最初の頃って、ユキが不機嫌な時は絶対に触っちゃいけないもんだと思ってた。
まあそりゃそうだよ。あの〝ユキさん〟が眉間にシワを寄せて、話しかけても一言も返してくれなくて、ギター抱えて真っ白な譜面とにらめっこなんて。春原百瀬に太刀打ちできる相手じゃない。
だから出来るだけ物理的な距離を取ってたし、絶対に話しかけないようにして、同じ部屋にいないものだと思ってもらえるように気配も消していた。
チリチリ、ピリピリした空気を吸い込むのすら怖くて、息をするのにも気を使っていたっけ。健気だね。いじらしいね。これはユキの言葉。
同じ空間にいるのに、ユキに認識されないことが悲しくて、でもそう努めているのは俺だろって自分を責めて、一人で半泣きになりながら卵かけご飯を食べてた。野菜を買うお金もなかったあの頃。ユキは少食に拍車がかかって、葉っぱしか食べない姿を怖がってたっけな。
でも、今なら分かる。
ユキはね、不機嫌な時ほど構ってあげなきゃいけないんだ。だってその時の百瀬くんはもう知っていたはずでしょ。
ユキが恐ろしく寂しがりやで、繊細だということを。
でも触れたら壊れてしまうほどヤワじゃなくて、両手で包んで、おにぎりみたいに形を整えてあげなきゃいけないタイプの繊細さ……であることは、知らなかったか。
で、大分かかって、もうこのままじゃ本当にだめだ、やってけない、と腹をくくったんだよね。恐る恐る不機嫌なユキに声をかけたこと、昨日のことのように思い出せる。
「ユキさん、あの……ご飯、出来ました」
「…………」
「……ッ、オレ! ゆ、ゆ……ユキさんと、ご飯……食べたいです!」
物凄くしどろもどろになっちゃって、汗も止まんなくて。でも必死に、オレが傍にいるよ、ということを伝えてた。
一緒にご飯を食べて、一緒に寝る相手は、ここにいます。ユキさんは一人じゃないんです。たった今は、オレが傍にいさせてもらってます。
そういうことを「ご飯食べたい」というオブラートに包んで、何度も何度も話しかけたら、やっとユキの目に光が戻った。
それでユキ、なんて言ったと思う?
「もっと言って」
だよ。
本当にアーティストっていうのは、面倒で厄介でめちゃくちゃで、どうしようもなく愛おしい生き物だ。
いや、ユキだからかな? ……ユキだからだな。
もっと言って、なんて、子供みたいな要求。多分バンさんだったらいい加減にしろって頭を叩いたりしたんだろうけど。
百瀬くんはユキが喋ってくれたのが嬉しくて嬉しくて、繰り返し「ご飯食べたいです。ユキさんと、一緒がいいんです!」って言ってた。それ以外のことも言いたかったんだけど、もう、必死だったから。
でもそういう、素直なところに、ユキは心を開いてくれたんだよね。
分かってる。ちゃんと。昔のオレに「心を寄せてみよう」と思う気持ちは、理解出来るよ。
だから、ユキに心の内をちっとも明かせない〝モモ〟は、相方失格。
次はそういうフェーズに入っちゃった。
まず黒髪に白メッシュ。大学生御用達の一着2,000円のプリントパーカーを卒業して、お高めのデニムジャケットに袖を通すようになった。パンツも動きやすさ重視から、スタイルを強調させる細身のものに切り替えて、サングラスひとつとっても、最終的にはお気に入りブランドで二十万払ったり。
もう、百瀬くんとは似ても似つかない、モモになっちゃった。
それはオレが望んでやってきたことで、オレだから出来たことでもある。後悔はない。
けれど、ユキに明かせないことが増えるにつれ、笑顔はそこそこ嘘っぽくなっていったと思う。ユキの不機嫌を治すこともオレの仕事のうち、みたいに思ってて、たまんなかったな。
オレがこう動けばユキはこうする。ユキのことは理解出来ないけれど、把握はしたつもりになっていた。ずっと。行動パターンを読み取って、疲れている時には癒やして、楽しそうな時には付き合って。
大好きという風に微笑まれた時だけ、同じようには返せずに。
