つい最近まで春原百瀬だった百は、畳の部屋がすぐ湿っぽく、埃っぽくなることを知らなかった。
千が時代劇のエキストラで外出している間に、そいつらをやっつけてしまおうと、箒と雑巾を手にせっせと掃除を開始した。
十二月も中盤に差し掛かった冬、開け放たれた窓からは冷たい風が吹き込んでいる。
殆ど日課になっている朝一の新聞配達を終え、そのままファミレスでランチタイムだけ給仕に入り、帰宅したのはちょっと前。千は恐らく十九時頃には帰ってくるから、二時間掃除して、一時間ちょっと仮眠を取って、それから出迎えることに決めた。
どれだけ明るく振る舞ってみせても、まだまだ千の前では緊張している自分がいる。千にそれを悟らせないように繕っている自分が嫌で、だからどれだけ短い間だろうと二人で喋る時間を作りたかった。
早く慣れたいとか、そういうことを考えているのではなくて。
ただ、コントロール出来るようになりたかった。
千に向ける感情の、全てを。
まずはキッチン付近の板間を雑巾がけして、それが終わったら冷蔵庫の中身を整理。食材は買い溜めて一気に調理、フリーザーパックに入れて冷凍が基本なのだと千は言う。料理がからっきしの百は、言われるまま「凄いです! イケメンです!」と鳴くことしか出来なかった。
故に買い出しは千の担当で、ベジタリアンな千が選んだ野菜は彩りも綺麗で目に楽しかった。
けれど包丁を握れなくなってしまった千は、料理することが出来ない体になっていた。ショックを受ける千を見ていられず、思わず百は「自分に料理をさせてほしい、やり方を教えてくれ」と頼み込んだ。しかし、千は断固として拒否する。怪我でもしたらどうするの。
だから時折、足の早い野菜は腐らせてしまう。野菜庫の中で手をつけられずに死んでしまった野菜は数しれず、百が全部食べられればよかったが、朝から晩まで働いているとなかなかそれも難しかった。
その事実はきっと、千の精神を苛むに違いなかった。そんなことが起こらないように、こうして定期的に冷蔵庫を覗き、傷んでいるものは内緒で処分している。
「ごめんなさい! オレが食べちゃいました」と、誤魔化して。千は怒ることもせず、むしろどこかほっとした表情で「いいんだよ」と言った。百が痩せていることに、気づいているようだったから。
こんなことしか出来ないのが、もどかしくて、情けなかった。
野菜を綺麗に盛り付ける術も知らない。知ったところでやらせてももらえない。千に嫌われたくないという思いが強すぎて、強行突破も出来ない役立たずだ。
――……なろうと思えばいくらでもなれるのがマイナス思考だな。
ふるふると頭を振って、ネガティブな感情には蓋をする。まずは掃除をしよう。没頭してしまえば、時間はあっという間に過ぎる。
早く仕事から帰ってきた千を出迎えて、今日はどうでしたか、と訊きたかった。
一時間は経っただろうか。
水回りの処理も終わらせて、残すは居間だけとなった。八畳間にデスクが一つとスチールラック、あとは小さなローテーブル。衣類は押入れの中にしまっているから、部屋自体に物は殆どない。こうやって改めて見渡すと、どこかガランとして見え、ふと寂しくなる。
二人でいる時は、そんなこと全く思わないのにな。やっぱりユキさんって偉大だ。当たり前だけど。
千の物しか置かれていないラックは、あまり見てはいけない気がしてずっと触れないでいた。しかし今日は違う。楽器類以外の扱いがかなり雑な千には、この積もりに積もった埃が見えていないようなのだ。百はずっと気になり続けていて、流石に手をつけるしかないと判断した。
「ユキさんごめんなさい。中は絶対見ないので。せめて埃、拭かせてください……」
事前に断っておけばよかったのだけれど、掃除をしようと思い立ったのが今朝方だったせいで聞き損ねてしまった。ただでさえ朝が弱い千を午前三時半に起ことは殆ど拷問だろうから。
そろそろと手を伸ばして、明らかに埃をかぶっているところだけ拭き取る、それだけに徹した。
スピーカーに時計、アルバム、音楽関係の本、――万が千の為に作った、名刺のファイル。どれも、千にとってあまりに大切なものだった。扱いが雑なだけで、要らないものなわけもない。
それらを、すぐ手に取れる場所に置いている。その事実に胸がきゅう、と締め付けられた。それからチクチクと痛んで、もはやこの痛みがなんなのか、百にも分からなかった。大切なものを、当たり前に大切にする人だ。それはとても素敵で、素晴らしいことなのに。
ふう、と息を吐く。
気を取り直して、重みのあるアルバムを持ち上げた。これは以前「万との活動記録だよ」と千さんが教えてくれたものだった。「まだちょっと見れないけどね」と寂しそうに目を伏せる千さんが綺麗すぎて、よく覚えている。
埃を乾布巾で取り除いていると、裏表紙にくっついていたらしい封書が、はらりと床に落ちた。全然気づかなかった、と慌てて手に取る。これって挟んでおけばいいのだろうか、と拾い上げた封書に目をやる。
そこには【遺書】と書かれていた。
「…………は、」
しばらく、呼吸も忘れて立ち尽くしていた。
震える手でアルバムを元の場所に置き、今度こそ封書を凝視する。遺書。
(ユキさんの遺書だ)
毛筆で書かれた字。それは確かに、千の字だった。見間違えるはずもない。
十中八九、万が失踪した際に書いたものなのだろう。それをわざわざ、千と百、二人の住処にまで持ってきている。
オレが傍にいるのに。
遺書なんて大事にしてたの。ユキさん。
親指で、こするように文字をなぞってみた。迷いのない文字。本気で死を覚悟した人は、ここまで正しい字を書けるのかと、ぶるり体が震える。ショックだった。寂しくて、悲しかった。
しかし何よりこの瞬間、ただただ万が羨ましかった。
大神万理という人が。折笠千斗という人の全てだったあの人が、羨ましくて仕方がなかった。
だって音楽に縋るしかないはずの千を死に至らしめるのは、この世に万しかいないのだ。
そこに春原百瀬が入る余地は、どこにもなかった。思い出は塗り替えられない。決して超えられない。運命が変えられないように、千の一番はいつだって万なのだ。
当たり前を目の当たりにして、それで覚えるのが嫉妬心なのは、あんまりだと思った。
あんまりだ。オレはバンさんだって大好きなのに。
なんで。
その日の夜、オレはちゃんとユキさんを迎えられただろうか。
上機嫌に「新曲のフレーズが出来たよ」と教えてくれる千は誰よりも優しく、ギターを鳴らす指先が愛しく思えた。
こんな自分との曲を諦めずにいてくれることが嬉しかった。
静かに紡がれる歌声で、胸がいっぱいになった。
誰よりも最初に、この声を聞けるのが自分であることが、未だに信じられなかった。
だってこんなの、オレばっかり嬉しい。
涙が止まらなかった。
言わないようにしていた「ごめんなさい」が口をついて、きっと困らせている。
回される腕があたたかくて、「一緒で嬉しい」の言葉にすら、泣き喚いてうまく返せなかった。
千はいつも本当のことを言う。裏表なく、まっすぐに言葉を伝えてくれる。
本当は、どうしてって言いたかった。
死なないでって言いたかった。
バンさんの隣で歌って。
でもオレの隣でも歌ってて。
死んじゃやだよ。絶対にいなくならないで。
結局オレは、あなたの遺書を捨てることも、突き出すことも出来ないでいる。
いつか、いつかあなたの目の前で、破り捨てることが出来たら。