「このオファー、僕たち宛で間違いないんだよね?」
「はい。Re:valeのお二人に是非、とのことです。老舗の化粧品メーカーの新ブランド立ち上げということで、広報にもかなり力を入れたいみたいですね。自分としては、ギャラ含め受けて損はないと判断しています。あとは、この資料を改めて確認していただいて、お二人の了承が得られれば……」
「全然やるやる! むしろやりたい! ね、ね、ユキもいいでしょ?」
「モモがいいなら、僕はなんでも」
「さっすがユキ! 話が早くて助かる! ってことで、おかりんよろしく!」
「こちらこそ、話が早くて助かります」
 そう言ってにっこり笑う姿からは、既に貫禄すら感じられる。まだ、たった五年だ。そんな年数でRe:valeがアイドルのトップまでのし上がれたのは、間違いなく元専属マネージャー、現統括マネージャーである岡崎凛人その人のお陰である。
 おかりん、大きくなったな。そうだね、背中が飛行機の滑走路ぐらいの広さになった。確かに。よし、ギネスに登録してもらおう。そんな話を、つい昨日もモモとした。
 そもそも、僕たちまで下りてきた依頼というのは、既に何度も精査された後のものだ。最小限まで削られたリスクと、ほぼ完璧とも言える仮スケジュール。それらを差し出されて、かつ最終判断を委ねてくれるのだった。これはモモが岡崎事務所と契約する際に出した条件の一つで、信頼関係が構築されきった今現在でも、律儀に〝一考〟を促してくれる。岡崎凛人と、春原百瀬。ブレーンが二人も居るRe:valeは、今後も安泰だなと常感心する思いだった。まあ、僕も頑張っている。それなりに、死にそうになりながら。
 では、と足早に席を立ったおかりんは、そのまま社用携帯を取り出し廊下へと消えていった。
 ミーティングルームに残されたモモと僕は、テーブルに置かれた資料に改めて目を通す。ガラス素材のジャー容器は、プラスチックより明らかに高級志向だ。蓋を外すと白色のスクラブが現れ、付属のシリコンチップで唇にのせ、指で円を描くようにマッサージする――……なるほど。リップメイクの前にやられる、あれか。
「こういう製品のCMって、女性の専売特許ってわけじゃないんだな」
「最近は若手俳優とかアイドルが女性向けコスメのCMに起用! とか多いよ〜。それに、この新ブランドはユニセックス商品を中心に展開してくってことらしいから、尚更なんじゃないかにゃ?」
「なるほどね。言われてみると、見た目も相当シンプルだな」
「ね! ダーリンにピッタリだよ!」
 今にもぴょんぴょんと踊りだしそうな声を出すモモに、僕は少なからず不思議な思いだ。今までも、男性向けとは言え二人で化粧水のCMにも出演したことはある。似たようなものなんじゃないのか。
 先程の了承の返事も、実はかなり、前のめりだった。それは文字通り、椅子から勢いよく立ち上がり、おかりんの説明が終わる前にOKを出した、という意味で。
「あ、ユキってば、他と何が違うんだって思ってる?」
「思ってる。でも、モモが楽しいならそれでいいよ」
「ダーリン……。今日も完全無欠の最強イケメン♥ ……はっ、いけない、また流されちゃうところだった。会話、会話をしよう! 久々に会えたんだし!」
「うん? 別に今のは流そうと思ったわけじゃないけど」
「え、じゃあ意図してそうすることもあるってこと?」
 おっと、雲行きが一瞬で怪しくなった。モモが今年最も必要のないことに気づく前に、僕は「で、他のCMと何が違うの?」とクリティカルな質問を投げることにする。モモはそれを素早くキャッチし、「だってさ」と返事をしてくれた。
 危なかった。あと一秒遅かったら、喧嘩が勃発していた可能性がある。モモとの会話は、なかなかにスリリングだ。
