掃除を。大変、お忙しくていらっしゃるのに……素晴らしいですなあ……。
で、あるならもう、目に見えないものを掃除するしかないと、革張りのソファをハンディクリナーでしこたま吸い込んだり、フローリングにワックスをかけようとして「丸一日潰す気か?」と止められたり、食洗機から食器を取り出して、もう一度洗ってみたり。そんな感じ。
流石のオレも、ちっとも役に立っていないのは分かっているんだけど、ユキはとても楽しそうにその様子を眺めている。だから、きっとこれで正解だ。……多分。
昨日掃除したばかりだというお風呂を、これ以上ないぐらいにピカピカに磨き上げて、お湯を溜める。成人男性二人が入っても身体が触れないぐらい巨大なバスタブは、ユキのお気に入りだった。一人で入るにはちょっと広すぎないかとも思うんだけど、ユキ曰く。
「モモが一緒に入るじゃない」
――毎日一緒に入るわけじゃなくない? という言葉が喉元まで出かかって、飲み込む。強化月間中、野暮なことは言わない。それがお互いが決めたルールだ。甘えて、甘やかして、寄り添って、笑い合う。それだけで十分。なんなら、この強化月間中は毎日一緒にお風呂に入るのだから、ユキの選択は正解だったと言える。で、結局「流石ダーリン♥」という思考に落ち着いた。強化月間って、素晴らしい。
湯から上がって、バスチェアに腰掛け、ユキの頭をこっちこっちと呼び寄せる。バスタブの縁に首をのっけたユキが、慣れた様子で髪の毛をオレに明け渡した。長い髪が床につかないように持ち上げて、ボウルの中にうやうやしく収める。銀糸のような髪の毛を丁寧に丁寧に洗い、トリートメントを十五分以上かけて揉み込んで、同じぐらいの時間かけてじっくり流していった。ユキが、はあ、と深く息を吐き出す。
「モモに洗ってもらうのが、一番気持ちいいね」
「え、なにそれ。オレ以外の誰に触らせてるのよ!」
「くっ、ふふ……さあ、誰だろう」
「え、メイクさんだよね? え、浮気? 違うよね?」
「あっはっは」
ユキの笑い声は、ご機嫌なハミングに似ている。バスルームに反響して、少しゆっくり耳に届く音が心地いい。初めて出会った時には、想像もしない未来がここにはある。ユキの髪の毛、洗うとか、春原くんが聞いたら卒倒しちゃう。
色々あったね。これからも色々あるね。でも、毎年こうして、笑い合うばかりの日を作れたら、最高だよね。
いいお湯でした〜、とスウェット姿で顔を火照らせつつ、しばらくはリビングでまったりした時間を過ごすに徹した。
ユキは前にオレがあげたシルクのパジャマを着てくれていて、相変わらず惚れ惚れするぐらい似合うね、と目尻を下げた。
オレが奥の奥まで埃を吸い込んだであろうソファに二人で並んで座り、100インチのテレビにてラビチューブを見返す。その後、ユキの主演ドラマを――本人はちょっと恥ずかしそうだったけれど――流して、ワインで何度目かの乾杯をした。
今日は二人とも、浴びるように飲んでいい日だ。何故なら、明日もオフだから。おかりん、有難う。間違いなく、最高のスタートを切れた、十二月です。
ユキが用意してくれた自称・簡単なおつまみを時々口に運んでは舌鼓を打つ。あ、このオリーブフライ、中にパプリカが入ってる。アクセントのトリュフ塩も芳醇に香って、ぱあっと目を輝かせた。美味しい。美味しすぎる!
