「百くん、まだ俺に緊張してるんだよね」
千を真ん中に、万理・百と横一列で仲良く並んだバーカウンター。べろべろに酔っ払い突っ伏する百を横目に見て、逆側に座る万理へ身体ごと傾けた。
「みたいね」
つとめて、まったくどうでもよさそうに返してやる。
「おい邪魔。百くんの寝顔見れないんですけど?」
「見なくていいでしょ。減る」
「言い方。減らない。むしろ増えるんじゃない? アイドルはファンからの熱い視線で輝くわけだから」
「おっさんが何か言ってる……」
「おまえが言うか? っていうか、その言葉はむしろ百くんに効くだろ。言って二歳差だぞ」
やめてあげなさい。そして俺にも言うのをやめなさい。
――毛布みたいな声だな、と思っている。トップアーティストが聞いて呆れるが、けれどやっぱり、そうとしか言いようのない声だと。
羽毛の掛け布団みたいな、全部包み込んでしまうような声。千は、万理の声が好きだった。自分が死ぬような思いで紡ぎ出した歌詞が、この声に乗って歌われることも、たまらなく。
全部好きだった。
「まあ、モモは童顔だからね」
「そうやって見た目だけで判断するのであれば、お前も俺と同い年にしか見えないと言える」
「トップアイドル捕まえてそれ言う?」
五年のブランクを一切感じさせない語り口に、懐かしさとかすかな苛立ちを覚える。そしてその大半は歓びに支配され、何でもいいから喋ってくれと思わずにいられなかった。
呆れた口調、醒めた口調、次第に酒がまわってきて、優しさを隠せなくなる口調。
五年分まるごと寄越せと言いたかった。叶わないから、言わないけれど。
万理が長く通っているという行きつけのバーに入店してから、既に二時間が経過している。
最初の数十分をほぼ百に回してもらったお陰で、会話はこれ以上なくテンポよく進んでいた。
「僭越ながら不肖・モモが本日の司会を担当させていただきます!」
と、マイクを持つフリをしつつ名司会を買って出た百は、普段以上に口を回し、物凄い速度でシャンディガフだのカルーアミルクだのを喉に流し込んだ。可愛こぶるのをやめてからは、ジントニックにマティーニにと、酷いちゃんぽんを始めたのだった。
赤く染まった頬。アルコールを入れる前からそうだったってことを、千も万理もとうに気づいていた。そして、眠るために飲んでいることも。
最終的にハイボールに手をつけ始めたあたりで、撃沈。その時点で百は八杯目、千と万理はまだ三杯目を飲みきるか否かというところだった。
突っ伏した百を見て、あららと申し訳なさそうに笑う万理の表情は、昔と寸分たがわない。初めて百を打ち上げに誘った日、うっかりミスでお酒を飲んでしまった百を介抱していた時と、同じ顔だ。
そもそも、今日の飲みに百を誘ったのは他ならぬ万理で、千と二人きりになるのを避けようとしているのは明白だった。
百を巻き込むなよ、と言ってやりたかったが、百が「嬉しすぎます! オレ、お二人とお話したいです!」なんて先手を打ったせいで、口が挟めなくなってしまった。
「夢みたいです。バンさんとユキさんと、また一緒に飲めるなんて」
「あはは、大袈裟だなあ」
百が昔みたく敬語に戻って、まるで部外者のような顔をする。それが嫌だった。ユキ、と呼んでくれるようになったその距離感を、ことさら愛しているのに。時折、未だファンだと言って憚らない百に、千は真実理解を示すことは出来ないでいた。
「モモ。それ、好きじゃないよ。やめて」
思わず出た言葉が、自分の想像よりも冷たく響いて少し驚いた。
百の肩がビクリと震えて、開いていた口がきゅっと引き結ばれる。サッと顔が青ざめていくのを見て、焦った瞬間、隣から強めの力で頭を叩かれた。
「いっ、た」
この容赦のない攻撃すら懐かしい。万理に向き直り、睨みつける。
「ちょっと、何」
「百くんに謝れ」
「謝ろうとしたよ。万が早すぎただけ」
「おまえが遅すぎるんだよ」
ほら、と促されて、固まってしまった百に手を伸ばす。それにもビクつかれて、ちょっと、いやかなりショックだった。
実に気まずく、しかしそんなことを言ってる場合でもない。喧嘩がしたいわけじゃないし、うまくいっていないのか、と思われれたくもなかった。
そろりと癖の強い髪を撫でながら「ごめんね」と囁く。
百は「いや、オレも」と顔を俯かせ「ごめんなさい」と零した。
何を謝ることがあるんだろう?