「リップスクラブが、どこに使われる商品か、知ってますか!?」
「そりゃ、唇でしょう。資料にも書いてあったし。自分で使ったことはないけど」
「そうだよね……ユキはリップクリームすら要らない伝説の美形だもんね……陶器のような肌に桜色の唇にはシワひとつないもんね……?」
「有難う。続けて」
「そう、だから、唇! ユキのその綺麗な綺麗な唇が、更にうるつやピカピカになって、めっちゃキメ顔のポスターが作られるんだよ! それが、全国のドラッグストアとか駅広告とかにドドーン! と使われるってこと! そんなの……お、オレ……うァ……し、死んじゃう……っ」
 顔を両手で覆って、キャーッと叫び始めたモモは、実に楽しそうだ。そろそろ十一月にも入ろうかというこの頃、有り難いことにピン仕事で忙殺されていた為、会うのが二週間ぶりというのも、きっと大いに関係している。
 なるほど、この子は今、CMのプロモーションを勝手に予想して、僕を使って妄想し、テンションを極限まで上げている。資料に目を通しつつ、その妄想も並行していたのだと思うと、流石うちのブレーンと言わざるを得なかった。
 とはいえ。モモの頭の中が僕一色になっているのは、素晴らしいことに違いない。僕も一緒に機嫌を良くして、自然と笑みが溢れた。
「じゃあ、僕はモモのポスターにキスマークでもつけようか。それをプレゼント企画に使うのとか、どう?」
 個人的に、なかなかの提案だった。自分からこれを言えるようになったのも、モモの教育の賜物である。
 が。
「は? そんなのオレがラビッターアカウント一万個作って応募して絶対に手に入れるから」
 きゃあきゃあ騒いでいた声から温度が消え、顔を覆っていた両手が外れたかと思うと、真顔が現れた。
 うわっ、びっくりした。喉元まで出かかって、飲み込む。
 モモのこういうところ、可愛いけれど、相変わらずちっとも理解出来ない。平面的なものを、愛しすぎじゃないか?
「な、何もそんな遠回りしなくても……。僕がモモに、そのままあげるよ」
「それじゃ意味がないんだよダーリン。オレ、不正はしない主義なの」
「不正……?」
 僕が隣に居るのに、テレビや雑誌の中の僕にきゃあきゃあするのと同じ心理なのだろう。モモはそれを〝ファンモード〟と呼んでいて、まあ、そうね。そうとしか、言いようがない。
 しかしだ。僕は君〝だけ〟のアイドルにはなれないのだから――アイドルはみんなのもの、らしい――せめて隣に居る、生身の僕を最優先で愛して欲しい。基本的に、アイドル業をしていない時の僕って、モモだけのものになる気、満々なんだけど。まさか知らないのか?
 恐ろしい事実に行き当たりそうになって、僕は埃を払うようにして自然と首を振った。モモがその所作すら「イケメン……」と目をハートにして言うので、ファンモード、恐るべしだ。強制解除させるには、仕事の話をするしかない。
「……ポスターだけどさ。作られるとして、僕単独と、モモ単独と、Re:valeっていう3バージョン作られるんじゃないの」
「はっ……! た、確かに。自分のこと、頭数に入れてなかった」
「こらこら。――だからさ、モモだって、今以上に唇がうるつやのピカピカになるよ。僕は、そっちの方が楽しみかな」
「だ、ダーリン! モモちゃん、嬉しい……。ユキが思わずチューしたくなるような唇になれるよう、ケアも欠かさないようにするね!」
「そうね。楽しみにしてる」
 よしよし、これにてこの話はおしまいだ。
 それよりさ、モモ。今日、このあと時間ある? よかったら、僕の家で、ご飯でも――……。
「じゃあ当日、渾身のキス顔ファンサ、よろしく!」
「え? なにそれ、聞いてない」
「今言いましたぞ!」