このレベルでも、ユキの中では〝簡単〟の内なのだ。料理なんて全くやったこともなかったユキが、オレの為にと必死で覚えてくれたのが、始まり。今ではもう、プロ顔負けの腕前だ。改めて思う。天才、ここに極まれり。
ワインにピッタリだと思うよ、と言いながら更にキッチンから持って来てくれたのは、桃とブルーベリーのサラダだった。ヨーグルトドレッシングの酸味が程よく、確かにワインに合う。ぱくっと二口目を頬張って、くうう、と鳴いてから、頬に手を添えメロメロの声を出す。
「めっちゃくちゃ美味しいよユキぃ……イケメンスパイスがふんっだんに使われてる……モモちゃん、ほっぺた落ちちゃいそう……」
「本当? そしたら、拾って食べてあげるね」
「え……? お肉だけど大丈夫……?」
「そこ? 思ってた反応と違うな」
アルコールでほんのり赤い頬に、少し不満げな表情がのる。その様子が可愛すぎて、心臓がぎゅうぎゅう締め付けられた。アルコールも手伝って、わっと胸に飛び込み、抱きつく。
「うぐっ」
「ユキぃ〜〜〜! ユキの愛、めっちゃくちゃ感じた! オレがもし桃になっちゃっても、余すところなく食べてね……っ!」
「ふふ、なんかエロいな」
「エロいとか言わないっ!!」
純愛でしょうが! と顔を上げて抗議すると「そうなんだ」と聞き捨てならない返事をしながら、ユキの唇がオレの額を掠めていった。
ぎゃあっ、とそこを両手で隠したら、バランスを崩してソファからどさりと落ちる。ユキが、オレの滑稽すぎる動きを見て、目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い始めた。
ちょっと! 何笑ってんの! 手癖ならぬ口癖、悪くない!?
「スマートすぎて、防げなかったんですけど!?」
「あっはっはっは、そ、そう? モモのガードが緩すぎるだけじゃない?」
「サッイテー!? ダーリンの尻軽ッ、じゃない、ヤリチン!」
「うるっさ……っ、やばい、モモ、酔っ払ってるせい? 声量、バカになってるよ」
「バカとか言う方が……イケメン!!」
「あ、完全に酔ってる。……ははっ、あっはっはっは」
そんなこと言う、ユキもめちゃくちゃ酔ってる。酔いが回るのが早いのは、オレたちが今、完全に二人きりだからだ。
二人してへべれけになれることって、実のところそう多くない。どちらかが正気を保っていなければいけない飲み会が多すぎるし、大体どちらも正気のままお開きになることが多い。
例えばユキであれば志津雄さんや映画部、オレであれば馴染みの芸人さんや運動部、そう言った会であれば、それぞれ羽目を外すことはあるけれど。
Re:valeが二人揃ってる場って、案外、先輩然、あるいは後輩然とした態度を求められることが多いのだ。
へにゃへにゃになりながら、勝手にユキの膝に頭をのせて、膝枕をもぎ取る。ユキも大歓迎とばかりに、オレの頭や頬、顎まで撫でまわしてくれた。一分前に大声で反抗していたオレも、もうその手練手管にメロメロだ。にゃ〜んと鳴いてみせれば、今日のモモは猫なんだね、と普段は猫ちゃんじゃないみたいなことを言われた。
まあ、許しましょう。手が、気持ちいいしね。
なでくりなでくりされていると、アルコールで火照った身体も手伝って、どんどん意識が遠くなっていく。うとうとと瞼を閉じたりこじ開けたりしている間に、ユキもそれに釣られるようにして、瞼をゆっくりと下ろしていく。あー、ダメだ、これ、寝ちゃう。おやすみを言う間もなく、オレもユキも、一瞬にして寝落ちた。
*
先に目が覚めたのはオレだった。むくりと起き上がると、ユキはソファのアーム部分に頭をのせて、くうくう寝息を立てている。壁掛け時計を見るとまだ三十分かそこらしか経っておらず、アルコールも抜けきってはいなかった。
が、途中で寝てしまったせいで、すぐに飲み直す気にもなれない。付けっぱなしになっていたテレビを消して、ゆっくりと立ち上がり、お手洗いに向かった。
用を済ませてリビングからユキの姿が消えていて、驚く。あれれ、と寝室を覗いても見当たらず、もしかして、とスタジオの扉をノックすると「どうぞ」と声が返ってきた。
