だから声は、殺すしかなかった。


   *


 8月某日。
 赤ちゃん虎の世話をするロケに虎於一人が駆り出され、一気に5匹の子虎たちの世話を一日中させられるという重労働は、早朝4時からのスタートだったらしい。
 その日の17時、トウマ個人でのラジオ出演が終わったタイミングで、楽屋で待機していた宇都木に世間話のひとつとして聞いた。
「ああ、今日からだったんスね、あの番組のロケ」
「はい。すぐに狗丸さんの番が来ますよ。この調子だと犬15匹との散歩ロケ、絶対にあります」
「うぉお……。犬スゲェ好きだけど、流石に力で負けそう」
「全頭ハスキーだったらマズイですよね。番組サイドにも、出来る限りポメラニアンで、と掛け合っておきます」
 全頭ハスキーはマズイを超えて普通に事故では? と思いつつ、ナニトゾ! と頭を下げた。宇都木の冗談か本気か分からないテンションはいつものことで、慣れてくるとこれがかなり楽しい。宇都木なりのコミュニケーション術なのかどうかは不明だが、トウマはこのマネージャーにかなりの信頼を寄せていた。
 何より、虎於が希求したスタント撮影を、頭ごなしに否定せずしっかりと検討・打診してくれたことが大きかった。
思い出すだにありがたく、心の中でもう一度頭を下げた。
 いや何目線だよって。
 そりゃ、ŹOOĻのリーダー目線だよ。

 了の嫌がらせにより過去出演した特番が、見事月曜22時枠を勝ち取った。その準レギュラーにŹOOĻが抜擢されたと報せを受けたのは、約半年前のことだった。
 当時の四人のてんてこ舞いぶりが大変愉快で、何より現在の仕事への姿勢を評価してくれたプロデューサーから直々に声がかかった、らしい。
 特に御堂虎於がいいよね、とはプロデューサー談――とは、宇都木談。
 その言葉を受けて、トウマは「だろ」と誰に言うでもなく音にした。
 今の虎於は――ŹOOĻの全員がそうだが――どんな内容の仕事にも真摯に打ち込んでいる。以前のような高慢で横暴な態度は、番組で求められたらあえて出す程度だ。
 故に、ここ最近では【世間知らずでチャーミングなセレブ】が虎於の代名詞になりつつあった。
 抱かれたい男No.1の肩書きも間違いなく凄いことではある。が、トウマからすれば、今語られている方が「らしい」と思え、好ましかったりするのだ。
 誰もが見惚れる完全無欠の美貌を持っているくせに、手持ち花火ひとつ知らなかった男。
 となると類似ケースは多々あるわけで、それはテレビ的にも大変おいしい。あの顔で「焼きそばパンがなかなかイケる」と語るギャップにオチる人間は、続出して然るべきだった。
 それにトラって、実はめちゃくちゃ優しいし。
 顔から想像する百倍はかわいいし。
 寂しがりやですぐ人を試そうとするところは困ったもんだけど、なんだかそれすら愛おしく思えたりするし?
 故に、虎於が世間に正当に評価されるたび嬉しくて仕方ないのだ。
 な? ウチのトラ、スゲーだろ?
 ――リーダーとしては鼻高々である。


   *


 そんな虎於から『今日泊まる』のメッセージが入ったのは、トウマが眠る準備を完璧に整え終えた24時だった。
 慌ててベッドまわりを片付け、だるだるのスウェット姿で顔面蒼白の男を迎え入れる。
 可哀想に、虎於は疲労困憊の擬人化と見紛う疲弊ぶりだった。
 子虎5匹相手でこんなに疲れんだったら、犬15匹は一体……? と、背中に冷や汗が滲みつつ、いやいや、そんなことよりトラだトラ。とかぶりを振る。それからひとまず、様子窺いに虎於の顔を覗き込んだ。
 目元は限界まで眠たげに溶けていて、眉間には深いシワが刻まれている――にも拘わらず、双眸からチラリと覗く薄紅が異様に綺麗で息を呑んだ。
 いつまで経ってもどこまでいっても、この男の美貌に慣れない。初対面からそうなので、多分一生慣れることはないのだと思う。
 見惚れたのを誤魔化すように、わざと「動けるか?」と声をかけ、しゃがみこんで靴を脱がせた。
 フローリングの廊下に乗り上げさせると、巨体がよろめいたので慌てて立ち上がり受け止める。
 嗅ぎ慣れた虎於の匂いがどこか薄く感じるのは、ロケ終わりに軽くでもシャワーを浴びたからだろう。
「……疲れた。褒めてくれ」
「おーおー、お疲れさん。今日も頑張ってえらいな〜!」
 丸まった背中を、形の良い頭を、ぽんぽんと撫でて労る。それを何かの合図とするように、虎於の顔がトウマの首筋に埋められて少し、そわついた。
 できるだけ不事前にならないよう体を離し、目を逸して声をかける。
「こんなところでチンタラしてたら朝になっちまうって。風呂入るんだろ?」
「……入る」
「ん。ほら、行くぞ。手ぇ出せ」
 差し出された右手を取り、浴室まで連れて行く。
 年の離れた弟を持った気分だ。しかしこうでもしなければ、廊下で寝始めそうでいけない。だから仕方なくやっている。
 そういう態度を、虎於にちゃんと示すために。


