女を抱いた時の記憶?
 ……そうだな。覚えていることは、香りが強かったことと、肌が柔らかかったこと。その二つだけ。
 と、答えたら、モモくんが本気でショックを受けていた。
 ええ?
「聞いてきたのモモくんじゃない」
「そ、それは、そうなんですけど〜……!」
 季節は夏。老朽化した、というか入居時から壊れかけだった冷房が、ゴウゴウとマズい音を立てつつなんとか動いている。ヤツがいつ壊れるともしれない恐怖と戦いながら、最も日差しから遠い居間の真ん中で、二人並んで作戦会議だ。
 顔を真っ青にしながら頭を抱えたモモくんは、そのままぺたりと畳に横たわった。ショートパンツから覗く脚があんまり細くて心配になる。今日の晩ご飯には、せめてゆで卵を添えてあげなければ。
「発表いつだっけ?」
「……明後日です……」
「思ったよりすぐだ」
「思ったよりすぐなんです。だから藁にもすがる思いで……聞いたんです……」
 蚊の鳴く声よりも小さい声。いつもの溌剌とした姿は鳴りを潜めていて、相当参っているようだった。
 ここ最近、モモくんはダンスレッスン以外にも、演劇のワークショップに通っている。「いつ何時どんな仕事が来てもいいように」基礎だけでも覚えておきたい、という本人たっての希望だ。受講料が馬鹿にならないので、今回は一人だけの参加となっている。
 「ユキさんも機会があればいつか一緒に」とモモくんは言うけれど、大人数で一つのことに打ち込むのにとことん向いていないし、何よりその場には複数人の女性が居る。最近のバイトのクビ記録更新ぶりを思うと、参加しない方がそのワークショップの為だと判断した。おかりんが。
 いつかこの容貌が一切作用しない、割の良いバイトが見つかればいいのに。ひとまず僕は家で曲を作ることに専念することになったが、それがどうにも情けなく、せめて少しでもモモくんの力になれれば、と先程の質問にも答えたのだ。
「テーマってなんだったっけ。『かぶれた男と女』?」
「『ただれた男と女』です……」
「ああそっち」
 明後日のワークショップではテーマに沿ったエチュード――即興劇――を披露するらしく、その提示されたテーマを理解するのに、ひたすら苦しんでいるようだった。
 当日、ランダムに組まされた相手とアドリブで芝居を繋いでいく必要があるため、ひとまず自分の中の『ただれた男』像を確定させなければいけない――らしい。
 それで僕に助言を求めるというのは、まあ、とても正しいことだ。ただれた男かどうかは知らないが、正真正銘クズだったし。似たようなものだろう。
「いっそ実地で試してみようとは思わなかったの?」
「む! むむむむ無理ですよ! オレ、こんなんでもアイドルですよ!?」
「〝こんなんでも〟じゃないでしょ。完全にアイドルだよ」
「あ、ぁう……ありがとうございます……」
 蚊の鳴くような声リターンズ。瞬間沸騰したモモくんは、茹で蛸みたいに顔から首から真っ赤にしている。けれどそもそも、照れるようなことじゃない。真実なんだから。
「まあでも、確かにそうね。僕ですらあの頃は、かろうじてアイドルやってなかったし……。あ、でも、なら……」
 が。一番クズだったのは確かにあの頃だったけど、一番使い物にならないのは今なのだ。ほんの少しでいいからモモくんを助けたい。それに、これは完全に想像だけれど、多分モモくんはあまりそういった経験をしたことがないだろうし。だからといって、中身の伴わない演技をしたくないという真摯さも好ましかった。
 から、提案した。
「僕が一旦男役やるから、モモくんが女役やってみるのはどう?」
「…………へっ?」
 畳に突っ伏していたモモくんが、そのままの姿勢でくぐもった声を出す。
「エチュードって、どっちの役指名されるかも分からないんでしょ? 僕のことを参考にしつつ、女性役の演技も出来るなら一石二鳥じゃない?」
 これは、我ながらかなりの名案だった。そもそも、言葉の說明だけで得られるものなんてたかが知れていて、それこそ触れ合った方が話は早い。
「あ、勿論本番しようって話じゃないから」
「ほ!? ん!?」
 そこで飛び跳ねるようにモモくんが立ち上がって、ちょっとビックリした。背筋力も脚力も凄いんだな。さすが運動神経いいよね。一瞬、動揺しきったモモくんから見下ろされるような形になって、それに気づいたのか慌てて目の前に正座された。忙しなくて、小動物みたいで可愛い。顔も体も、色は蛸だけど。
「あ、もしかして今のってセクハラだった?」
「い! いや! そんなことは思って、ません! けど……! でも……でも…………」
「……ダメ? 結構いい案だと思ったんだけど」
 当然、モモくんがナシなら仕方ない。それでも構わなかったが、しかし今の自分の頭では、残念ながらこれ以上良い案を思い浮かべることが出来なさそうだった。
 なけなしのお金でDVDを借りて、一緒に観るとか? 
