何も演技の仕事は千だけに来るものではない。
 百にもそこそこの頻度で依頼はやってくるし、そこそこの頻度で受けている。
 ただ、百の場合はティーン向けの少女漫画原作が多く、それらの仕事で千と共演を果たしたことはなかった。
 岡本凛人、愛称おかりん曰く。
「千くんをティーン向け作品に出演させたら事務所が終わります。分かってますか。出演者も未成年がだらけなんです。〝未成年〟はほんと〜〜〜〜〜にヤバいです」
 真っ青な顔で言われると妙に説得力がある。そしてわざわざ言われなくたって、それがどれだけマズいことなのかは千にも分かることだった。
 デビューして五年。誑かした記憶なんて一度もないのに勝手に共演NGが増えていることを鑑みると、細心の注意を払いたいおかりんの気持ちも理解出来る。勝手に好きになって勝手に嫌いになって、つくづく女優という生き物は、と思わないでもないけど。
 五年も僕の隣にいて、少しも誑かされないモモのことを見習うべきだと思う。イケメン、キュート、ジェントル、超カッコいい、愛してる。その言葉の全ては不思議なほど親愛に満ちている。
 そう、不思議なほど。

 ところで百は今、それこそティーン向け映画の撮影真っ最中だった。故に最近はNEXT Re:valeの収録後も飛ぶように撮影現場へと消えてしまう。
 クルーの一体感を大事にするタイプの百は、スタ撮でもロケ撮でも各出演者に必ず挨拶回りをするし、撮影後も誘われた飲み会は絶対に断らない。翌日早朝ロケが控えていても一杯だけは飲んで帰るという信条の元、毎日忙しなく動いているようだった。
 そういう百の努力があってこその今なので、その行動自体をやめろ、とは言わない。けれど。
 百に映像関係の仕事が入る毎に置いてけぼりを食らうこちらの身にもなってほしい。もう半月以上、フラれるどころか告白すら出来ていない状態が続いていた。ちょっと露骨なぐらい。避けられてると言ってもいい。
「うちにおいで」
 そのたった六文字を言う暇もなく、百は颯爽と姿を消す。昔なら、帰りさえすればあの子は居たのに。当然居なければ居ないなりに、つつがなく暮らすことは出来る、けれど。
 今この瞬間は素直に寂しいし、つまらなかった。
「………ねえ。おかりん?」
「……………」
「……………」
「……………はあ〜〜……。まあ、いいか。今日の撮影なら……」
「あら」
「日比谷のAスタ、テッペン超える予定ですから、くれぐれも無理はさせないようにお願いします」
「おかりん。愛してるよ」
「それ、自分じゃなくて百くんに言ってあげてください……」
 本気で呆れた声に、かなり適当に微笑んだ。
 言ったところで今のモモにとっては全部「イケメン」だよ、おかりん。

 なるほど今日の撮影は、現場に女優が居ないらしかった。
 だからおかりんも根負けしてくれたんだなと納得しつつ、ある程度距離をとった場所から百の演技を眺める。ジャンルが被らない分、生で百の演技を観れる機会は少ない。ありがたく拝見させていただくこととする。途中、何度か女性スタッフに話しかけられそうになって、都度曖昧な微笑みでやり過ごした。
(制服、似合ってる)
 今撮っているのは、本人から得た情報から察するに、さほど珍しくもない学園もの。ブレイク直前の若手新人女優とW主演で、百は高校生のヒーロー役だった。
 齢二十五にして高校生は大変、なんて本人はさんざんネタにしていたけれど、正直全く違和感はなかった。ブレザーの下にパーカーという着こなしも自然で、無理がない。いつもは赤い爪が黒に染まり、ピアスもいかつめのものに変わっている――くせ、指輪は外していなかった。そこはそのままなんかい、と気づいて吹き出してしまう。視線が一瞬集まったのを感じて、失敬、と咳払いをするフリをした。
 カットの声がかかった後、何度目かの台本チェックや演技指導が入る。百の表情は真剣そのもので、強い緊張が窺えた。普段から現場の空気を大事にするタイプの百にしては妙にピリピリしていて、へえ、と少し驚く。こういう学園もの、初めてじゃないのに。
 次のシーンの擦り合せにもやたらと時間がかかっていて、それも不思議に思う。テッペンを超える予定とはなるほどその通りで、相当丁寧に撮影しているようだった。
 かなり前に出演した同監督の作品では、役者の頭が追いつかないほどアップテンポな撮影だったはずだけれど。助監の好みとか? もしくは脚本家。奇妙な居心地の悪さのようなものを、撮影風景から肌で感じ取っていた。
 ボールドが下ろされる音が響いて、現場の緊張感は一層増す。
 ――その理由が、やっと分かった。

 セットは生徒指導室。若い教師に素行を注意されるも、まるで意に介さない百は、激昂した教師に胸ぐらを捕まれ――当然フリだが――頬を殴られる。右頬を殴られたあとに、左頬。
 ティーン向けにしてはかなり本格的な暴力シーンに、眉を顰めた。さっきの演技指導の結果が、これ?
