「人のものを欲しがる感覚って、全然分かんないなー………」
リビングには瑠璃と百瀬の二人しか居らず、両親は出かけている。よくある休日の昼下がりの光景だった。
「え? 何よ急に」
瑠璃が不思議そうな顔で訊いてくるので、これこれ、とテレビを指差した。
画面には一昔前に一斉を風靡したと言われる不倫ドラマの再放送が流れていた。ああこれね、と瑠璃は納得しつつ百瀬――百の隣に腰掛ける。二人とも概要ぐらいしか知らないような、古びた内容のドラマだ。
瑠璃の体重を受け止めたソファが沈み、体のバランスが崩れる。ついでに体を傾けて、隣の華奢な肩に頭をのせた。
「重いんですけど〜〜〜」
「主人公の不倫相手の真似〜〜」
「あー、そういうことするタイプね」
こわー、と言いながらも、瑠璃は百と一緒にドラマを見ることにしたらしい。こういうスキンシップはお互い慣れっこで、百の頭に瑠璃の頭がのっかる。降ってくる髪の毛を、慣れた手付きで払った。
瑠璃が手に持っていたクッキーの封をあける音がして、それにも即座に反応する。
「オレにも一口!」
「百の一口は一口じゃないからあげない」
「ケチ!」
「自分で取ってくればいいじゃん!」
「今ドラマ見てるし」
「こいつ……」
そんな風に悪態をつきながらも、瑠璃は必ず百にクッキーの片割れを差し出すのだった。百もそれを分かってる。口に運ばれたクッキーを咀嚼しながら、会話は冒頭に戻る。
「私はちょっと分かる気がする」
「なにが?」
「百が言ったんじゃん! 〝人のものを欲しがる感覚〟ってやつ」
「え〜姉ちゃん全然そういうタイプじゃないじゃん。むしろカラッとしてない?」
「別にそんなことないし」
「じゃあ友達の彼氏盗ってやるーとか考えたことあんの?」
姉弟間でしか許されないような不躾な質問に、瑠璃は一拍間を置いてから、やっぱりちょっと違うかも、と、どこか遠い目をして言った。
「どっちかっていうと、取り返したいのかも?」
ごくり。口の中に残っていたクッキーを、最後のひとかけらまで飲み込む。
「取り返す? 何を?」
前触れ無く、テレビの画面が真っ暗になった。
そこには頭を寄せ合い仲睦まじく愛し合う二人の姉弟の姿が映し出されている。瑠璃の表情は蛍光灯の光に反射して殆ど見えず、百は不思議と、金縛りにあったように動けなかった。
瑠璃が次に言う言葉を、百は先に理解した。言葉にならない声が漏れる。
「……あ」
お願い。それ以上は言わないで。
冗談だよって、いつもみたいに優しく笑って。
ザーザーと砂嵐が吹きすさぶような音が、大音量で直接脳に響く。あまりの恐ろしさに、逃げるようにぎゅっと目を閉じた。
「百から、R■■va■■を■取■■■■」
「ッ!! ………はっ、………あ………」
飛び起きて、夢だと理解しホッとして、ホッとしたことに、落ち込んだ。
まだこんな夢を見るのかと、ぎゅっと目を瞑り唇を噛む。それから何度か瞬きをして、目元に溜まっていた汗を流した。
枕元のデジタル時計には3と0が2つの表示。今がかなり深い時間であることを知り、隣に千が寝ていることにもやっと気づく。百と違って寝相が綺麗な千は、あるいは死んでしまっているようにも見えて、いつも少し、怖い。
(………布団、出してくれたんだな。あ、タオルケットも………)
有り難くも、申し訳なさが募る。いくらバイトが忙しかったからって、今日は百の方が早く帰っていたのだ。布団の準備も、食事の用意も、百の仕事だった。
