「どうしよう」
――あまりにも唐突で、ちょっと冗談かと思ったのだ。
久々に被った――おかりんが調整してくれた――ユキとのオフ。二人で一日だらだら過ごそうよという提案に、二つ返事で乗っかった。鳴り止むことを知らないラビチャの着信は今日だけ非通知に。
ユキの家はいつも通り清潔で生活感が薄く、オレが持ち込んだまま置きっぱなしの漫画やゲームだけが、妙な俗っぽさを放っていた。
じわじわと、ユキのパーソナルスペースを侵食している感覚が心地良い。けれどやり過ぎないように注意が必要だった。
溜まり過ぎたと思ったら自主的に持ち帰って、しばらくしたらまた持ち込む。それの繰り返しだ。ちょっとした場所取りゲームは、結果的にいつも通りひとり相撲だった。
だってそれで全然、構わないのだ。鬱陶しいと思われたくないけど、独占欲も満たしたい。そういう我儘な欲求を一人で晴らしている。
夜になって、ユキに気合の入った手料理を振る舞われた。大喜びで肉や魚を口に運び、おいしいおいしいユキ天才さすが超イケメン! と大騒ぎする。全部本心だから、余すことなく伝えておきたかった。
ユキもいつものように「知ってる」と嘯いて、エシャロットやらヤングコーンやらお洒落な野菜を口に運んでは咀嚼する。野菜を食べるユキも最高にイケメンだ。少し伏せた睫毛が影を落として、その全てが綺麗ったらない。
世界で一番好きな人と食卓を囲み、正面から食事風景を見られるなんて、ファン冥利にも相方冥利にも尽きる。
超ハッピーだと頬を緩ませていると、本当に、なんの前触れもなくユキが言った。
「どうしよう」
「うん?」
あんまり噛まないまま肉を呑み込んでしまって、食道を肉のかたまりが降りていくのが分かった。いてて、と顔をしかめつつ水で流し込んで、ふう。と一息。
その間にユキは一言も喋らなかった。
だから、なんの冗談が始まるのかなとか。
思ったのだ。愚かにも。
「で、なんて?」
「…………僕は音楽が大事なんだけど」
「おおっ? 凄いよユキ! モモちゃんその先の言葉の見当がまったくつきません!」
「モモも大事だ」
わあ。
おどけた空気が一瞬で散り散りになってしまって、手に持っていたフォークとナイフを静かに置いた。カチャン、と食器が重なる音を、先を促す合図とする。本当は手を差し出して「続けて?」と冗談めかしたかったけれど、それもなんだか許されないような空気だったから。
ユキと言えば、手のひらをテーブルに鎮座させて、ピクリとも動かない。雪のように真っ白な肌からは、いっそう血の気がなくなっていた。流石に心配になってくる。
けれど、続きを待つしかなかった。
こういう時、話を遮られることをユキは嫌うから。
「今、口にしたズッキーニが凄く苦くて、死ぬかと思ったんだよ」
「あ、ズッキーニも入ってたんだ! それすらイケメン! うんうん」
「でね。これが毒だったら、僕は死んでただろ」
「ええ? 怖いこと言わないでよ。……うん」
「死ぬのがモモだったらどうしようって思った」
「……うーん」
まるで連想ゲームだ。今のユキはちょっとセンシティブを極めているようで、この話はもしかするとここで終わらせてしまった方がいいのかもしれない。夏だけど、あったかくして寝ましょうね、とあやしてしまおうか、とも。
けれど。ユキの口はよどみなく動く。
「モモが死んだら、僕はもう二度と動けないと思う。だから一緒に死……」
「それはめちゃくちゃ困る! からモモちゃんは絶対死にません。ご安心を!」
「でも分からないじゃないか。分からない、誰も、何も」
「まあ、そうなんだけどぉ〜〜……」
自分の眉がハの字になっているのが分かる。実のところ、自分が死んでしまったら、という想像は幾度となくしてきた。その場合のユキの未来も。
ユキはでも、きっと、また別のオレが現れて助けるだろう。
自分ではない誰か。それは事務所の人間かもしれないし、今度こそバンさんかもしれない。あるいは、あるいは……。
でもオレが居なくたって、ユキは生きてしまうんだよ。生きざるを得ないんだよ。
ユキにとってそれがどれだけ残酷な言葉か、オレは理解している。だから決して、口にはしなかった。
「……さっきの続きだけど」
ぽつ、ぽつ、と、蛇口に残った水滴が落ちるような緩やかさで、ユキの言葉が紡がれる。その音の、あんまり繊細な響き方に、オレも耳を傾けざるを得ない。綺麗な声。
死刑宣告を受けたかのような脈打ち方を、心臓がしてる。
「僕は、モモが死んだら、もうダメだと思う。一緒に死にたいとすら思う」
「……うん」
「でも、……でもね」
「うん」
すう、と息を吸って、吐く。大事なことを言う前にユキがする癖だった。
「結局死ねない。僕は、音楽を取るんだって、それだけは分かっちゃったんだ」
「……」
「……ねえ、どうしよう。モモ」
ぁ、と。
声が漏れたことに気づいて手のひらで口を塞いだ。同時に、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。びっくりして瞬きすると、今度は勢いよくテーブルに滲みが出来て、ひどく動揺した。自分の体じゃないみたいだ。
息が詰まる。
内臓がひしゃげたような痛みが走る。
「モモ」
ユキにとって一番残酷な言葉を、ユキが言った。ユキが、オレに言った。突きつけた。全部詳らかにして、それはユキがちゃんとオレを好きだからだ。
不器用な彼が、正しく、今思ったことを伝えたいと思ってくれたからだ。
でもそれは、せめてオレが死ぬまでは聞きたくなかった言葉だった。
だってずっと知っていた。そのこと、出会った頃からずっと。
「ねえ、モモ」
泣いてるの、も、泣かないで、も言わない。ただ縋るように名前を呼ぶだけのユキは、とても弱々しく見える。自分で結論づけたくせ、最も困惑しているのはユキ自身らしい。
きっと今日は眠れぬ夜を過ごすだろう。
けれどその手を取って支えてあげられるのは、オレでも、ましてや周りの誰でもない。
音楽という形のないものでしか、真実、ユキは救われない。
それだけは知っていて欲しくて、それだけは言って欲しくなかった。
だってそんなの、本当にオレのひとり相撲じゃないか。
ユキのパーソナルスペースを欲しがって、出来なくて、でも存在は残したくて、ずっとずっとそれだけがやめられない。
いつか捨てられるのが怖くて、そうなる前に自分で片付けて、なのにもう一度汚して、その繰り返しだ。
だってそれで、全然構わなかったのだ。
ユキが、〝本当〟に気づきさえしなければ。
リビングには相手の息遣いひとつ聞こえない。
確かに、ユキの手料理で死ねたらそれが一番最高なのにと、今更妄想に縋りたくなる。
でもオレは死ねないのだ。
明日も、明後日も、ずたずたになった心臓で、かろうじて生きていく。
「どうしてなの、ユキ」
それだけは口にして、血が滲むほど唇を噛んだ。