 *

 CM撮影は通常、数時間から半日で撮影スケジュールを組む。今回は監督が〝こだわり派〟ということで、一日がかりになるそうだ。ロケ撮で天候待ちでもないのに、それはなかなか珍しい。Re:valeを一日拘束するということは、即ちその分のギャラも高くなるわけで――なるほど、こだわり派。口だけではなさそうだ。
 午前中はそれぞれ別の仕事が入っていたため、モモと落ち合うのは現地だ。折角ですから、とおかりんに案内され、スタジオに入って監督と軽く挨拶を交わした。
 想像よりずっと若い監督は、かなり独特な間があり、意思疎通が難しい印象。それに合わせて、現場の空気もどこか落ち着きがない。
 てくてくと出口に向かって歩きながら、もう一度反芻する。なるほど、こだわり派……。
 その時、背後から聞き慣れた声が飛んできたので、ピタリと歩みを止めた。
「ユキー!」
 凄い勢いで背後から目の前に回り込んだモモが、ガバッと胸に飛び込んできたので、倒れそうになりながら受け止めた。ちょっとモモ。かわいこぶっても、力の強さは隠しきれてないよ。
 そのままの勢いで上目遣いに見られて、思わず口角が上がる。はあ、なるほど。
 モモの唇は、既にうるつやのピカピカであり、なんというか、桜貝みたいな色だった。普段より一層ぷっくりしていて、まず単純に感心した。
「ユキ、どう? チューしたくなった?」
「ふっ……ふふ、そうね、危うくスキャンダル起こしそう」
「本当に!? いや、でも、モモちゃんの実力はこんなもんじゃないよ。これからプロの手によってもっとこう……凄いことになるから」
「いいね。楽しみにしてる」
 モモのぴょんぴょん跳ねた髪の毛を撫でて、そのまま腰に腕を回し歩き始める。勝手知ったる恵比寿のCスタジオ。楽屋へとエスコートだ。きゃっ♥とノリノリの声を上げたモモと、周囲のスタッフのなんとも言えない視線が重なった。
 わざと、肩で風を切るように歩く。
 僕たちはトップアイドル、Re:valeです。と全身で名乗ってみせるように。
 スタジオの扉をくぐり廊下に出たところで、自然とモモが前に出て腕から離れていった。
「楽屋こっちだっけ?」
「うん。もう少しまっすぐ行ってから、右」
「あ、そっか!」
 初めて仕事をするスタッフの前で、勝手気ままに夫婦漫才を繰り広げるのは、既に暗黙のルールになっていた。Re:valeはプライベートでもこんな調子です、と紹介するだけで、現場の空気はある程度和らぐものだ。当然タレントだけの力では限界があるが、やらないよりは、やった方が、よっぽどマシ。それに、冗談だと思われずに変な目で見られ続けたって、どうということはない。
 まあ、こうして夫婦漫才から通常モードに切り替える瞬間〝だけ〟を見られて、不仲説を流されることもあるのだけれど。全く、ノーダメージだ。
 くるっと丸まったつむじが角を曲がって消える。今日もモモは、正しく可愛い。そして、本気で唇を整えてくるあたり、物凄く、面白かった。
 
 メイクを終えて現場に入ると、女性スタッフの視線が自分に集中するのが分かった。シャツもパンツも全てが白で統一されていて、前髪は片側だけサイドに流し額を出すスタイル。
 先にメイクを終わらせたモモが、僕を見るなり「ぎゃあ」と叫んだ。そんな、お化けでも見たような反応、やめてよ。
「モモ。隠れないでよ。こっちにおいで」
「だ、ダーリン、そんな……オレ、まだシャワーも浴びてなくて……何の準備も……!」
「下ネタ?」
「違うよ!? あれ? いや、違わないか……? え、待って待って、イケメン過ぎる。イケメンを、遥かに通り越してる……イケメンを凌駕するイケメンだよ、ユキ……!」
「結局イケメンに戻ってない? それ」
 隣に居たおかりんを盾にしつつワアワア言っているモモは、すっかりファンモードだ。さっきまで、あんなにRe:vale然としていたのに。
 長引くと面倒なので、さっさとセットまで連れて行くことにする。近づけば近づくほど、きゃあきゃあ喚く声が大きくなるけれど、先程のパフォーマンスの甲斐あって、これも夫婦漫才の一部だと思われているらしかった。密かに聞こえるクスクス笑いがそれを物語っている。
 これ、モモの素の反応だって知ったら、どう思うだろう。まあ、犬みたいで可愛いって、思うだけか。
 うん。可愛いよね。分かるよ。