 でもそんなの、既にモモくんが一人で繰り返しやっていることだ。今更すぎる。
 しかしそんなことを考えているうちに、モモくんの顔はいつの間にか真っ青になっていた。
 え。なんで?
「す、すみません! そんな顔をさせるつもりじゃなかったんです……!!」
「そんな顔? どんな顔?」
「それは……もう……言葉に出来ないような顔です……! で、でも、しゅんとした顔もイケメンです!!」
「あ、しゅんとしてたんだ僕。ごめんね、気を使わせて」
「あっ、いえ、そういうことじゃなくて! あの!! オレ……や、やります! やらせてください!」
 土下座する勢いで頭を下げられて、またビクッとした。モモくんのリアクション、ひとつひとつが大きいから結構驚く。でもこれもいつか慣れるんだろうし、慣れなくてもそれはそれで楽しいから、いいかと思う。
「モモくんって、いいよね。全力で」
「え? あ、有難うございます……?」
「褒めてる褒めてる。もっと素直に喜んでよ」
 沢山動いたせいもあって、いつもよりハネが強い髪の毛を押さえるようにして撫でる。今度はモモくんはビクッとする番で、それがまた可愛くて、面白かった。
 君は、そうだな、犬のようでも兎のようでもあるから。
 ピシリと体を固めたまま、モモくんが恐る恐る口を開いた。
「あの、これは、もう始まってますか……?」
「え? ……ああ、そうね」
 ――いや、どうかな。
 今まで付き合ってきた相手に、こういうことをしたことがあるかと言われればNOだ。じゃあ友人である万……も、無い。どちらかというと撫でられる側だったとも言える。
 だから今こうして、モモくんに触れているのは、たった今の自分の〝したいこと〟を優先しただけに過ぎなかった。
 故に、ここからはちゃんと『ただれた男』らしい振る舞いをしなければならない。あの頃の自分を客観的に捉えるのは、ちょっと嫌すぎる作業だけれど。モモくんの為だ。
「……モモくん。僕のこともらってくれる?」
「へ、え!?」
「僕、よく捨てられるんだよね。……もらって欲しいんだけど、ダメ?」
「あ、わ、わ……」
 頭に乗せていた手を滑らせながら、さらさらと頬を撫でる。顔を覗き込むようにして懇願するのは、あの頃の僕の癖だった。相手は全員、漏れなくこの顔が好きだと言っていたのを思い出す。自分では、ちっともよく分からないが。
 しかし当のモモくんは、正座の状態を崩すことなく、必死に近づいてくる顔を遠ざけようとするだけだった。
 あのね、一応、君は『ただれた女』役なはずでしょ。これだとただの『僕とモモくん』になっちゃうよ。
 それに、こんな程度のことで音を上げられても困るのだ。この言動は本番の手前の手前の手前ぐらいの話なわけで。
 仕方なく、モモくんの肩に手を置いて、ゆっくりと押し倒す。
 こんな優しくしたこと、過去を振り返るに一度も記憶に無い。むしろ逆で、勝手に乗っかられて勝手に動かれて、僕はそれに身を任せて、みたいなことが、……多くて、……あれ?