 虎於が泊まる日は、事前にシャワーを浴びていようがいまいが湯船に浸かるのが常だった。
 勝手に置いていかれた、恐ろしく高級そうなヒノキのバスエッセンスを湯に溶かしているので、脱衣所含め旅館みたいな香りになるのがちょっと愉快だ。
 一人の時にも勝手に使っていいと言われているが、とても無理な話だった。トウマのような庶民からすると、バスエッセンス一滴の金額すら気になって落ち着いて浸かれない。癒やしを求めて風呂に入るのに、それでは本末転倒もいいところである。
 でもなあ、アレに浸かるとマージで肌スベッスベになんだよなあ……。
 絶大な人気を誇るアイドルグループに所属している自覚は、トウマにも当たり前にある。テレビでどれだけアップになっても堪えうるよう、肌のメンテナンスが欠かせないことも分かっていた。
 だからといって、虎於レベルのケアは不可能だ。元々造詣自体美しい男だが、メンテナンスには月300万以上かけるのが当然という価値観の男。
 それに比べれば、トウマが化粧水を少し良い物に変えてみたところで露ほども意味は感じられないのだった。
 美形担当はトラ、ミステリアス担当はミナ、愛らしさ担当はハル。
 ――俺はバラエティ担当ってことで。
 と、勝手に折り合いという名の言い訳で誤魔化している。虎於に聞かれたら苦言を呈されるに決まっているから、口にはしないけれど。
 
 風呂から上がり、もたつく虎於になんとかバスローブを着せ、髪を乾かし、浴室に案内した時と同じように手を引いてベッドに横たわらせる。
 次の瞬間には薄い瞼が閉じ、すうすうと寝息が聞こえた。これで一安心だ。
 普段キングサイズのベッドで寝ている男には窮屈だろうダブルベッドは、けれどギリギリ虎於の長い脚までおさめてくれている。薄手のタオルケットを、そっと肩までかけてやった。
 部屋の明かりを消し、代わりに間接照明を小さく点ける。トウマもベッドに乗り上げ、薄明かりのもと、あぐらをかいて膝に肘をついた。手に顎を乗せるようにして、ピカピカと発光する男を軽く見下ろす。
 今眠る気はさらさらなかった。
 トウマと同じシャンプーとコンディショナーを使っているにも拘わらず、虎於の髪は錦糸のように滑らかだ。一本一本チラチラと光っているように見え、思わず指先で掬う。すると、大男がくすぐったそうに身を捩ったので、喉元で笑った。
 こういう時、体躯はそのまま虎のくせに、猫のように見えるのだ。それも絶対に長毛種で、気位の高いつっけんどんな猫。飼い主にだけ存分に甘えるタイプの。
 しばらく髪の毛を掬ったり落としたりして遊んでいると、寝ぼけるような緩慢な動きで、虎於の腕がシーツに触れた。ぽん、ぽん、と何もない空間に手のひらが落ちる。
 あるべき場所にあるべき物が無いことに気づいた腕が、トウマの手首を探し当て、ぎゅっと握りしめた。
 あ、きた。と思う。
 引きずり込むような動きに、慣れた仕草で従う。タオルケットの海に潜り込み、背中を向けて横寝の姿勢をとった。
 すぐさま玄関での時と同じように肩口に顔を寄せられ――ぺろりと首筋を舐められた。
「ッ……」
 けれどトウマは、それを拒否するでもなく、声を荒げるわけもなく受け入れる。くすぐったさに身を捩りたくなるのすら我慢した。
 トウマが拒否しないことと、虎於の口元が悪さを続けることには確かな因果関係があった。
 ――だってもっと続けてほしくて、受け入れてる。
 虎於の舌が、トウマの首筋を舐める。味わう。やわく噛む。もう一度舐める。
 はあ、と熱っぽい息がかかる。
「ぅ、……ッ、……」
 舌のざらつき、歯の硬さ、ピチャピチャという卑猥な水音。触覚と聴覚をダイレクトに刺激されて、つま先に力がこもった。
 息を詰め、声を殺す。
 必死に声を抑えるのも、もう数えて五回目だ。