 ブルーバックの壁の前には、黒い磨りガラスのテーブルと、同じくガーデンチェアがセッティングされている。セットも、どこまでもシンプルだ。
 向き合うように座るよう指示が入り、素直に従った。
 今し方まで大騒ぎしていたモモも、撮影に入ってしまえば話は別だ。プロのアイドルの顔でもって、僕に向き合っている。マゼンタが瞬きの度に光って、その輝きが気に入っていた。モモを構築する全てが、モモの為にあつらえられたものである事実が、とても素敵だと思う。
 そこに君が静かに佇んでいるだけで、歌が一曲出来そうだよ。
 ――あ。そういえば、このCMにはタイアップソングが必要だった。……余計なこと、思い出したな。
 気を取り直して、監督の指示に耳を傾ける。
 まず、テーブルに置いてあったリップスクラブのジャーを手に取る。そのシーンを何度か角度違いで撮影して、次は中身を指ですくうシーン。本来はシリコンチップを使用するとのことだが、見栄え的な問題の変更だった。
 そこから、自分の唇に塗って、その次に、相手の唇に塗り込むという、かなり大胆な構成だった。
 僕がモモの唇に塗るバージョンと、モモが僕の唇に塗るバージョン、どちらも撮るらしい。CM内容は事前に聞いていたけれど、これだと女性の、特にファンの子向けの映像になってしまうのでは? と思わないでもなかった。
 が、モモによると、そもそも男性がリップスクラブを〝宣伝〟するどころか〝使用〟する映像が流れるだけでも、手に取りやすさは格段に上がるとのことだ。老若男女問わずお茶の間に大人気のRe:valeが使っているのなら尚更、とも。
 男の人の唇をうるつやにするサポートが出来るなんて、超ハッピーだよ!
 眩い笑顔でそう言い放ったモモは、名実共に最高のアイドルだ。それに、モモのハッピーは、大体において僕のハッピーでもある。
 なら、監督の意思を120%汲み取って、演じるだけだ。各々が自分の唇にスクラブを塗るシーンを撮り終えて、メイクさんが化粧水で綺麗に拭き取っていく。元の状態に戻った唇を、ぺろりと舐めそうになるのを、すんでのところで我慢した。舌をしまうと、モモの視線が、少しばかり泳いでいることに気づく。
「……モモ、緊張してる?」
「そ……りゃね!? だって、オレがユキの唇に触るんだよ。失敗して、ユキの唇がズタズタになったらどうしようって気が気じゃないよ……」
「ちょっと待て。僕の唇、引きちぎる気か?」
 くく、と喉で笑うと、モモは「笑い事じゃないよ!」と憤慨する。いや、そこは笑い事にしてもらわないと、普通に困るんだけど。唇って、少し切れるだけで痛いし。
「この企画に一番前のめりだったのはモモだろ。気張ってよ」
「ゥ……はい……。その通り!」
 パンッと気合いを入れるように両頬を手のひらで叩いたので、メイクさんが飛んできた。

 とはいえ、撮る順番は僕の方が先だ。
 ディレクターのチェックが終わり、監督からGOサインが出る。カメラが回り始めて、向かい合う視線の高さが自然と揃った。呼吸が合うのって、気持ちいい。
 スクラブを、人差し指ですくい取る。出来るだけ綺麗に映るように、指の形が少しばかり不自然であっても維持しつつ、腕を伸ばしてみせた。
 唇に、そっと指が触れる。想像よりもずっと柔らかい感触に、素直に驚いた。ケアの賜物? それだけで、ここまで柔らかくなるものか? 僕が塗りやすいようにと、わざと半開きにされた唇から、ちらりと八重歯が覗いている。チリ、と焼けるような感覚が指先に走る。
 気に留めないようにしつつ、ゆっくりと滑らせてスクラブを塗り込んでいく。すると、モモが何かに耐えるように一度震え、瞼を伏せた。
「――……」
 これは多分、誰にも見られてはいけない姿だ。その証拠に、カメラマンの喉が静かに嚥下して、スタッフも固唾を呑んで見守っている。
 ダメだよモモ。僕にも見せたことのないような顔を、不特定多数に見せるのは、明らかに、良くない。
 それに僕たちは、お茶の間のアイドル、Re:valeだ。
 モモの白い八重歯に、指を伸ばす。そのまま右側の牙を、ぐっと摘んだ。
「ぇう!?」
 僕の思いがけない蛮行に、瞳が大きく開かれる。そのまま、指を上顎に滑らせて、更にモモの動揺を誘った。
「う、あっ、あ!?」
 思い切り涙目になったところで、監督からカットの声がかかる。これで、全く使えない映像の完成だ。下手に編集されて使われてしまうより、こうした方が全ボツの撮り直しに出来る。
「ごめん、モモ。大丈夫だった?」
「ケホッ、は、だ、いじょうぶなわけ、なくない……?」
「確かに。……あとで理由、ちゃんと話すから」
「え? 理由って」
 モモの言葉を待たずに席を立ち、カメラマンに頭を下げてから、監督の元へ小走りで向かった。
 適当な言い訳も思いつかず、素直に「今回のコンセプトにそぐわないと勝手に判断してしまった」と伝える。数秒の沈黙の後に、監督は軽く頷き「次で完璧なのください」と、それだけ。スタッフも、監督の言葉に促されるように、バタバタと動き始める。
 改めて「申し訳ありません」と謝罪してから、僕も元の位置へと戻り、モモに向き直った。この数分のインターバルで、モモの中でも思い当たることがあったらしい。土下座の勢いで頭を下げられて、今度は僕が驚かされた。
「すみませんでした! 次は、絶対、……こう、……ちゃんと、します……!」
「いや、モモ。大丈夫だから……というか、僕の方が」
「本当に……オレは、オレが……情けない……ッ」
「そ、そんな少年漫画みたいなセリフ、言う? この流れで……」
 これ、完全に不仲説の信憑性が上がるな。
 少年漫画の謝り方をしたくせ、不安げな上目遣いは、かわいこぶったそれより、ずっと魅力的に映った。僕も僕で、ちょっと困ってしまう。なんとなく目が泳いで、顔が妙に熱くなるのを感じた。
 僕たち、今、素人みたいだ。
「……今日の夜、反省会だね」
「……そうね」
 ――僕たちは、お茶の間のアイドル、Re:valeだ。
 言い聞かせるように、腕を伸ばす。次こそは、間違えないように。