「……おまえ、昔っからそうだけど」
「え?」
「百くんのこと考えてる時、俺の話ちっとも聞かない」
「……そう? そんなことないと思うけど」
あっそ、と万理は――さっきの仕返しだろうか――ひどくどうでもよさそうに零して、ウィスキーを最後の一滴まで流し込んだ。球体に削られたロックアイスは気が利いていて、なるほど万理が好みそうな店だなと思う。
避けられていたのだから当然だが、千や百の行動範囲に万理の行きつけはなく、ここも初めて足を踏み入れる土地だった。渋谷、新宿、六本木、麻布、はたまた石神井、でなければ目黒……どこにもかすりもしないような、淋しげな場所。飲み屋なんてぽつぽつとしか存在せず、特にここは看板も出ていなければ地下に構えているような店だ。
ここで、五年。
万理が当たり前に飲んでいたのかと思うと、せめて隣に誰も居てくれるなよ、と願ってしまう自分もいた。あまりの狭量さに驚きながらも、まあ当然だろと思う。
僕が死にかけてたのに、誰かとワイワイ飲まれてたら腹が立つ。単純にそれだけ。まあ、ワイワイは言い過ぎか。
万理はいつも正しいが、かといって感動的に強い男だったわけでもない。と、今なら思うのだ。
「まあ、なんだ。本当に……ずっと見てたんだよ。この五年」
いつも涼し気だった万理の目元も、アルコールによって赤く染まりつつある。千もきっと、自分で思っているよりは顔に出ているのだろう。
脚を組み直す。思ったよりも、体は固まっていたらしい。緊張しているのかな、とおかしくなった。万相手に、そういう感じなの? 僕。
笑う代わりに問いかけた。
「どれぐらいずっと?」
窺うような視線で万理を見る。万理は真っ直ぐ前を向いていて、千と視線を合わせることはしなかった。遠くの記憶に手をのばすみたいに。
「そうだな……初めて二人がテレビに取り上げられた瞬間も、偶然だったけど、見てたよ。ほら『デビューしたてのアイドルデュオ!』」
「ああ……」
「「リ・バル!」」
無駄に綺麗に揃った声に、一拍間を置いて、そこから二人で声を殺して笑った。酔っているから仕方ない。百を起こさないように、くつくつと肩を震わせつつこらえる。我慢すればするほどおかしさは膨れていって、互いにしばらく使い物にならなかった。
目尻に溜まった涙を指で拭い、一息つく。全く同じように笑っていた万理も、はあ、と熱のこもった息を吐き出した。
束の間の沈黙。
偶然にも重なってしまった声の余韻が、耳の奥に残っている。
声の響きも、何もかもが、あの頃とは違った。それは分かりきっていたことの一つだった。とっくの昔に置いてきてしまった熱を思い起こし、しかし完璧に取り戻せる気はしない。しようとも思わない。
お互いにこの五年で、譲れず、諦められなかったものだけを持ち寄って今ここにいる。だからこそ、今、会えたのだろう。
あの頃のまま何も変わらなかったなら、万理は千の前には現れなかったし、千も万理を五周年ライブへ誘おうなどと思わなかった。
「今更、俺が言うことじゃないけどさ」
万理が千越しに、眠る百を見つめる。その目はもう、若かりし頃の〝万〟ではない。
「Re:valeは最高のアイドルだったよ、ずっと。これからも」
「……当然でしょ。モモと、僕がやってるんだから」
万理の手元に置かれた、何も入っていないロックグラスに自分のワイングラスを軽く当てる。
乾杯。
明日にはきっと、以前よりずっと他人の君へ。
*
「モモ、起きて。帰ろう」
千の穏やかな声に、ゆっくりと顔をあげる。あまり長い時間突っ伏していたせいで、額がちょっと痛かった。