結果、ユキが思い通りに動いてくれないと腹を立てるようになった。当然口論に繋がって、喧嘩が長引いたことだって数え切れないほどあった。
ユキを守りたいからユキの意見を尊重出来ないこともあるんだよ。なんでそれを分かってくれないの、って喚いて。
分からなくって当たり前だろって、今なら思うよ。
オレが五年を境にユキの前から消えようとしていたことを知った時、ユキは本気で怒っていた。不機嫌なんか通り超して、本当だったら逃げ出したいくらいの緊張感。ピリピリと肌が焼かれて、汗がにじむ。
「お前の覚悟なんてそんなもんだったのか? お前を好きになったファンのことを考えもしないで……いや、違うな。今はそういうことを言いたいわけじゃない。これは僕と、モモの話だから」
オレは黙って言葉の続きを待つ。あのユキが、オレの為に言葉を尽くそうとしてくれている事実に仄暗い歓びを感じていた。ユキ、四文字以上喋ってくれてありがとね。絶対このタイミングじゃないでしょって時に、そんなこと思ったりする。これも、オレが変わった証拠。
聞きたくて、聞きたくなくて、寂しくて、嬉しい。それはユキに対してずっと抱え続けている想いだった。
「Re:valeを辞める、万を見つけて僕の前から消えるってことは」
はあ、と一度大きなため息。
「僕を諦めるってことだろ。……僕を諦められるってことだろ?」
あんなに「傍にいる」って、言った癖に。
オレは流石に呆気にとられて、思わず「違うよ」と口走る。
「違うよ。……オレは、ユキのこと諦められなかったからこの五年走ってきた。ユキがいるRe:valeを諦められなったから、こんな姿になってまで一緒にやってきたんじゃん」
「こんな姿、って」
「ユキは言ったよね。バンさんと作ったRe:valeを、この世からなくしたくなかったって。オレだってそうだった。オレは何にも持たない一般人で……ただのファンで。それでも、無理矢理身繕いして、必死に笑って立ってたんだよ」
ユキはオレの為に、声を荒げてくれた。オレをゼロ以上のシンガーだと言ってくれた。バンさんは、俺たちが本物のRe:valeだと言ってくれた。
声は戻り、ユキと二人でRe:valeとしてやっていくって、決めた。
でも、ユキの前から消えようとしていた事実は変わらないし、オレについた無数の傷は、完治することはない。薬を塗るつもりも、整形手術をするつもりもなかった。
それでよかった。それがよかったんだよ。
だってこれは、ユキのお陰でついた傷だ。例えるならば勲章で、オレが生きた証だ。それが貰えただけで、一人で生きることが出来るって思った。本気で。
この傷はユキにすら触れられない、オレだけのものだった。
でもその事実が、ユキを無遠慮に、ひどく傷つけることだったっていうのも。
今なら分かるよ。
なんて昔話を、物凄く掻い摘んで物凄く端折って聞かせてあげた。故にオレの心の内は殆ど明かされないまま、謎は深まりましたという顔をするのがユキだ。そりゃそう。オレだって、オレの端折り方で聞いたら意味不明だと思うもん。
新曲のタイアップがそこそこダークテイストの恋愛劇だから、モモの僕に対する愛憎悲喜こもごもを聞かせてよ。なんて気軽に言われた。その気軽さにレベルを合わせただけなんだけどな。
「モモって本当に複雑」
「え、喧嘩する? 今から?」
「君が望むなら、って言いたいところだけど」
今日はもう疲れてるから寝かせて。と、ユキがオレの膝の上に頭を落っことしてきたので、自然な流れで受け止めて頭を撫でた。お父さん、寝るならベッドで。
「カンヅメ仕事を終えた僕に一言どうぞ」
「ユキは世界一イケメンで圧倒的才能の持ち主で作る曲は全部パーフェクトだよっ」
モモも口がうまくなったもんだよね、なんて、いつかと比較するみたいに言って笑った。
「もっと言って」
あの頃のユキの言葉に、ぴったりと重なる。多分わざとだろう。疲れが勝って、不安になってるのかな。
そうだね。ユキは最初から、オレの言葉を求めてくれてたんだよね。大丈夫だよ。
そういうの、全部。