 *

 ユキが、唇を舐めそうになって、留まった。
 それだけのことなのに、その時にちらりと見えた舌の艶っぽさに、オレはひどく当てられてしまって――失敗した。
 オレの一存で受けてもらったような仕事で失敗するなんて、情けないにも程がある。
 撮影が終わった後も、触れられた唇がじんじんと熱を持ち続けていて、怖いぐらいだ。当然、ユキの唇に触れた指先も、チリチリと痺れるような痛みがあった。
 あの、これ、何なんでしょうか。
「……なんだと思う?」
 楽屋前の廊下で、ユキの準備を待っている間の時間。近くのソファに並んで座っていたおかりんに訊くと、途端に表情が消えて、視線もここではないどこかへと飛んでいってしまった。絵に描いたような遠い目、しないでよ。
「千くんと一緒に考えてください」
「それが出来たら苦労しない……」
 わっと泣きつこうとすると、ガッと頭を片手で押さえられた。うそ、オレ、これでもトップアイドルだよ!?
「大丈夫ですよ。それ、さっき千くんにも訊かれましたから」
「え? ほ、ほんと!?」
「本当です。あ、ほら、千くん出てきましたよ。今日はこのあと、反省会なんでしょう。ちゃんと腹割って話してきてください。多分三秒で答え見つかります」
「……はぁい……」
 腹、割っちゃっていいのかな。三秒で見つけたその答え、事務所NG出たりしない?
 楽屋から出てきたユキと目があって、お互いなんとも言えない表情になる。照れくさいような、面映いような、微妙な感じ。
 二人の間に流れた空気を察して、おかりんはどこも見ていない目で「行きましょうか」と立ち上がり、ビルの出口へとスタスタ進んでいった。
 あまりに素早い動きに、あっという間に追いかけるのを諦めた。車の場所はどこだか分かっているし、恐らくこれはおかりんの配慮でもある。
 ゆっくり並んで歩いているものの、会話らしい会話は、生まれなかった。その間も、懲りずに視線が唇に吸い寄せられそうになって、ダメだダメだと前を向く。
 うわー、どうしよう。顔、熱い。
 あの後からは、仕事ちゃんとこなせたのに。その分のぶり返しが、酷い。
「――あ、そうだ」
 ユキが、オレの方を見て、どうにも言いづらそうに口を開く。そんなダーリンも、キュートだけど。キュートすぎて、結構ガチで心臓に悪い。
 でも、もっととんでもない一撃を、お見舞いされてしまった。
「……してないけど。いいの?」
「え? ごめん、聞こえなかった」
「だから、……キス顔のファンサ、してないけど。いいの?」
 ――え、したくなっちゃったの?
 と、喉元の本当にギリギリのところまで出かかって、必死に飲み込む。まだ、近くにはスタッフや関係者が大勢いるのだ。
 ほとんど無意識に、自分の唇に指を触れさせていた。それも、ユキに触れた指で。
 自分が今どんな顔をしてるかなんて、言われなくても分かってる。だって、ユキも、同じ顔をしてるから。

 オレたち、今、間違いなく、素人だ。
 何って、そりゃ――。



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