俺、仕事辞めようと思ってて。
 と、飲みの席で突然言われて本気で吐きそうになった。
 なにせ、それを言ってきたのは俺が五年かけて育てあげた元・新人で、現・右腕だ。いつか自分を超えるレベルの人材を育てるという気概で踏ん張ってきたこの五年が、全て無に帰してしまったような感覚。
 ジョッキを持つ手が、柄にもなく震えた。

 店を出てから十五分。その辺をふらつくだけでふらついて、目的地はどこにもなかった。誰も居ない家にこのまま帰ることは出来ず、お気に入りの子がいるキャバクラも、今はとても行く気になれない。
 西武新宿駅近くから歌舞伎町へあてもなく彷徨って、その周辺を一周してからまた西武新宿方面へ戻っていく。途中ファミマに寄って、セブンに寄って、何も買わずに出て。あー、頭が真っ白ってこういう感じ。苦く、しかし美化された思い出が蘇る。
 前回は、翌日に控えたプレゼン資料のデータをぶっ飛ばした時だった。それだって、後輩と一緒に徹夜で作り直して、発表寸前滑り込みで間に合ったのだ。
 それが二人で勝ち取った、初めての大型案件だった。自分たちのプランに決定した時は、泣きたいほど嬉しくて、なんなら普通に泣いた。後輩も泣いた。一緒にドバドバ泣いて、気恥ずかしさに「誰にも言うなよ」なんて脅しをかけたことも覚えている。
 なのに。なんで辞めるなんて言うんだ。あいつ。
 理由はいくら問いただしても、教えてもらえなかった。
 ――もう少ししたらちゃんと言います。先輩には感謝していますし、尊敬しています。完全に俺の問題です。転職先は先輩から教わったこと全てが活かせるように、競合他社を考えています。先輩を裏切る形になってしまって、すみません。――
 引き抜きかな、と思った。全ての言葉を素直に受け取れるわけもなく、かといって何もわからないうちから怒る気にもなれず。
 ひとまずまた明日ゆっくり聞かせてくれ、と金を置いて逃げるように店を出たのだった。可愛い後輩に置いてけぼりを食らわせて、俺は何をしているんだろうか。
 いや、でも、あんなに楽しく飲んでたのにそりゃねえよ。なんだかなあ。わざと水さすようなタイミングで、怒ってくださいって言ってるようなもんで、それもまた引っかかる。
 ……今日のことで分かったことが一つ。三十六にもなって、俺は後輩一人引き止められない。
 あーあ。
 これ以上ため息をついたら幸せが全速力で逃げる。そう言い聞かせて、無理矢理顔を上げた。空はネオンライトに照らされて白く烟ってていた。
 新宿は明るすぎて星が見えないんですよ、と言っていたのも後輩だった。地元の岡山では、この時間ならとんでもない数の星が見える。プラネタリウム要らずなんで、いつか是非。なんて冗談めかして笑ってた。なんだよ。岡山連れてってもらってねえんだけど。
 三十六にもなって、泣きそうだ。
 だってこの五年、無二のバディとしてやってきたのだ。片時も離れない――は言い過ぎだけど、それでも二人三脚でやってきた。右腕どころか半身を失ってしまったような喪失感にとことん気が滅入る。
 そんな俺のことなんか露知らず、信号を渡った先にあるビルの頂上では、液晶画面が三枚並んでビカビカと光を放っていた。頬を無意味に照らされて、うっとうしく思う。巨大ビジョンの画面の中には、全く知らない顔の良い男たちが二人で歌って踊って、その輝きに無性に腹が立った。
 芸能人とかいう人種は、綺麗な顔して芸も達者で、最初っから才能の化け物みたいな奴らの集まりだ。生まれた時から、圧倒的に持ち物が違う。
 平々凡々な学生生活送って、死ぬような思いで就活して、なんとかこの会社の内定もぎ取って、不況の煽りをモロに食らってクビに怯えて、後輩教育して。飯も喉を通らない程の疲弊や、商談が成立しなかった時の絶望を、このきらびやかな男たちは知らないだろう。知る由もないだろう。
 あーあ。花の金曜日に一人で知りもしない芸能人に文句を垂れて、何してんだろうなあ俺は。こんなんだから後輩にも逃げられる。自嘲を通り越して完全に自虐的な笑いが漏れたところで「先輩」と肩を叩かれ、本当に腰を抜かすかと思った。
「ッ……!!!」
「うわ、びっくりした」
「び……びっくりしたはこっちのセリフだ!!!」
 後輩は涼しい顔をしている割に額に汗をかいていて、もしかすると俺を探していたのかもしれなかった。いやどうだろう。普通に暑いからか? 今日の気温は二十一時時点で二十八℃だ。
 しかし、さっきの今で普通に話しかけてくる度胸と根性は、流石俺が見込んだだけのことはある、と逆に感心してしまった。
 俺も俺で、数秒前までの苛立ちや悲しみは、驚きと共にどこかへ吹き飛んでしまったようだ。
「先輩、もしかしてRe:vale好きなんですか?」
「は? りば……なに?」
「あ、やっぱり知らないか」
 あの人たちです。と、人差し指で大型ビジョンを示される。ああ、あいつら。無駄に顔のキラキラした。
「俺、凄い好きなんですよ。Next Re:valeって番組も面白くて、お笑い芸人レベルに愉快な人たちです」
「愉快って……。……俺は今、お前と話をする気分じゃない。普通に不愉快」
「まあ、はい。ですよね」
 すみません。そう言って頭を下げる後輩に、いやそこまでしなくても、と慌てる。すると後輩は笑って顔を上げたので、わざとであることに気づいた。悪質すぎる。
 今日のお前なんかおかしいよ。
「なんでお前そんなことが出来るわけ……? 俺の傷心返せよ……」
「傷ついてくれましたか」
 またしてもビジョンの男たちに目を奪われている男が、何か言ってる。
「は? どういう」
「俺、先輩のことが好きなんですよ。恋愛的な意味で」
「………………あ?」
 衝撃の度合いが強すぎて、さっきなんて比じゃないぐらいに頭の中が真っ白になった。
 後輩は、わざととしか思えないほど、口だけを動かしていた。人と話す時は目を見ること。そう教え込んだのは自分なのに、何も言えない。
 新宿の大通り、近くにはドン・キホーテとTOHOシネマズ。いつもと変わらない雑踏で、往来で言うことでは、ない。絶対に。
「でも先輩、絶対ノンケだし。だからずっと一緒に居るのは無理かなって思ったんです。好きな人から毎日キャバクラのお気に入りの女の子の話されるキツさ、分かります?」
「…………分かるわけねえだろ」
「まあ、そりゃそうか。……本当は先輩見つけた瞬間、やっぱり逃げようかなと思ってたんですけど」
「けど?」
「うわ、俺の好きな人と俺の好きな人たちの共演じゃんって思ったら、なんか嬉しくなっちゃって。うっかり言っちゃいました」
 笑ってんじゃねえ、と怒鳴りつけたかったのに。
 なんでか俺は、お前を失うこととの天秤に、自分の人生をかけそうな気が、ひしひしとしている。
 …………恐ろしいことに。