 嫌悪感すら抱きながら見つめる先で、芝居は続く。
 体躯のいい教師と逆では、ウェイトに差がありすぎる。なんとか一発重い蹴りを入れようとしても、うっかり脚を捕られ机に組み敷かれるだけだった。
 ガンッ、と、背中を痛めたんじゃないかと思うほど苛烈な音がスタジオに響いて、目を眇める。
 受け身、全然うまく取れてないじゃない。なにしてるの、モモ。
 その「なにしてるの」は、直後にもう一度重なる。
 教師は百の細い顎を鷲掴み、何故かそのまま、唇を奪った。
(は?)
 予想だにしない展開に流石に驚いて、声が漏れそうになるのを直前で飲み込んだ。
 今の、フリ、だよな。……どうだ?
 そもそも、顎の掴み方すら乱暴すぎる。アイドルの顔、粗末に扱うなよ。自然と舌打ちが漏れて、周りのスタッフが瞬間緊張したのが分かったが、誤魔化し笑い一つ出来ない。
 きっと百々が「本気でやっていいよ」とでも言ったのだろうけど。
 お前のそういうところ、僕はあまり好きじゃないよ。
 直後、教師役が台詞を飛ばすNGを出し、一度休憩を挟むことになった。このタイミングだと、キスシーン――と言うにはあまりにお粗末な絵面だったが――も撮り直しになるだろう。
 まるでわざとみたいに間違えたな、と思うのは意地が悪いだろうか。詮索しすぎ? 口に出したら、モモはきっと怒るに違いなかった。
 現場の空気がゆっくりとほつれていく。悪い意味で緊張感が抜けてしまった現場は、きっと今のシーンをあと三回は撮り直す。その度に、百が痛めつけられていてはたまらない。
 入り口付近の壁につけていた背中を剥がし、セットまで近づく。千の気配に気づいた監督が「来てたのか」と嬉しそうに声をかけてくるが、「まあね」とだけ返した。
「今日このシーンがラストだよ。終わったあと飲みにでも行くか?」
「行かない。モモを連れて帰るから」
 明らかに機嫌を損ねています、といった態度は監督にも効いたらしく、はいはいと苦笑いを返されて終わった。
 本当は監督にも物申したいことは沢山あるけれど。それは僕の手の届く範疇のことではない。また一歩踏み出し、百の後ろ姿を数メートル先に捉える。
「モモ」
 背中がびくりと震えて、しばらく停止した。
 何かを考えている背中。言い訳、冗談へのすり替え、誤魔化し――そういう物を胸中で渦巻かせている。後ろめたいことがあると、百は笑うけれど。今回に於いては本人も虚を突かれたのだろう、いつもより下手くそで、それだけでほんの少し溜飲が下がってしまった。大概僕も甘いよねと、独りごちたい気分である。
 そもそも、今日これから始まる喧嘩は、僕に分があるし。
 お前の背中は、誰のものだと思っているんだ?