重い鉄製の扉を開けて、中に入る。まだぽやぽやとした足取りで、けれど久々の自宅スタジオに興奮した。ここはユキの隠れ家であり、本拠地であり、砦だ。
「どうしたの。いいフレーズ思いついた?」
「その通り」
リラックスしていると、よく思い浮かぶ。と、以前言っていたことを思い出して、頬が緩んだ。ユキがキーボードに熱心に曲を打ち込む間、折角だし、とCDラックの前に立つ。
「この辺、見てていい?」
「どうぞ」
完全に集中モードに入ったユキの返事は気もそぞろで、本当に大丈夫かな? と思いつつ、言質は取りましたぞとウキウキ気分で物色を始める。
このラックにあるのは、既に作り終えた曲のデモは勿論のこと、作りかけの曲や、完成間近で編曲待ちのものなど、Re:valeの曲ばかりが並んでいる。
その隣のラックには、提供系の楽曲や、CMソングのデモが所狭しと並んでいた。一枚一枚取り出しては、ユキの弱い筆圧で書かれた【●●用】という文字を追う。ああ、これはあの特番の時のED曲だ、とか、このドラマのは難産だったよね、とか、どれもこれも、昨日のことのように思い出せた。
スタジオ内には、ユキの奏でるピアノのフレーズが何度も繰り返し流れて、次第に旋律らしいものが生まれていくのが分かった。たまに、曲が生まれる瞬間に立ち会わせてもらえることがあって、そういう時のオレは、完全にファンモードだ。最高にメロメロでハッピーな気分になりつつ、Re:valeの棚に戻って、軽くしゃがみ下段の方まで見ていく。
「……ん?」
上に行くほど、CDは新しくなっていく。故に、下段は結構年季が入ったケースが並んでいるのだけれど、その中で一枚だけ、明らかに新品が紛れ込んでいた。間違えて入れちゃったのかな、と指で摘んで抜き取ると、やはりどう見ても真新しい。しかし、CDの盤面には何も書かれていなかった。書き損ねだろうか。確かにこういうことはたまにあって、その時は、オレがなんの曲か聴き、書き加えていいことになっている。
「ユキ、これ何にも書いてないから、リビングで聴いてくるね」
「うん」
相変わらず心ここにあらず、な返事を受けて、笑ってスタジオを出た。数分前よりずっと形になっているメロディが、形になるのはそう遠くなさそうだ。
リビングには、オレでも分かるぐらい超・お高いスピーカーが設置されていて、曲を聴く時はもっぱらこちらを使わせて頂いている。しかし、ここまで凄まじい音質でばかり聴いていると、スマホとかで聴けなくない? あ、でも、ユキはイヤホンもバカ高いやつなんだった。音楽家なのだから、当たり前なんだけど。前に参考にさせてもらおうと思ってブランド聞いて調べて、目玉が飛び出るかと思ったもんね。オレのお気に入りのジャケット、買えるじゃんって。
CDを差し込むとき、いつも胸が高鳴る。音数の少ないデモだって、オレにとっては全部が宝物だ。未完成の音には少しばかり迷いがあって、それが人間らしくて、嬉しくなる。ユキの曲はユキの分身で、ユキの伝えたいこと全部がのせられているから。
ソファに座って、スピーカーの前に陣取る。再生ボタンを押して、曲の再生を待った。
すると、流れてきたのは、聞き覚えのあるメロディで「あ、ミライノーツか」と独りごちる。ピアノの旋律がメインのシンプルなメロディラインは、何度も何度も繰り返し聴いたそれそのものだ。
これ、もしかしてユキの仮歌かな。聴くの初めてだ! やった! と文字通りガッツポーズして、歌の始まりを待つ。
あー、コーラス、綺麗だな。本当にユキの声って、透明感があって、最高。歌詞も、凄くいいんだよねぇ、と相変わらずファンモードのまま歌い出しを待つ。歌い出しが始まって、――思わず目を見開いた。
え、え、あれ、歌詞、違うね? あ、あれ?
大好きなメロディに全く違う歌詞が登場して、流石に動揺する。でも、ここで止めるのは、勿体ない。仮歌の時は全く違う歌詞だったのかもしれないと思うと、こんな貴重な機会はそうそう無いぞ、と改めて姿勢を正す。作詞を共作する時は別だけれど、基本、ユキから与えられる曲は歌詞も殆ど完成形だ。心臓がバクバク鳴っている。オレにとっては、完全に新曲だ。わ。ユキの声、優しいな。歌詞も、なんか、なんか――……。
これって、…………これって?