「素敵でしたなぁ」
「うん。次の曲のインスピレーション、少し湧いたよ」
「えっ! さっすがダーリン! 目に入れる全ての事象を音楽に落とし込める稀代の大天才……!!」
「ふふ、モモってたまにびっくりするぐらい日本語が達者になる」
 実のところこれは全部こそこそ話で、オレたちは二人仲良く区役所通りに向かって歩き始めている。
 お台場での収録終わりに、行きつけの会員制バーに行くことに決めた。おかりんに新宿まで送迎してもらったついで、自分たちのCMが流れる巨大ビジョンを冷やかしてやろうと近場で降ろしてもらったのだ。
 完全お忍びルックな上でオーラも消してしまえば、意外とバレないのが新宿という街だ。この辺には華美な顔をしたホストも沢山いるから、そのせいもある。とはいえユキの顔面は現世に溶け込めない程とんでもないので、マスクにサングラスは必須なんだけど。
 巨大ビジョンに映った自分たちを見上げて「大きくなったね」「物理的にもね」「むしろそっちのほうがね」「概念的にももっと大きくなりたいね」みたいなオチのない会話を続けていたら、突如、目の前で告白劇が始まったのだった。
 年上っぽい人の驚いた声にユキと二人して引っ張られて、自然とそっちに目がいく。それから、年下っぽい人の告白。突拍子は、相当なかったんだろうなあと思う。
 うっかり聞き入っちゃって、ちょっと悪いことをしたかもしれない。でも、あんなに素敵なドラマを一秒たりと見逃すわけにはいかなかった。
 あの時オレたちは、熱心な視聴者だった。年下っぽい彼がいつも向けてくれているんだろう視線と、きっと同じくらいの熱量で見つめていた。
「実物とも共演してたって知ったらビックリだよね」
「今度ネクリバのオープニングトークで話そう」
「名案〜!」
 毎日物語の主人公のように華やかでいることを求められるオレたちが、あの瞬間は確かに脇役であり舞台装置だった。それが無性に嬉しくてたまらない。
 じゃあじゃあ、オレもあの二人を見習って、ユキに向かって「好きだよ」って言っちゃおうかな?
 勿論、恋愛的な意味で。
 今から始まる夜の、主役はやっぱりオレたちでありたい。トップアイドルRe:valeは、伊達じゃないのだ。


誰が為の人生