「モモ」
 念を押すように呼びかけると、ため息と同時に肩を落とし、渋々こちらを振り返った。
 まるで怒られることを覚悟している仔犬のような目だった。一歩も動こうとしないのは最後の悪足掻きだ。結局、千が歩み寄り腕を引いた。大した抵抗もなく、百もずりずり足をもたつかせながら着いてくる。
 勝手知ったるNビルの廊下は、目を閉じても歩けるほど熟知していた。コンクリートの床に、カツカツと靴音が響いた。わざと人通りの少ない経路を選んで歩いている。
「……おかりんは?」
 やっと口を開いたと思ったらこれだ。今、おかりんは関係ない。
「さあ。知らない」
「なんでユキが居るの」
「おかりんから聞いた」
「今おかりんのこと知らないって言った……」
「そうだっけ?」
 恨めしそうな声は心外だった。そもそも、おかりんだって共犯であると言える。百がこの役を受ける前に、台本チェックは済ませているはずだ。大幅な変更があれば三稿、四稿と共有されるのが常なのだから、百が暴力的な男に殴られる、というシーンがあることを知らないとは言わせない。
 まあ、知っていたからこそ、今日僕はここに送られたんだろうけど。
 くれぐれも無理はさせないように、とは彼の言葉。だから僕とおかりんが、共犯だ。

 人通りがなくなったことを確認して、立ち止まる。千が一人になって集中したい時は、ここのパブリックベンチまで腰掛けると決めていた。先に千が座り、隣へどうぞと手で案内しても、百は千の前から動かなかった。
「座らなくていいの?」
「だってユキ、怒ってんじゃん」
「まあね。モモが下手だから」
「ウッ……。お、オレだって頑張って演技してんの! ユキみたいに才能はないかもしれないけど……」
「違う。受け身の話」
「あー……もうその話しちゃう?」
「その話をしにここまで来たから」
 はあ。観念したみたいに百が隣に座る。お互い、隣に視線送るようなことはしなかった。正面を向いて、真っ白な壁を見つめる。視界の端に映る自動販売機が、虫の羽音のような機械音を立てていてうるさかった。
「スタジオ来るまでに、若い子たちとすれ違ったりしなかった? 18時までは居たんだよね。他のキャストの子も」
 あ、本題にはまだ入らないんだ。
「しなかったね。……別にすれ違うぐらいいいでしょ」
「良くないのー。絶対ダメ。ユキは共演するよりもすれ違って微笑まれるくらいが一番ヤバいから!」
「……そう? よくわからないけど」
 女性スタッフにはもうやったな、それ。心当たりは顔に出さず、百も気づかないまま話は進む。
「で、だから、本当に今回若手ばっかりなんだよ。教師役だって殆どオレより下の子だよ? 演技初挑戦の子もめちゃくちゃいるし。もはやなんでモモちゃんが主役!? って感じでさ。もうね、現場でもお兄ちゃんみたいな感じなの。ずっと」
「うん」
「だから、ちょっとこう……やり過ぎちゃっても、それってしょうがないし、それで毎回撮影止めてたら、回んないじゃん? 今回の脚本、ちょっと特殊だしさあ」
 語尾に疲れが滲んだのが分かって、やっぱりね、と思う。やっぱり百も十分に無理をしている。
 若手のエネルギーは凄い。特に十代は、緊張して動きが硬くなりすぎるか、向こう見ずにフルパワーで挑んでくるか、そのどちらかが極端に多かった。
 ドライリハーサルでは難なくこなせた芝居も、いざカメラが回り始めると、頭が真っ白になって、撮影が止まる。時間がなければ回し続け、そのまま本番を終えることになる。特に、百のような秒刻みのスケジュールで動いている人間が側に入れば尚更。
 時間は有限であることを思い知った新人は「思うような芝居が出来なかった」ことに奈落の底まで落ち込み、追い打ちをかけるように監督に叱られる。その後スタッフ総出で慰め褒めそやして、限界まで下がったテンションをなんとか引き上げさせ――……。
 とかく、演技初挑戦の若手が居る現場は、面倒だ。それはもう、千も十分に分かっているし、だから出来れば共演したくないのだった。W主演、準主役、若い相手役が必要な作品は全て、大和か楽にお願いしたいと願ってしまう程度には。
「特殊ね」
「特殊だよ。……さっきの見てたでしょ?」
「まあね。どういうことなの、あれ」
「……ユキってネタバレOK派だっけ」
