ね、寝てる。オレの匂い、分かんないのかな?
ぴょこぴょこ耳を動かして、周囲の音を聴く。近くに仲間はいないらしく、置いていかれたのか、はたまた散歩中に寝てしまったのか、分からなかった。健康的でつややかな白い肌を見る限り、行き倒れているわけではなさそうだ。
それにしたって、オオカミがこんなに近くにいるというのに、このウサギは未だにすーすー眠っている。それで、寝顔がとてつもなく綺麗だ。こんなに綺麗なウサギ、見たことない。ペットとして飼われていたのが逃げ出して、この森に紛れ込んじゃったのかな。でもここは近くに街も民家もない、寂れて鬱蒼とした場所だ。街生まれが紛れ込むには根性がいるし、このウサギにそこまでの体力があるようにも見えなかった。
なにせ、細い。こんなに細くて、動けるのかな。肉だって、全然ついてない。
ついてないけど、食べられる部分は、あるよなあ……。
きゅるる、とお腹が鳴る。オレと言えば今、分かりやすく空腹だった。本日のお昼ごはんにと追いかけていたシカにあと一歩のところで逃げられてしまって、むしゃくしゃした気分で歩いていたら、このウサギに遭遇したのだ。普段足を踏み入れることのない、湖畔近くの平野。丘の方に住んでいるから、こんな場所があることも知らなかった。追いかけるのに精を出しすぎて、住処よりかなり遠くまで来てしまったらしい。
寝顔を、じっと見つめる。長く白い髪の毛はさらさらのつやつやで、頭から生えてるしっぽはたんぽぽの綿みたいにふわふわだった。
はあ、凄いな。よく見かけるノウサギたちとは全然違う。心なしか匂いも素敵で、食べたらきっと、美味しい。食べるとこが殆どなくても、旨味が凝縮されているに違いない。
前傾姿勢をとり、手をそろそろと伸ばして、長く鋭い爪を首にそっと当てる。このまま、勢いよく指を引けば、ぱっくり裂かれて、あっという間に死んでしまうだろう。喉仏が上下に動くのを、目で追う。
うーん。
顔が、好きだなあ。かなり好き。死んじゃったら、勿体ないよなあ。どれだけ美味しそうでも、お腹がいっぱいになるわけでもなさそうだし。
でも、お腹はかなり、極限まで、空いてる。
しばらく考えて、指を引っ込めた。だって、やっぱり――……
「止めるの?」
「わっーーー!!?」
びっくりして、ゴムボールのように跳ねてしまって、そのまま尻もちをついた。
えっ、あれ、起きてる!? いつから!?
「……オオカミのくせに、ずいぶん間抜けだな」
むにゃむにゃと目をこすりながら、ウサギはゆっくり身体を起こす。あ、上半身だけで分かる。オレよりちょっと背が高いみたいだ。ウサギなのにいちいち規格外で、ちょっと困る。
それに、動いていても、喋っていても、めちゃくちゃ、イケメンだ。もう分かってると思うけど、オレはもの凄く面食いである。オオカミ界でもトップクラスの面食いなので、仲間からはちょっと、なかなか、大分、煙たがられている。〝手当り次第に目をハートにするな〟とのことだ。そんなの、どだい無理な話だった。こういうの、血だよ、血。きっとオレの母親か父親が、同じぐらい面食いだったに違いないよ。
オレのことをじっと見つめるウサギは、何も喋らない。オレからの言葉を待っているようで、恐る恐る口を開いた。なんでオレが、こんな感じ? いや、なんか、凄い迫力があるんだよなあ、このウサギ。
「お……オレが怖くないの? オオカミだよ?」
「怖いって、僕の声に腰抜かしてる子が? ……君、名前は?」
「え、あ、も……モモ」
「モモ。モモね。僕はユキだよ。……ところで、君の長い爪だけど。しまってもらっていいかな」
ええ、爪? なんでいきなり? やっぱり、ちょっとは怖いのかな。最初っからなかった殺意が完全に削がれてしまって、オレは言う通りに爪をしまった。まるっこい、無害な指に戻る。例えここで強襲されたとしても、一発KO出来る自信もあった。
しかし爪をしまったその瞬間、確かにウサギ――ユキがほっとしたのが分かって、本当に怖がっていたらしいことが分かった。いそいそと身を正して、なんならちょっと正座して、あのぉ、と再び口を開く。
「なんでこんなところで寝てたの? オレみたいなのに狙われて、危ないよ」
「この辺にはモモみたいなの、居ないからね。協定で、肉食動物はこのエリアに入っちゃいけないの、知らない?」
「エッ……! 嘘、ここ〝そう〟なの!? や、やばい、天に怒られる!!」
「まあいいんじゃない。モモが来たことは秘密にしてあげるよ。殺さないでいてくれたし」
「ァ、ウ……有難うございます……」
しなしなと耳を垂れさせると、ユキがふっと口元を綻ばせた。わっ、凄い。笑ったら最強にイケメンだ。オレは自分の瞳孔が開いたのが分かって、慌てて目を逸らした。
「うん? どうしたの」
「あ、ごめん、オレの目、今ちょっと怖いかなって! でも、食べようとか思ってないから、大丈夫だよ!」
ぎゅうううううううう。
ああ、もう、最悪。なんでこのタイミングで鳴るかな。
「……ほんとに食べない?」
「ほんと! ほんとほんと! だってユキ、イケメンだもん!!」
「……なにそれ。食べるかどうか、顔で決めるの?」
「え!? う、うん……。顔が好きだと、食べれない……」
「ふっ、はは。なんだそれ。僕、自分の顔に助けられたのか……。ははっ、え? ヤバいな……」
いきなり笑い始めたので、驚いて視線を戻す。
えっ、ちょっと、思ったよりずっと笑ってる。白目剥きそうなんだけど。ちょっとちょっと、顔が、綺麗な顔が台無しになってるよ! やめてよ!
