引っ越し作業があらかた終わったのは、結局引越し予定日の前日だった。
 芸能人御用達の業者に頼んで、自然発生したゴミの類も全て処分してもらった。大仰に感じられもするが、外に捨てたら悪質なファンに持ち去られるのは重々承知していた。
 そういう存在に、百も、千も、なったのだ。
 アイドルになった。
 それも〝人気〟アイドルに。

 ガランとした部屋を眺めて、二人はほう、と息を吐いた。千の持ち物はそこまで多くなく、それに比べて百の荷物は千の三倍はあった。
「もう一生終わんないかと思ったよ!」
「やってくれたの殆ど業者の人だけどね」
「それねー?」
 にゃははと声をあげて笑う百は、今も昔も変わらず可愛かった。はじめの頃のあどけない微笑みは鳴りを潜めてしまったけれど、今の百は百で、あざとさ含めてずっと可愛い。
 本人はそれを聞いたら、顔を顰めるかもしれなかった。百は千に可愛がられることが好きなくせ、昔との比較に敏感だ。全部可愛いよと言ったって、全然違う、とか、流石に昔の方が可愛いでしょ、とか、今の自分を妙に否定するから不思議だ。
 お前は僕を、今も昔もイケメンと言って憚らないのにね。
 なんて言ったら喧嘩になる。千は重々承知しているので、今日は黙っておくことにした。
 この場所で過ごす夜は、今日で最後になるから。
 最後にユキの手料理が食べたいな。と、百が言い出した時は、何を今生の別れみたいにと驚いた。でも、分からないでもない。この部屋には思い出が有りすぎて、引っ越しによってひとつ区切りがついてしまうことは間違いなかったから。
 全く曲が出来上がらずに生きた死体そのものだった時。一心不乱に曲を作り続けていた時。先端恐怖症を克服するために、百の耳にピアスを空けた時。全部がこの八畳間での思い出で、辛いこともあったはずなのに、最後には百の笑顔で上書きされていた。
 良いことばかりじゃなかったけど、全てが今の千を構成する、大切な一片となっている。
 万の部屋で胡乱げに蹲っていた頃とは違う、前向きな苦しみがそこにはあった。
「よし、じゃあ作ろうかな」
「やった! オレも手伝っちゃうよ!」
「じゃあモモはそこで僕の応援してて」
「え? それ手伝いになってる?」
「なってるなってる」
 そうかなあ、とちょっと不満げな百も、千が料理を始めたらすぐに表情を明るくさせた。千の料理姿を見るのが好きなのだと、百は言う。最近は互いに忙しくしていたし、特に百は夜の予定が詰まっている男だ。手料理なんて殆ど作らなくなっていたから、千もどこか浮かれていた。料理姿を見たいなら、早く帰ってくればいい。そんなことを言って喧嘩していた日々が懐かしかった。
 いつか、全てを懐かしむ時が来るのだろうか。

 百の応援の甲斐もあって、滞りなく料理は仕上がった。冷蔵庫も引き払っているから、残さず全て食べ切る必要がある。当たり前に互いの好物だけを作って、廃棄予定のローテーブルの上に乗せた。
「さいっこう! 天才だよユキ〜! 写真撮ってラビッターに載せちゃう♡」
「イケメンに撮ってね」
「いや、ユキじゃなくて料理のことだから!? でもユキも一緒に撮っちゃう!」
 パシャパシャと楽しそうにカメラのシャッターを切る百に微笑んでいると、「なにその顔イケメンすぎる……!」と即座に撮られてしまう。今のはむしろ油断していた顔なので、あんまりイケメンじゃないような気もするけど。
「……」
 百が突然動きを止め、スマホの画面をじっと見つめる。
「ああ、写っちゃいけないもの写った? 久々だね」
「……そういうんじゃないけど……」
「じゃあなに?」
「……ユキのこの顔は、ファンの子には見せられないな〜……と思って、そんな自分の心の狭さに落ち込んでました」
「また急だな」
 この数秒で? と笑ってしまうと、百が「笑いごとじゃないのに!」と怒る。顔を赤くして抗議する姿にもっとおかしくなってしまって、我慢は続かず声を上げて笑った。
 百の感情のジェットコースターぶりは、千のユーモアセンスに結構な頻度で引っかかるのだ。百はそれを喜ぶこともあれば良しとしないこともあって――でも、きっと笑って済ませてあげるべきことは、沢山ある。
 考えすぎるなよ。したいようにすればいい。モモが僕にしたいこと、全部してもらったって構わないんだから。
 ぷんぷん怒り続ける百を宥めて、冷める前に食べよう、と料理に手をつけ始める。唐揚げを一口頬張った百は一瞬で機嫌を直して、なんなら「ユキと結婚する!」と言い始めたので、今度はもっと盛大に笑った。