お風呂あがりに倒れ込んだ記憶だけはご丁寧に残っていて、頭が痛かった。千は優しいので、そんな百を起こすこともせず、布団の上にもなんとか転がしてくれたのだろう。――千の力では寝ている百を持ち上げることは出来ない――ああ、そうだ。
「おかえりなさい」も言えていない。
そんな簡単なことも出来ないのかと、嫌になる。
ふと、マネージャーの岡崎凛人が、少しでも足しになればと、八百屋で安売りしていたらしいトウモロコシを沢山くれたことを思い出す。台所のシンク近くに紙袋を置きっぱなしにしていたことを思い出して、千を起こさないようにそろりと立ち上がった。とはいえ、千は滅多なことでは起きない。眠りが深いのだろう。
対して百は、日に日に眠りが浅くなっていた。だからろくな夢を見ないのだ。
瑠璃に責められる夢、家族を泣かせる夢、万理が――死ぬ夢。
シンクに近づきついでに、グラスに水を注いで一気に煽った。乾ききっていた喉が僅かに潤って、ケホ、と咳払いをする。
大丈夫。クッキーの欠片はもう、どこにも残っていない。それにも安堵して、夢と現実の境界が曖昧になっていることに気づいた。
だって、どこまでかは現実だった。実際、瑠璃はいつもああやって百にクッキーを分けてくれていた。一緒にドラマを見て、ああでもないこうでもないと雑談ばかり重ねて、眠くなったら折り重なるようにして眠ることもあった。
もう二度とない。美化することすら許されない思い出だ。
「……、………あっつ……」
自分の寝汗で濡れたシャツを脱ぎがてら、脱衣所のバスケットに放り込んだ。裸になった上半身が、薄暗い洗面所の鏡に写り込む。浮いた肋骨に指を這わせ、痩せたな、と実感した。
もともとが健康的な肉付きだったせいで、より貧相に見えてしまうのだろう。別に、体重が少し減るぐらい大したことではなかった。けれど、千と一緒にお風呂に入る時、彼が目に見えて顔を曇らせるのだ。きっと「自分のせい」だとか、余計なことを考えさせてしまっている。
食べなくても痩せない体だったらよかったのに。なんて無茶なことまで考えて、違う違う、いっぱい食べれるぐらい有名になってやるんだ、と改めた。
そうしているうちにバンさんを見つけて、オレは晴れてお役御免。それが究極のハッピーエンドだと、言い聞かせる。
オレは自分が気づいていなかっただけで、ずっとずっと、与えてもらう側だった。
だとしたらこれからは、与える側にならなきゃいけないんだ。甘えていられない。優しくしてもらう必要はない。
タイムリミットまでの、精一杯の献身が、あらゆることへの贖罪になると信じて。
トウモロコシを冷蔵庫にせかせかとしまっていると、流石に体が冷えてくるのが分かった。容赦ない冷気。
しかし着替えは押入れのクローゼットに入っていて、千を跨がなきゃ届かない場所にあった。そんなことしたら流石に起こしてしまうかもしれず、だとすれば着ないで寝るしかなかった。どうだろう、風邪ひくかな? でも今は夏だし、冷房のタイマーはとっくに切れている。から、大丈夫な筈だ。
トウモロコシは結局十本もあって、しばらくはこれで凌げそうだと凛人に感謝する。
これから始まる今日は、これを茹でて食べればいいか、と適当な献立も考えた。塩ならあるし、米も冷凍しているものが残っている。混ぜご飯ぐらいには出来るかな?
