モモが泣いた。わんわん泣いた。
 びっくりして、流石に目が覚めた。前髪の先に溜まっていた雫が、モモの涙と一緒に落下した。
「……そんなに、泣かなくても……。死んだりしないよ」
「死ぬんだよ! 風呂で寝たら、人は死ぬの! 溺れ死ぬの! そんなことも分かんないの!?」
 大泣きしているせいで、声量の調整機能がバカになってるみたいだ。耳の奥がキィンと鳴って、頭痛が深刻化する。いや、もともとはのぼせからくる痛みなんだけど。自業自得と言えば、そう、なんだけど。
 モモ、頼む。もうちょっと声を小さく。今、深夜だし。

 僕の記憶が正しければ、確か、ここ三日ほど徹夜をした。
 Re:valeの新曲発売に息を巻いた凛太郎から、悪魔の所業としか思えないスケジュールを渡されたのが発端だ。
 当然猛抗議をしに社長室へ飛び込んだが、待ってましたと言わんばかりに渡された資料には、その曲が僕が主演を務める深夜ドラマのタイアップ曲である説明が滾々と書かれていた。こいつ、分かってたな。僕の行動を先読みするなんて、五百年早い。
 このドラマは、当然凛太郎ではなく、僕らの親愛なるマネージャー、おかりんが死ぬ気で勝ち取ってきた仕事だった。更にはタイアップなんて、事務所の規模を考えれば、偉業としか言いようがない。苛立ちと誇らしさが混ざり合い、この時の僕は般若のような顔をしていた、と後に凛太郎は語る。お前に語られる筋合いはない。
 シングルが発売されるということは、タイアップ曲がA面扱いになるということだ。資料には、以下のように記載されていた。
 ――初回限定A・B・通常の三形態。A・BはCDとDVDの二枚組。AにはMVとメイキングを収録、Bにはミニバラエティ企画の映像特典、通常には特別コメント動画が見れるQR付きカードを封入。それぞれ共通のカップリング曲を一曲と、三形態ごとに、新曲を一曲収録――
 つまり、一ヶ月で、五曲提出。
 単純に、イカレている。作曲だけで飯を食っているわけではなく、ドラマやバラエティの収録、雑誌のインタビューだってこなさなければならないのだ。その合間に、ストック0の状態から、新曲を生み出せと?
「それがプロってもんだろう。根性の見せ所だな」
 僕が危うく凛太郎の全てを破壊しそうになったところで、モモが飛び込んで来てコトは収束させられた。ずっと社長室の前で聞き耳を立てていたそうだ。凛太郎と僕、どっちの命が大事なんだと思わず怒鳴ると、ユキに決まってんじゃん! だからこそ、大切なユキを殺人犯になんてさせられないよ! と、曇りひとつないキラキラした目で説得されて、すぐ納得した。確かに、こんな奴のために犯罪者になるのも癪だ。凛太郎の引き攣った笑みに、ほんの一ミリだけ溜飲が下がった。