 僕が結構厄介なことに気づきかけた時、押し倒されたモモくんが「きゅうん」みたいな、なんとも言えない鳴き声みたいなのを上げた。声に反応して、モモくんを見る。少し伸びた僕の髪が、モモくんの頬に触れる程度の距離だった。
「今の声、なに?」
「……限界の声です……」
「早い早い」
 笑いそうになるのを、ギリギリのところで堪える。脚を正座の形に折りたたんだまま倒れていることにも気づいて、うっ、と笑いのツボが更に刺激された。ちょっとモモくん、勘弁してよ。誤魔化すようにして無理やり続ける。
「ほら、脚、伸ばして」
 そう言って、ショートパンツと太ももの隙間に、わざと触れた。モモくんの目が見開かれ、言葉が出ないのか、喉がひくついたのが分かる。あまりに初心な反応に、なんとも言えない気持ちになった。
 これじゃ、悪いことをしているみたいだ。
 一度かぶりを振って、するすると膝のあたりまで指先で撫でて、膝をゆっくり伸ばさせる。浮いていた腰が、とさ、と畳に落ちたのを見計らい、閉じていた片脚に手をかけて開こうとした。ら、脚に力が入って、抵抗された。
「わ、わ、そ、そこまでは、ちょっと……!」
「じゃあずっと閉じとくつもり? 『ただれた女』さん」
「……っ!」
 そこでやっと自分の役割を思い出したらしいモモくんは、何度か目を瞬かせて、逡巡するように視線を右に逸し、左に逸し、そうしてやっと僕に向き直った。
 あ、目の色が変わった。
 太腿に乗せたままだった僕の手に手を添えて、モモくんが小さな声で「早く」と言う。突然ながらも、自然な流れだ。
 その言葉を受け取ってすぐ、いい演技だな、と思った。
 脚は勝手に開いていて、僕の腰を挟むように膝を立たせる。それから当然のように、するりと腕が伸びてきた。首元を強く引き寄せられる。鼻先が触れ合うぐらいの距離。
「キスして」
「いいよ」
 へえ。モモくんの中の『ただれた女』って、結構ステレオタイプなんだな。
 悪くない。けど、もっと『らしさ』も出るといいのに、と思う。どこかあどけなさが残るような、慣れているのに、最後の最後で泣いてしまうような。そういう感じ。
 キスの要求に対しては、頬にするのもきっと嫌がるだろうと、モモくんの唇を手のひらで塞いだ。
「んむっ?」
 素直にびっくりした声が可愛い。素に戻った時の差の方が、クるね。
 モモくんの柔らかい唇の感触を、自分の手のひらで感じる。それに重ねるイメージで、自らの手の甲にキスをした。
 顔が固定されてしまっているから、モモくんは僕を見つめるほかない。今、僕は君の唇に触れているよ、と目で伝えて、ちゅ、ちゅ、と何度か手の甲へのキスを繰り返す。
 ほら、応えなきゃ。いっそ手のひらを舐めたっていいよ。
 そう教えるつもりで、見せつけるように自分の手の甲をれろ、と舐めた。
 ら。
「うっ……うう……う……」
「え」
 泣いた。……泣いてるよね? これ。目から涙出てるし。
 慌てて手を外し、起き上がる。モモくんは起き上がることもせず、仰向けのまま自分の目元を腕で隠してしまった。歯を食いしばって、泣き声が漏れないようにしているのが痛々しい。
 確かに、最後に泣いてしまうのもいいかも、と思いはしたけれど。実際目の当たりにすると、困ってしまう。
 どう謝るのが正解か全く分からず、ただ呆然としていると、モモくんがぐすぐすと鼻を啜りながら、途切れ途切れに話し始めた。
「すみませ、おれ、すごい余計なこと、かんがえ、て……」
「……余計なこと?」
「こ、……こういうこと、ユキさんとしたこと、ある、人が……たくさん、い、居るんだなって」
「…………」
「オレずっと、ユキさんのファンだから、び、びっくり しちゃって……」
 それだけなんです。落ち着いたら再開してください。
 と、君は言うけど。
 実はこれ、誰にもやったことないんだよ。
 モモくんにだけ、初めてしたんだよ。
 って言ったら、君はどうなってしまうんだろう。
 だって、先述の通り――僕は来るもの拒まず去る者追わずどころか、自分から向かって自分から去るような最低の人間だったのだ。音楽と対話出来ないストレスで、頭のてっぺんからつま先までぐちゃぐちゃになった状態の僕が、相手を誘って、前戯して愛撫して、優しく抱いて、なんてことをしていたわけがない。
 それなのに、モモくんには、自分がそうしたいと思うから、した。
「……ごめん。もうやめよう。これ、多分、……よくないから」
「で、でも」
「別の方法考えればいいよ」
 怖くないよ、怒ってないよ、大丈夫だよ。出来るだけ優しい声、柔らかい表情で伝える。
 断って。やっぱり無理でしたねって笑って。――じゃないと、次こそ、僕が何をしでかすか分からない。自分を止められる自身はないくせ、傷つけたくはないのだ。
 この感情は、今までの人生で覚えのないものだった。
 いつかこれの名前が分かったら、ちゃんと伝えなきゃいけない気がする。
 今日みたいに失敗しても、何度も何度も、繰り返し。


たった二文字で済む言葉だよ