「あは、赤くなってる」
すりすりと額を撫でられて、気持ちよさに目を細めた。酒はすっかり分解されてしまって、殆ど素面だ。逆に千はとても機嫌良さげに、ほわほわと笑っている。
明日の業務に響くからと万理は既に帰宅し、千とマスターの音楽談義が終わるまで、寝たフリで待ち続けていたのだった。
最悪なことに、潰れたのは演技だった。積もる話をしたがっているのは千で、万理はそれを避けたくて百を呼んでいる。けれど、百は常に千の味方だ。速攻でべろべろになるまで酔っ払って、自分はトークから退場したのだった。
とはいえ、すぐに寝付けるかと言えば、そんなわけもなく。むしろ目は冴えていて、意識はずっと保ったままだった。
万理も、千も、百の知らない顔をして喋る。二人にしか知り得ないことや、二人の間にしか流れない空気があった。それを前に、ただヘラヘラ笑うことは出来ないと早々に諦めたのだ。腹の中に押し込めた獣は、声を出すことなく唸っている。
ユキを奪われてしまうんじゃないか。
ユキを奪ったのは俺なんじゃないか。
バンさんはRe:valeを続けたかったんじゃないか。
オレはRe:valeを、絶対渡せないんじゃ、ないか。
オレが邪魔じゃないですか、オレのことをどう思っていますか。
お願いだから、本当の本当を教えてください。
全部言いたくて、なんにも言えることはなかった。百の中でさえ消化出来ていない問題や葛藤を、万理にぶつけるのはただの暴力でしかない。
ゆらりと立ち上がって、酔ったフリを続ける。千は百が未だ酔っ払っていると信じ切って、「危ないよ」と言って腕を組ませた。
嫌んなるくらいスマートで、ジェントルで、優しくて、誰にも渡せないよ。
ユキ。ねえ、オレ、どうしよう。どうしよう?
地上への階段を、ひとつひとつ踏みしめるように登っていく。落ちないように。間違えないように。扉を開けて外に出ても、そこは真っ暗闇だった。まるで自分のようだと、いくらかの自虐。千の「好きじゃない」が今更リフレインして、泣きそうになる。
ああこれ、酔いが醒めたんじゃなくて。悪酔いしてるのかなあ。
「モモ、見て」
酔いどれの千が、人差し指で真上を指す。
「星と、月が綺麗」
見上げても、空には何もなかった。星の瞬きひとつない。
けれどユキには、美しく輝いて見えるらしい。オレが見えないものも、この美しい人の視界には、素晴らしいものとして映っている。その事実が嬉しくて、けれど苦しかった。
「……ほんとだ。綺麗だね」
「モモにも見える?」
「うん。……見えるよ」
千は上機嫌に笑って、百の頭をぐっと引き寄せ抱きしめた。「撮られちゃったらどうすんの」と冗談めかして言ったのは、心臓の音を聞かれたくなかったからだ。
「モモが好きだよ。一緒にRe:valeをやってくれて、有難う」
何度目かの愛の言葉。
真正面から受け取って、そのくせ端っこの方に置いてしまうオレだ。
Re:valeが大好き。Re:valeのファンの皆が大好き。バンさんが大好き。
ユキが世界で一番好き。
「次は、ちゃんと三人で飲めるといいね。……すぐに寝ようとしないでさ」
少しばかり寂しそうに響く声が、不謹慎に嬉しかった。
あーあ。オレはとことんダメなやつだ。
泣かないようにぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと背中に腕を回した。殆ど聞こえないような声でつぶやく。
「ごめんなさい」
腕に力を込める。
これが最後になったって、後悔することのないように。