歌詞は、一番までしかないようだった。そのまま、ストリングスが効いたメロディがまたピアノの旋律に戻って、伴奏だけが流れ続ける。
顔が、赤いと思う。酔いは一瞬で冷めてしまったから、これは別の理由だ。視界がずっとぼやぼやしていて、思考がまとまらず、落ち着かない。いつの間にか、身を守るようにクッションをかかえていた。ぎゅっと、顔をそこに押し付ける。
なんだこれ、どういうこと?
いや、どうもこうも、いや、いや……。…………。
なんとも自分勝手で、自意識過剰な考えが頭をもたげようとするのを、オレは必死に上から押さえる。あり得ないでしょ。それは、ない。流石に。
オレがクッションに向かって「ぐぅう」と呻き声をあげていると、ガチャ、とリビングの扉が開く音がして、勢いよくそちらを見た。
「モモ、ごめん。やっと、おわ……」
きっと、いい曲が作れたよ、と続くはずだったご機嫌な表情が、一瞬にして固まる。曲は、流れ続けていた。
みるみるうちにユキの顔が真っ赤になり、頭を抱えて、しゃがみ込んでしまう。
「あー……」と世界が終わったような声を出したかと思えば、そのまま消えてしまいそうなほど、縮こまってしまった。
オレと言えば、その様子に、開いた口が塞がらない。
「ゆっ……ユキ、ユキさん、あの、こ、これって……」
「モモ、ストップ、駄目だ。それ以上は…………」
「えっ、待って、その反応、えっ、やっぱこの曲って、お、お……」
オレに向けて作ってくれたって、ことだよね?
最後の最後で言葉にするのがちょっと怖くて、喉元でつっかえる。ユキが、単純に、未完成の曲を聴かれたのが恥ずかしいだけかもしれない。でも、そんなことで、ここまで真っ赤に、なるだろうか。流石のオレも、自惚れても、いいのかな?
ユキが未だにドアの前でしゃがみこんでいるので、オレはソファから降り、ぱたぱたと音を立てながら近づく。
同じようにしゃがんで「ユキ」と内緒話をするように名前を呼んだ。肩を揺らしたユキが、う、と呻いてから、ゆるゆる頭を上げる。
わあ、こんな真っ赤になったの、大和に騙されて以来じゃない?
「……あの曲って、その……」
「……まさか、この期に及んで『オレ宛じゃないよね?』とか、言わないだろうな」
「あっ、えっ、あーっと……」
「それはもう、恐ろしく傷つく。歌にしたところで、分かってもらえなかったら、僕はもうお手上げだ。四肢を奪われて声も出せない、そんな感じ」
ぐったりと、ユキの頭がオレの肩に乗る。丹念に手入れをしたユキの髪の毛は嘘みたく気持ちよくて、オレは思わず目を細めた。こんな、全部が夢みたいな人が、今、オレのことで、照れてるのか。
――そっか。やっぱり、オレ宛の手紙なんだ。この曲は。
「……めちゃくちゃ、嬉しいです」
「……ねえ、それ、やめて。改まられても、死ぬほど、恥ずかしいから……」
こんな風に聴かせるつもりじゃなかったし。と、ユキが続けたことで、いつかは聴かせてくれようとしていたのかと、驚く。少しばかり息を呑んだせいで、ユキがその些細な変化に気づき、とてつもなく不満げな声をあげた。
「仕方ないだろ。心の準備ってものがある。僕は、モモ以上にそれが必要で、……分かるだろ?」
「……ふ、くくっ……、うん、分かる。超分かるよ。ユキってば、シャイだもんね」
「そうだよ。芸能界で一番、シャイな僕が作った、君宛の、ラブレターだよ」
ゆっくりと背中に腕が回されて、ぎゅっと抱きしめられる。普段は体温の低いユキの身体が熱を持っているのが嬉しくて、オレもぎゅっと抱きしめ返した。
「ユキ、有難う」
耳元で囁く。ユキが静かに頷く。まだ、お互い目は見れなかった。その代わり、オレはこう続ける。
「……ところで、この曲の、続きなんだけど」
オレも一緒に作りたい。ユキに伝えたいことがあるから。