「そ、そんな笑う!? オレだって選り好みするよ、そりゃ!」
「よ、よりごのみ……っ」
「な、何がおかしいの!? どうしたの!? ワライダケ食べた!?」
「いや、なんか、普通に優しさなのかなとか思ってたんだけど……。いや顔って。イケメンって……あっはっは!」
転がるほど笑い始めて、オレはもうおろおろするしかない。やっぱり、ワライダケを食べたんだ。オレが目を逸らしている隙に、ちょっとお腹が空いて食べてしまったに違いない。ワライダケの効能はどれぐらいで切れるんだっけ、などと考えていると、ユキは大笑いしながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「はっ、はあ……。こんなに笑ったの、人生初かも。ちょっと待ってて」
「え? あ、う、うん……」
ユキは相変わらずくつくつ笑ったり、時に思いっきり吹き出したりしながら白いふわふわの耳をしびびと動かしつつ、どこかへ消えて行った。
で、割とすぐに帰ってきた。大分落ち着きを取り戻した様子で安心したのも束の間、ユキが腕に抱えていたものにギュンッと目が光る。え、それってそれって。
「はい、お礼の鹿肉。この前もらったんだけど、僕、草食だからさ。どうしようかと思ってたところ」
「え、え、いいの? お、お礼って? 食べていいの? 食べるよ!?」
どうぞ、と差し出される前に奪って、そのまま喰らいついた。牙を剥き、爪を立てて腐敗寸前の肉を貪る。うわーっ、状態悪し。土とかいっぱいついてるし、多分外に置いてたな。今が冬で良かった、虫が湧いてるのは流石にテンションが下がってしまうので。味は全く問題なし!
ばくばくと容赦なく食い散らかして、もらった分は全部胃袋におさめた。ふう、と落ち着いた頃には、ユキはまたその辺で寝っ転がって、オレをまっすぐに見つめていた。
目があって、ドキッとする。天然ではあんまりお目にかかれないぐらい綺麗な青い瞳は、やっぱり、食べたら勿体ない。オレの選択は、間違ってなかっと。
「……ごちそうさま! ありがとう、お腹いっぱいになりました!」
「どういたしまして。こちらこそ、たくさん笑わせてくれて有難う」
「なんで笑われたか、いまいちピンとこないけど……」
「ふふ、いいと思うよ、それで」
少し距離をあけて、喋る。こんなに長いこと草食動物と喋るのは、そういえば初めてのことだった。
生態系のバランスが崩れないように、この森では様々な協定が結ばれている。それを決めているのはこの森の主である天で、天は動物でもなければ人間でもない、不思議な存在だ。神の御使いとか、そういう類なんだろう。だからどの動物のことも食べないし、食べられもしない。統治してもらうには最適な存在だった。どんな森にも、同じようにこういった存在は居るらしい。
肉食動物は、草食動物オンリーの生息エリアには近づかない。草食動物も同じく。ただ、そういったエリアはごくごく一部だけで、基本的には共生している。暮らしやすさとか求めると、どうしてもね。
ユキがどこからか肉を持ってきたということは、ここに住処があるのだろう。ということは、ユキが外へ出ない限り、もう二度と会えないということだ。それはちょっと、残念だった。初めて草食動物に、名前を教えてもらったのにな。
へちょ、と耳を垂らすと、ユキが「おいで」と手招いてくる。オレは爪と牙をしまって、招かれるままに隣へ座った。ユキの、長くて綺麗な指がオレの頬を撫でるので、思わずぐるぐると喉を鳴らしてしまう。
ユキが、目を眇めた。
「オオカミと話すのは今日が初めてだったけど、楽しかったよ。また来るといい」
「それは、無理だよ……。もう一回ここ入ったら、オレ、天に丸焼きにされちゃう」
「じゃあ、僕がそっちに行こうか」
「え!? もっとダメだよ! オレが住んでるところも、肉食動物オンリーの地帯だもん。ハイエナとかライオンとかいっぱい居るんだよ!? 即ご飯にされちゃう!」
「この顔でも?」
「うぅ……。それは、オレにしか効かないやつだよ……」
なんか、ちょっと恥ずかしくなってきた。オレって、肉食動物として、どうなの? ユキも分かって言っていたみたいで、楽しそうに笑っている。凄いな、ウサギって、冗談とか言うんだ。頭いいんだな。ユキが特別なのかもしれなけどさ。
「じゃあ、丁度中間地点で落ち合うのはどう? 僕が食べられそうになったら、モモが守ってよ」
「それ、オレが周りの奴らに白い目で見られるんですけど」
「そうね。でも二度と会えないよりいいでしょ」
「……うー。それもそっか。オレも、また会いたいし」
「じゃあ、決まり」
頬をくすぐっていた指が、今度はオレの手を掴んで、指を絡めた。なんだか、妙にドキドキする。これは多分、人間の真似事だ。あまり詳しくはないけれど、人間は仲良くなるとき、手を握りあうらしいから。
「爪、しまってくれてありがとう。モモは、優しくて、可愛いね」
「ふぁ……」
なんとも間抜けな声を出して、オレはもう、これ以上ないってくらい耳をへたらせてしまった。顔が熱くって、心臓がバクバクする。視界に映るユキのイケメンさが、更に上がっちゃった気さえする。
これって、なんだろう? 何が起こってるんだろう。
「名前、呼んでよ」
「……ゆ、ユキ?」
「うん」
指と指が交互に重なるように握られる。
――それがなんだか凄く、特別な儀式に思えた。