 ――疲労が限界まで蓄積した虎於の保護と介抱は、基本的にトウマの役目だった。
 トウマたっての希望でもあるため、巳波や悠、そして宇都木も「じゃあよろしく」というスタンスだ。
 立候補をした理由。くたくたの虎於は恐ろしく色気があって、メンバー相手以外だといつか事故るから。
 ――なんていうのはまったくの建前で、その姿を誰にも見せたくなかった、という、私利私欲まみれの行いでしかない。
 以前、二人で挑んだ過酷なロケ終わり、虎於が自宅まで辿り着けず「トウマの家に泊まる」と言い出したことがある。
 酷使された体がうまく動かないことに機嫌を悪くし、風呂の用意をしている間じゅう「疲れた」「もう一歩も動きたくない」「褒めろ」「癒やせ」と言われ続け、トウマはそれに応え続けた。
 風呂も一緒に入ったし、隣で眠れと言われれば従った。後ろから抱きしめられた時は驚いたけれど、きっとずっと、不特定多数の誰かにこうしてきたのだろうことも知っている。
 それに虎於がそうしたいと思うなら別に構わないと、トウマは本気で思っている。
 好きだからだ。
 虎於のことが。
 残念ながらこの感情を、友愛の範囲だけで語るには無理があった。恋愛にほど近い感情であることに、とっくに気づいている。何故なら、性欲を伴っているから。

 虎於がトウマに〝しか〟我儘を言わない時、信頼とはまた別の、分かりやすい甘えを感じる。不遜さや高慢さとはまた別のひどく子供っぽいそれが、たまらなく愛おしい瞬間があった。
 それが何度も何度も繰り返されて、もしかして自分は、虎於にとって特別なんじゃないか? と思いかけた時――それはとんだ勘違いだと気付かされたのだ。
 御堂虎於という男は、巳波にしか聞かせない声色があり、悠としか過ごさない時間がある。二人と話している時の虎於は、どこか精錬としていたり、どこか大人びていたり、様々だ。
 故にトウマを相手に、トウマにしか見せない顔があるのも、当然なのだと知った。それは決して、特別なことではない。社交というのはそういうもの。誰彼構わず同じように接してしまうトウマからすれば、それは目から鱗でもあった。
 見せられる部分も、頼れる部分も、明かしたい秘密も、それぞれ相手によって違っていて当然。
 なのに、その事実にそれなりにショックを受けた。
 ああ、トラにとっちゃ俺は、甘える担当か。美形担当、みたいな感じで。
 けれどそれは間違いなく、ŹOOĻのリーダーとして、信頼を寄せられている証だ。
 とても誇らしいことであるはずなのに――それだけじゃ足りないと思うなんて、口が裂けても言えなかった。
 加えてトウマは一本気で情に厚く、器用なタイプではなかった。
 虎於のスタンスを理解したからといって、簡単に好きの気持ちが消化できるわけもない。
 故に、初めて一緒のベッドで眠った日。背中から抱きしめられ、そのまま肩口に頭を埋められ、首筋に悪さをされた瞬間。
 全身が発火するかと思うほど熱くなって、脳髄がビリビリと痺れた。理性の糸にまで引火し、瞬く間に燃える。
 何してんだよと、いつもみたく諫めるトウマはここにはいなかった。
 絶対にしてはいけないことなら、ŹOOĻの狗丸トウマなら、必ず止めに入っただろう。
 けれどこの行為は、〝そう〟ではなかったから。

 翌朝、虎於は自分の行動を全く覚えていないようだった。なんなら「暑苦しい、早くベッドから降りろ」とまで言ってくる始末で、正直ホッとした。そして、なるほど、と理解する。
 虎於は無意識化で、他人のぬくもりを求めているのかもしれない。きっとずっと、不特定多数の誰かにこうしてきたからこそ生まれてしまった悪癖。
 それに気づいた時。
 ――これだ、と思ったのだ。

 それからは、敢えてルーティーンのように虎於と風呂に一緒に入り、ベッドに寝かしつけた際は隣で眠るようになった。
 どうせいつかはバレる。途中で覚醒した虎於が、自分を突き飛ばす想像は何百回としてきた。
「なんで止めなかった」と、真っ青な顔で問われたとして、「俺フツーに寝てたんだけど。なんかあったのか?」と返すパターンが最有力候補だ。
 正真正銘寝ぼけた声を出すことだって、今ならできる。先月、絶賛放映中の夏ドラマがクランクアップしたばかりで、演技のスキルも少しは上がった。
 勝手に甘い蜜を吸わせてもらっている分、うまくやらなければならない。
 自分が虎於の人生の汚点になることよりも、虎於の人生に汚点が残ることの方が、よっぽど苦しかった。