あと三時間で清掃のバイトに向かって、その後ダンスレッスン。それが終わったらボイトレの為に六本木に移動して、そのまま乃木坂のファミレスで深夜まで働く。道順まで脳内で再生していたせいで、背後の千の存在に全く気づかなかった。
「なんて格好してるの」
「ぎゃあっ!!!」
「うわっ!?」
百の絶叫に千も驚いたようだ。慌てて振り返ると、千は白黒させて、心臓のあたりに手を置いていた。びっくりするとそうしちゃうの、分かるよ。
「す、すみません……」
「いや……大丈夫。びっくりさせてごめんね」
「いえ、オレこそ! オレの方がびっくりさせちゃって、あ、起こしちゃいましたか!?」
「自然に目が覚めただけだよ。でもびっくりはしたかな。……いや、そんなことより。なんでそんな格好してるの?」
二度目の同じ質問だった。千が指しているのは、百の上半身だ。確かに普段はこんな格好でうろつかないので、訝しむのも当然だった。
千の視線は百のあばらに向けられていて、途端に居心地が悪くなる。
「寝汗、すごいかいちゃって! 着替えようと思ったんですけど、千さん寝てるしなあって」
「着替えと僕が寝ていることに、なんの関係があるの」
「ユキさんを跨がないと、クローゼットあけられないから」
「え、そんな理由?」
本当に? と目を見開かれて、はい、と少し弱めに返事をした。微妙に機嫌を損ねてしまった気がするのだ。
「そうそう起きないし、起きたところで別に構わないよ。そんな格好で居られる方が困る」
はあ、と吐かれたため息に、覚悟してた割にダメージを受けた。心臓がぎゅっと縮まって、一刻も早く千の前から立ち去りたい衝動に駆られる。
でも、駄目だ。そうじゃなくって、逃げずに、ちゃんと、謝らなきゃ。
ガバっと俯きがちだった頭を上げて、無理矢理笑顔を作った。
「――すみません! そうですよね、風邪引くかもしれないし。自己管理なってないっていうか、ほんとごめんなさい。すぐ着替えます!」
千はいつだって正しい。胸の奥のしくしくとした痛みも、結局のところ百の勝手だ。
自分がどれだけお荷物であるかを再確認しては、万理であれば、と考えずにおれない。
万理であれば、決して千にこんなことは言わせなかったろう。困らせるようなことはせず、ため息を吐かせるようなこともなく、信用しあって信頼し続けて、互いに笑顔のままで居られただろう。
――姉ちゃん。オレからユキさんを、Re:valeを取り返したいって気持ち、分かるよ。分かってるよ。
だからオレが、夢にまで見るんだよ。
はあっ、と熱い息が漏れて、目頭がツンと痛んだ。決壊する前にと、足早にクローゼットの方へ向かった。我ながら涙腺が緩くて嫌になる。
それなのに何故か、千のひんやりとした手が百の腕を掴んでいた。
「――え?」
「モモくん。多分勘違いしてる。自己管理の話とかしてないから。……泣かないでよ」
「なっ……泣いてません!」
「それは流石に嘘でしょ」
思いの他強い力で引き寄せられて、バランスを崩しそうになったところを抱きとめられた。今度は百が目を白黒させる番だ。
え、え、と行き場を失った両腕を彷徨わせて、結局千の腰のあたりに浮かせるしかなかった。触れない。こんな大事な人に。
「あの、勘違いって……?」
「別に怒ってたわけじゃないってこと。……あーやっぱり、体薄い。ペラペラになってる」
「そ、そんなこと……」
「あるよ。それぐらい僕にだって分かる」
ぎゅうう、と更に強く抱き締められて、骨がちょっと軋んだ。痛いのに、離してと言えない。だってどうすればいいのか分からない。何が正解? どうすればユキさんを満足させられるんだろう。
心臓がバクバクと脈打って、顔は首まで真っ赤になっている。月明かりだけが頼りの部屋に救われた。この暗さなら、きっと気づかれないから。
絹糸みたいな髪の毛が頬に触れ、清潔な香りが鼻をかすめる。千は寒がりだから真夏でも薄地の長袖を着ていて、今はそれに助けられていた。