 至極真面目な質問はどこか間が抜けてて、百の肩の力が抜け始めているのが分かった。
「どうぞ」
 百が、はあ、と息を吐く。
「あの後、オレがあの教師を殺すんだよね」
「……へえ。いいじゃない。面白い本だね」
「ダーリンったら物騒ですぞ。まあでも、本当に面白くて。あそこからガラッと作品の雰囲気自体変わるんだよね。タイトルロゴも変わって、音楽も不穏になっていくっていう」
「ああ……百が主演な理由分かったかも」
「どういうこと!? って、じゃなくて……だから、えーっと……こう……さっきのも『オレが本気で殺したくなるような演技してね』って言った結果、まあ……マジのやつが来た、のを、オレが受け止めきれなかったって感じです」
 だから、やっぱり、オレの演技が下手だったんだと思うよ。
 百の、独り言みたいな言葉がゆっくりと耳に届く。無駄に凹ませてしまったことを、今理解した。
 別に、お説教をしたいわけじゃない。体を痛めて欲しくないのは真実だが、自分はこの作品に関わっているわけではないし、そもそもそんなのは監督以下現場の人間の仕事だ。
 ただ自分が圧倒的に苛立った。それだけ。
 百の演技は本当に下手ではないし、なんなら今回の役は特別ハマり役になる。作品も大ヒットして、演技を幅を広げるいい機会になると予見出来た。
 それぐらい、押し倒され、必死に抵抗する百には魅力があったのだ。
 あと。きっと僕には死んでも見せない顔だな、とか。
「……キスのところは、あれ、フリ?」
「いや、してるよ。あそこアップになるし」
「は?」
「え? いや、そりゃそうでしょ! それ引き金になって殺すんだよ?」
「…………そうね」
「わー、全然納得してないって顔〜〜……」
 と、言うことは、セリフのNGも本当にわざとかもしれない。あそこまで熱の入った演技で、あそこまで露骨な発声ミスは、素人に近ければ近いほど逆に難しいものだ。
 思わずため息をつくと、百の肩がビクついた。今のは百に向けたものではなかったけれど、そう思うのも無理はない。
「モモ。大丈夫だよ。もう怒ってない。……というか、僕は怒る立場にない」
 百が恐る恐る、体ごとこっちに向けて訝しむ。千も、顔だけ百の方を向いた。今日やっと、お互いに目を合わせた。こんな空気なのに、お互いそのことに少しほっとしている。
「今更それ言う? めっちゃくちゃ怒ってたじゃん」
「だってあいつがモモに下手なキスするから」
 ぱちくりと目を見開いて、ええ〜……と少し引いた声を出された。心外だ。
「ユキさあ、さっきからあのことキスって言うけど、そんな可愛いもんじゃなくない? サービスシーンじゃないよあれ」
 呆れた物言いには圧倒的に危機感が足りなかった。あいつはまた失敗を繰り返し、その度に百の背中は痛めつけられ、唇は奪われ続ける。減るもんじゃないし、とお前は言うかもしれない。けど、減る。確実に。
「まあ、そうね。サービスシーンっていうのは――」
 今度こそ体ごと百に向け、両肩を軽く掴む。「え」と百が抵抗する間もないうちに、とさ、とベンチに押し倒した。肩に乗せていたてのひらを百の唇にあてて、手の甲に唇を落とす。
 この手を引き抜けば、すぐにお前の唇に振れられる距離だ。
 目を見開いて固まったままの百は、やはりひとつも抵抗しない。嫌がるとか、怒るとか、何一つ起こらない。有り難いことだけれど、寂しくもあった。あまりにも相手にされていない感じが。不思議なほどの親愛が。
 手の甲から唇を離して、てのひらをゆっくりとずらしていく。赤く薄い唇があらわになって、さっきここに知らない男の唇が触れたのだな、と指を這わせた。ふに、と柔らかく潰れた唇が愛おしい。
 消毒と称して、本当にしてしまってもよかったけれど。それじゃあいつとやってることが同じだ。
 ゆっくりと体を起こし、未だ放心状態の百に告げる。
「いい加減寂しいから、次で一発OK出して。そのあと、うちにおいで」
 百の顔が、茹でダコみたく赤くなる。
 あ、よかった、伝わったんだと胸を撫で下ろしたところで、何故か涙目で「サイテー」と言われた。

 その後は近年稀に見る大喧嘩。共犯者であるおかりんすら、遠い目で「千くんが悪いです」と言ってきた。
 ――何がなんだか分からない。


鈍感は人(モモ)を殺す