その日はとても気分がよかった。

 毎日毎日、電気もつかない薄暗い部屋で、横になっているばかりだったのに。その日は本当に、気分がよかった。目が覚めた瞬間から理解していた。
 生命活動を上手に終わらせることが出来ないせいで仕方なく動いている心臓が、今日はちょっとだけ活発だ。千はむくりと起き上がった。
 起きたい、と思えたことがまず凄いし、起きられたことも相当凄い。びっくりして、は、と短く息を吐いた。吸って、吐く。深呼吸する。「深呼吸をしよう」と思って、「出来て」いる。凄い。
 床を這いずって冷蔵庫まで水を取りに行く、それだけで昨日は三時間かかったのに。
 ゆっくりと膝を立てて、締め切った遮光カーテンに両指をかける。シーツ以外の布の感触が久々でちょっと怖くなる。こんなに分厚いものだったっけ。布って、厚いものもあるんだったっけ。
 シャッと、カーテンがレールを走る音。誤魔化しのない陽射しが部屋を一気に明るくして、くらりと目眩を起こした。体の芯がブレて、あ、と思ったときにはチェストに体をぶつけていた。ゴンッ、と鈍い音がして、数秒してから右半身の痛みを認める。
 ゆっくりだけど、感覚はあった。痛いと思える。
 なら、大丈夫だ。
 今日は大丈夫な日だ。

 勝手に登録されていた連絡先を、適当にタップして電話をかける。わずかワンコールで出た女の名前は知らなかった。顔も。けれど電話越しの女は感極まった声をあげて、今すぐ行くね、と言って切ろうとしたから慌てて引き止めた。
「僕が行く」
 外に出なければ、と思えたから。
 身支度をすること自体相当久々で、コートを着てみてもこれであってるのか分からない。とんちんかんな格好になっていないだろうかと、そんなことを気にする余裕があることが喜ばしかった。
 そのくせ、鏡で見た自分の顔は思ったよりも明るくなかった。こんなにも気分は晴れやかなのに、陰惨な表情がこびりついてしまっている。どこかよそよそしく視線をうろつかせて、自分の居場所などどこにもないと主張しているような。
 心臓部分に大きな穴が空いているのが見える。ぽっかりまんまるというよりは、いびつにえぐり取られたような形。血が流れていないのが不思議なくらいだ。
 自分で自分を見つめることすら出来ないのが、少しおかしかった。

 女の家の場所は全く覚えていなかったので、最寄り駅に迎えに来てもらった。女の顔にはやはり見覚えがなく、しかし過去に二・三度遊んだことがあるようだった。痩せたね、でもガリガリの男の人大好き、道すがら女はそんなことを言っていたと思う。
 女の家には、錠剤が大量に詰まった小瓶がそこかしこに転がっていた。ピンク、青、白、毒々しい色をしたカプセル。新品もあれば、既に半分以上減っているものもある。
「これって」「睡眠薬とかいろいろ」「眠れないの?」「いっぱい飲むと楽しくなるってだけ」「へえ」「気になる?」「そうね」「そんなことよりこっち見て」
 千の首に細い腕が絡む。人肌に触れ合うのが久々すぎて、込み上げる吐き気をなんとか呑み込んだ。

 今、コートのポケットには小瓶が眠っている。たくさん落ちていたから、ひとつぐらいなくなっても気づかないだろう。指先に冷たい瓶の感触があって愉快だ。
 どうにも機嫌がよすぎて、ちょっとだけ遠回りして帰ることにする。鼻歌でも歌いたい気分だった。聞かせる相手が傍に居ない、それだけが残念。
 長い階段をのぼり、陸橋を渡る。下方を走る車に向かって大声で話しかけたら、きっと誰かが車を止めて、返事をしてくれるだろう。そんな気がしてならない。
 結局、声は出なかった。大声なんて尚更。
 帰宅途中、100円ショップに立ち寄って、小さなすり鉢のセットを買った。
 料理をする気は更々ない。