これで素肌同士が当たっていたら? 考えるのも恐ろしかった。
「あ、あの……あの……?」
「百くんには、美味しいものいっぱい食べて、いっぱい太って欲しいな」
「ええ? ふ、太るのはちょっと……」
それは普通に困ってしまう。だったら痩せている方がよっぽど良いようにも思うのだけれど。よく分からない要望にちょっとだけ気が抜けてふにゃりと笑う。
「あ、明日はトウモロコシごはんにしようと思ってます」
「ああ、それなら少しは太れそうだね」
「だから太るのは、ちょっ……!?」
会話を続けながら、あろうことか千は百の背骨に指を這わせはじめた。鋭い指先の感覚に、ビクッ、と大袈裟なほど体が震える。
「ひっ!?」
「……ほら。背中の肉も落ちてる。……腰も」
「ぅあ、あ、あの、くすぐっ、たい、です」
腰骨の出っ張った部分に触れられて、ひぁ、と自分でも驚くほど高い声が出る。くすぐったさより、そんな場所を千が触っているという事実が、全身を甘く痺れさせた。
あ。やばい。なんだか、これ以上は、駄目な気がする。
そのまま腰骨を伝って、スウェットの内側、尾てい骨の方にまで指が触れた瞬間、殆ど無意識に「ユキさん!」と大きな声が出た。真っ赤な顔で訴える自分は、さぞ滑稽だったろう。
千は制止の色を強く含んだ声に素直に従って、拘束を解いてくれた。全身から力が抜け、へなへなと座り込む。
危ない。あとちょっと先まで触られていたら、多分、反応してしまっていた。「しばらく自分でしてなかったから」と言い訳したところで、千はショックを受けるに違いなかった。
相方が突然欲情し始めたら、恐ろしくてかなわないだろう。百に至っては、一人でする時も、この家を避けるようにしている。レッスン場のトイレであったり、あるいは公衆トイレの一室を使って、義務的に抜いて終わらせていた。
へたりこんだ百を見下ろしながら、千は静かに口を開く。
薄縹の双眸は、どこか湿り気を帯びているように見えた。それが何を意味しているかは、分からない。
「……気をつけてね」
声も出ず、コクコクと頷いて返した。居間に戻っていく千の背中を見つめて、襖の向こうに消えたことを確認してから、詰めていた息を一気に吐き出した。
気をつけてね、と千は言うけど。……どうすればいいのか、皆目検討もつかない。
だって今のは心配の延長で、スキンシップにも満たないような触れ合いだろう。それに過剰反応したのは、間違いなくオレだ。そしてそれを、我慢出来る術はないのだ。
「……どうしよう……」
あの人を、ユキさんを欲しがるようなことは、決してあってはならない。
だってユキさんの心は、全てバンさんのものだ。
オレに与えられる物事全てが、バンさんにしたかったことで、出来ずに後悔していることだ。
勘違いするな。間違えるな。自分の立場を弁えろ。
何度も何度も言い聞かせて――結局眠れず、朝を迎えた。
これから始まる今日が、昨日と同じように見えることを祈るしかない。
百は自分の無力さに呻きながら、そろりそろりと静かに部屋を出た。
*
ガチャン、と扉が閉まる音がしたのを確認して、千はのそりと起き上がった。
昨夜の自分の蛮行を思い出すだに、とてもじゃないがあれ以降一睡も出来なかった。
浮いたあばら、肉付きの薄い背中、作り笑い、赤い目尻。全てがいたいけでいじらしく、たまらなく愛おしいと思った。
思うだけに留めるべきだった。
――百の制止がなかったら。あのまま、どうしていただろう?
「……最悪……」
呻くように呟いて、両の手のひらで顔を覆う。自分は結局、何も変わっていないのだと思い知らされる。
楽曲が出来ないストレスを、音楽に愛されているか分からない不安を、誰かや何かで埋めることは、もうやめると誓ったはずだ。
ステージを純真に見つめる、あの瞳に。
「気をつけるのは、僕の方……」
与えられる愛の種類を履き違えるな。
大切にしたいのなら、尚更。
そう自分に言い聞かせながら、長く、深いため息を吐いた。