 こうして、地獄が始まったのだ。
 端的に言って、この一ヶ月、僕は人間ではなかった。人間の形をした何かだった。モモが必死で身繕いをしてくれていたお陰で、人前に出られていただけだ。
 結局仕事が一切入らずに作曲に集中出来るようになったのは、最終週のみだった。それでも、相当おかりんとモモが頑張ってくれた結果なので、文句は言えない。いや、文句はずっとある。凛太郎だ。あいつ、いつか、必ず……。
 確か、締め切り三日前にして、まだ二曲未提出、みたいなスケジュールだったように思う。ここ一週間の記憶が曖昧なので、全ての景色が霞がかっているが、僕がこうして自宅の風呂に入れているということは――提出も無事済ませ、あとはおかりんが、なんとか、どうにかしてくれているのだろう。
 で、久々に、人間の形を取り戻そうと思ったのだ。
 あろうことか、三徹のまま、仮眠すらとらず、風呂に入ろうと決意した。シャワーすら浴びておらず、いい加減限界が近かったのだ。
 なんとか風呂にお湯を溜め、モモが以前プレゼントしてくれたひのきの入浴剤を入れ、顔を、体を、頭を洗い、満を持して湯に、浸かった。
 ――遠く、誰かから必死に名前を呼ばれている。その声に引っ張られるようにして意識が戻った。古びた蛍光灯が眩しく、目を眇める。背中もお腹もバスタオルの感触がして、くすぐったい。
「……うん……?」
「! ゆ、ユキ! ユキ〜〜〜!!」
 ああ、なるほど。モモの声だったのか。すぐに納得して、のそのそと起き上がる。頭は痛いし、髪は濡れてるし、でも体中にバスタオルが巻かれて暑いしで、少し混乱する。家中のバスタオルを総動員しました、って感じの積まれ方、モモらしいと言えば、モモらしい。
「……あれ、……僕、寝てた?」
「そうだよぉ! 寝てると思ったのに布団にいないし! 風呂場に声かけても返事ないし! 顔半分浸けて溺れかけてるしぃ〜〜〜!!」
「そっか。ごめん」
「ごめんじゃないから!! お、オレっ、ゆ、ユキが……っ、ユキにっ、なにかあっだら、あっだら……」
 で、モモが泣いた。わんわん泣いた。
 おっきな目からは、同じぐらいおっきな涙の粒が、ぼろぼろ落ちる。かくして、冒頭に戻るのだった。
 タガが外れてしまったモモは、蹲って泣いている。こんな泣かれ方するのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。ぷるぷる小動物みたいに震えているのに、泣き声は未だ爆音で、新種の生物みたいだ。うさぎって、こんな声出さないし。犬って、もっと全身で訴えてくるしね。
 どうしよう。ここでは抱きしめるの、不正解な気がする。タオルにぐるぐる巻きにされているとはいえ、素っ裸だし。
「えーと……モモ?」
「ううっ……ひっぐ……ユキの……ユキのバカーッッッ」
「声、声をね。もうちょっと……もうちょっと抑えないと、大家さんに怒られちゃうよ」
「だっで……だっでぇ〜〜〜〜〜〜〜〜」
 駄々っ子を相手にする時って、こんな気分なんだろうか。そもそも子供との絡みがなさすぎて未知だが、このモモよりはマシな可能性すらある。ひとまず、頭を撫でてみるところから始めようかと腕を伸ばすと「やめて!」と牽制される。気配で気づくモモもモモだ。忍者か何かか?
 え。っていうか。普通にショックなんだけど。早急にこの問題を解決しないと、一生頭を撫でさせてもらえないかもしれない。危機感を覚えた僕は、さっきよりずっと真面目に頭を働かせる。焦りから、頭痛もどこかへ飛んでいった。
「ごめんて。もう、絶対徹夜明けすぐにはお風呂入らないよ。約束する」
「……ほんと?」
「うん。すぐに寝る。今日が特例だっただけ。なんならもう寝る」
「……ウゥ……」
 のそのそと上半身を持ち上げたモモは、目元を真っ赤にして、ぐしゃぐしゃの顔をしている。うわあ、これは、アイドルの顔じゃないな。可愛いけど。立ち上がって、クローゼットに向かい、僕の服を見繕う。洗いたてのスウェットを差し出されて「一秒で着て……」と言われた。
「いいよ。早着替え、得意だから」
「うそ。ゆっくり着て。おだいじに……」
「今日のモモは、凄いな。いろいろと」
 最後の僕の言葉は、ただの感想だ。ぎろりと睨みつけられて、「ユキのせいなんだけど」と完全に恨み言のトーンで言われ、謝る代わりに目を伏せた。
 相当堪えたらしいのが分かって、スウェットに腕を通しながら、ちょっと、かなり、結構、可愛いなと思ってしまった。口に出したらいよいよ家出されそうなので控えるが、ここまで乱されているモモは、実はそこまで見られないから。このモモは全部がありのままで、だから、言うこともやることもめちゃくちゃなんだろう。何かに耐えるように笑ったりしないモモに、安心すらする。
 もこもこのスウェットを着込み、バスタオルの巣から旅立つ。無数のそれらを広いあげていると、ぶるりと背筋が震えた。
 恐らくだが、倒れてからまあまあな時間が経っている。服を着たはいいけど、普通に、寒い。
「……もう一回お風呂入ろうかな。湯冷めしちゃった。風邪ひきそう」
「……! ……!!」
「ああ、うん。そうね。もう入ってほしくないけど、風邪も引いてほしくないって顔してるね」
 ラビッターでよく見る絵文字の羅列みたいに、一瞬で色んな顔をするものだから、ちょっと笑えてきてしまう。しかしぐっと堪えて、僕なりの折衷案を出した。
「だから、一緒に入ろう。僕のこと、寝ないように楽しませてよ」
「…………は?」
「モモだって、まだ入ってないでしょ。頭洗ってあげる」
「……………………! ……。…………!?」
「うん。じゃあ、入ろう」
 バスタオルの半分をモモに持たせて、空いた手で腕を引く。一歩目は踏ん張られて、二歩目からは力が抜けて、諦めたようだった。

「……という感じで、一緒にお風呂に入るようになったんだよね。懐かしいな」
「いやあ、オレも若かったよねえ、あの頃はね〜!」
「二年前だけどね。……あ、もう時間? 改めて、CDのご購入、有難うございました。いっぱい聴いて、楽しんでね」
「ライブで会えるのも楽しみにしてる!」
「「バイバーイ!」」


トークテーマ:同棲時代の思い出