 じゃらじゃらとピンク色の錠剤を全てすり鉢にあけて、それからごりごりとすりこぎ棒で潰していく。本当は包丁である程度細かくしてからの方がやりやすいとネットには書いてあったが、包丁は触れないので、気合いで潰していった。
 いつの間にか夕暮れ時だった。
 昼間に感じたやわらかな光とはまた別の、ノスタルジックで憂いを帯びた橙色が部屋中を照らしている。曲を書くことにしか使われなかったローテーブルの上で、千は一心不乱に錠剤を粉末に変えていく。
 いっぱい飲むと、楽しくなる。
 その言葉を信じていた。
 あのライブの日から先、万を失ってから今まで、楽しいことなんてひとつもなかった。今日だって、調子も機嫌もよかったのに、楽しいことは起こらなかった。女を抱こうとしたにも関わらず、全ての機能がオフになってしまって、結局それも叶わなかった。
 それでも女は不機嫌を隠すように笑顔を貼り付けて「また来てね」と言う。
「もう二度と来ない」と返した。
 もう誰とも会わない。これで終わりだから。

 やっと全部を粉末に出来た。錠剤の時よりピンク色が薄くなっただろうか。かなりの重労働に、手が震えている。全身汗にまみれて、気持ち悪い。あとはここに少しだけ水を足して、噎せないように軽く固めて、体に全部入れたら完成。
 調子がいい日というのは、凄いな。と関心しながら、ひとまずシャワーを浴びることに決める。
 ゆらゆらと立ち上がり、チェストに手をかける。着替え、何が良いかな、なんでもいいか。あとは楽しくなるだけだし。だとしたら楽しげな服? ここは万の家なので、万の服を着てしまっていいかもしれない。あいつは、たまに派手な柄のシャツを着たりして、僕を笑わせていたし。
 開けようとして、ふと、自分が何かを踏みつけていることに気づいた。かさ、と乾いた音がして、ゆるゆるとしゃがみ込む。
 手紙だった。家を出る前に、チェストに体をぶつけた。その時に、上に乗っけていたものが落ちたらしい。読み返しすぎて、便箋の角がくたびれている。
 ああ、これ、モモくんの字だ。
 百が初めてRe:vale宛に送ってくれた手紙は、本当は千が自分のものにする予定だった。しかし「俺宛でもあるだろ」と万の家に置かされていたのだ。千も住み着いているようなものだったから、渋々了承していたのだ。
 久々に読みたくなって、封を開ける。

 ――Re:valeのライブは人生を変えてくれました。ダメになりそうだった俺を救ってくれた歌でした。世界一のメロディを聴かせてくれて、有難うございます。一生好きです。一生、応援しています。――

 本当はもう、諳んじることも出来るのだ。緊張で何度も書き直したのだろう、下書きのあとは消えきっていなくて、愛おしさが溢れて指でそっと触れる。
 それから、呼気が浅くなる。全身が痺れて、倒れるように床に転がった。自分の意思とは関係なく涙が溢れ、喉がひくひくと引き攣るように嗚咽が漏れた。
 万も僕、互いが泣いても決して涙を拭うことはしなかった。
 してやればよかった。してやれたらよかった。思い出すだけで後悔が募って、美しいはずの記憶も泥をかぶってもう見えない。
 楽になりたい。こんな手紙、読むべきじゃなかった。分かっていたはずだ。引き止められてしまうこと、知っていたはずだろ。
 体中に漲っていた全能感が消えていく。しがない現実に引き戻される。
 君の期待に応えられない僕に成り下がる。
 ああ、せっかく楽になれると思ったのに。
 体が鉛のように重くなり、二度と動けないまま、千は静かに眠りについた。
 近い未来、その体を力づくで起こす人間が現れるとも知らず。

 *

 食器棚を眺めていた百が、何かを見つけたらしい。
「あれ、ユキさん。これってゴマすり機? ですか?」
「……ああ、それね。捨てていいよ」
「え、もったいないですよ」
「もう使わないから」
 そうなんですか? と百が不思議そうな顔をする。
 なんなら曰く付きのそれを、百の手からするりと奪い取って、ゴミ箱に投げた。スムーズすぎる千の動きに、百はぽかんとしているだけだ。なんだかちょっと間が抜けていて、可愛い。

 うん。もう使わない。君を幸せにするために生きてみようと思うから。
 笑顔を向けると、つられたように笑ってくれた。


永いお別れ、その手前