 久々に二人でお風呂でも入る? という提案は却下されてしまったものの、お互いの髪を乾かすことには許可が出た。殆ど同じようなことじゃない、と聞けば、全然違う! と怒られて、今日の百はよく怒るなあと不思議に思う。センシティブになっているのだろうか?
 千の髪を、これもまた廃棄予定のドライヤーで乾かしながら、百が不安げに、しかし軽い口調で呟く。
「オレ、明日から大丈夫かなあ」
「うん? どうして」
「だってこれからは、帰ってすぐユキの超キュートで超イケメンな寝顔が見れないんだよ……。一日の疲れが吹っ飛ぶ魔法だったのになあ」
「ふふ。そしたら僕が毎日写真を送ってあげる」
「ありがとうダーリン♡ でも寝顔は撮れないじゃん!!」
「それもそうね」
 だったらなんで、次の引越し先を同じ家にしなかったんだ?
 と、訊いたところではぐらかされるのだろうと思った。そもそも、千が何度かした提案を、百は様々な理由をつけて断ったのだ。
 もう大人なんだし、俺たちにもプライベートはあるし、もしかしたら女の子連れ込むかもしれないじゃん、ユキにだってきっと恋人が出来る、それにオレも一人の時間が欲しいし――。
 どれも真実味に欠ける言い方で、だからこそ相当苦しい言い訳なのだろうことが分かった。普段の百なら、もっとうまくやる。だからこそ、百の中にもかなりの逡巡があることを理解し、その想いを尊重した。
 寝顔なんて、毎日でも一生でも、見せてあげるのにな。
 なんて言ったら困らせてしまう。から、言わない。
「はい、終わり〜」
「ありがとう」
 長い長いドライヤーの時間が終わって、あとは寝るだけ。そこそこ酒盛りをしてしまったものの、これ以上の深追いは明日の仕事に響くと二人で自制しあった。
 部屋の電気を消し、いつものように並べた布団に寝そべる。カーテンを取り払ってしまった窓から、月明かりが差し込んで少しだけ明るかった。相手の顔が、かろうじて見える程度。
 自然と、百の方に体を向ける。百は仰向けで、千の視線に気づきながらも視線を合わせようとはしなかった。
「……こうやって、隣で寝るのも最後だね」
「ここではね。やろうと思えばいつでも出来るよ」
「そうかな。……そうなのかな?」
「……モモ?」
 どうにも歯切れの悪い返事に、少し不安になる。モモが何を考えているかは、実のところ殆ど分からない。分からないなりに、理解しようとはするけど、どう分からないかを伝える術が自分にないせいで、百に直接訊くことは難しかった。
 だから今も、名前を呼ぶことしか出来ない。
「モモ。どうしたの。……こっちに来る?」
 なんて、普段の百だったら冗談でしょと笑い飛ばすような台詞だ。
 しかし百は、ゆらゆらと瞳を揺らして、千を見た。
「……ん」
 のそりと動いて、千の掛け布団を持ち上げ入ってくる。言い出したのは自分なのに、百の行動にひどく驚いてしまった。目を見開いて、声をかける。
「モモ?」
「……ユキは、寂しくないの」
「寂しいよ。引っ越しが決まってから、ずっと寂しい。……やっぱり一緒に住む?」
「住まない。オレの気も知らないで」
「そうね」
 知らない。分からない。そっくりそのまま返してあげたい。しかし、百ですら百自身の感情を持て余しているように思えて、その不器用さに愛しさが込み上げた。

 ――愛してるよ。
 と、今言ったら。君は泣くかな。


前夜