 意識を半分手放していれば、虎於の接触に性的な反応を示さないでいられる。
 そのことに気づいたのは、二回目からだった。
 一回目は驚きと緊張と興奮で脳が混乱し、それどころではなかった分、二回目でしっかりとコツを掴んだ。
 いつか来る終わりを引き延ばす為に、極力ミスは少なくありたい。
 ……じゃあ次はどうすればいい? もっとスムーズに進めるには? そんなことを考えている内、いつの間にか虎於はまた眠りにつき、その様子を見届けてやっとトウマも眠ることができる。
 これもまたルーティーンだった。

 なのに。
「いっ……」
 唐突に与えられた痛みに、意識が引き戻された。
 なんだ? と反射的に振り返りかけ、ギリギリのところで堪えた。虎於の方は見てはいけない。万が一目でも合って、それをきっかけに焦点が結ばれ――目覚められたらコトだ。
 しかし、そんなトウマの行動をまるで咎めるように、更に強く噛みつかれる。
「アッ……ツゥ、……」
 痕が残ってしまうんじゃないか、そう思わせるほど強烈な痛みだった。
 血が出ていないか確認する為に首筋に手を回す。
 すると薬指の先を舐められ「う、わ!?」と声が出た。慌てて手を引っ込め、口を手のひらで覆う。
 今、大きな声を、出してしまった。
 背後の虎於は何も言わない。が、静寂に落とすにはあまりに不躾な音だった。逆の立場であれば、熟睡タイプのトウマですら確実に覚醒しているだろう。
 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。
 何百回に及ぶシミュレーションは、本番を前にすると全く意味をなさないのだと思い知る。
 過度な触れ合いにより火照った体が急激に冷えわたり、動悸が高まった。薄い皮膚を打ち付ける心臓が、貫通して飛び出してしまいそうだ。
 腰に回っていた虎於の腕が、探るようにトウマの胸元に這い上がってくる。
 明確な意思のもとに動く腕。男の覚醒を知らせるには十分すぎるほどだった。
 絶望的な気分になる。ろくな言い訳も思いつかない。
 虎於の大きな手のひらがトウマの心臓に触れる。早鐘のような心音を直に聞かれて、暫くの間、ピクリとも動けなかった。
「……トウマ」
 耳たぶに唇が触れるぐらいの近さで、名前を呼ばれる。応えられない。虎於の意図が掴めないからだ。
 蜂蜜の方がまだマシ、と思えるぐらい甘ったるい声が直接注がれて、何と勘違いしているのか、俺に使う声色じゃないだろと、動揺もしている。
 だってそんな声、甘える時に出したことない。
「なあ、こっち向いて」
「…………」
「お願いだ、トウマ」
 子供っぽい言い方は多分わざとで、それをされるとトウマが無視できないことを理解している大人のやり口だった。
 狡いし酷いし容赦がないと思うのに、そもそも自分が愚かなせいでこうなっている。
 トウマは虎於を責める立場になかった。
 ŹOOĻのリーダーとしてなら、言えることもある。でも今はそうじゃない。
 ただありのままの、狗丸トウマなのだ。
 おまえのお願いを聞いて、そんで、そしたら、どうなっちまうの。
 往生際悪く、きっと最後になるシミュレーションが頭の中で勝手に始まる。
 恐る恐る振り返る。目が合う。トラに何かを問いかけられる前に俺は「首いてぇよバカ」って笑って、そんで、寝ぼけんのも大概にしろよなーって起き上がって、もっかい風呂入ってくるって嘘をついて、着替えてすぐに家を出て……、出て、どうするんだ。
 トラを置いてくのか?
 独りになれないからここに来るのに?
 シミュレーションはそこで強制終了。どちらにせよバッドエンドなら、虎於自らが出ていくことを選んでもらった方がよほど良いと結論づけた。
 トウマは虎於を、絶対に置いていくことはできない。もう二度と、迷子の子供のような顔をさせたくなかった。
 密着していた体がほんの数センチ空いて、寝返りを打ちやすいようにしてくれたことに気づく。
 先程からずっと、虎於はトウマを突き飛ばすようなこともなければ、暴言を吐くようなこともなかった。
 でも、もう元には戻れない。それは確かだった。
 覚悟を決めて、ゆっくりと体を虎於に向け倒す。
 閉じた瞼が震えて情けない。心臓がワイヤーで縛られたかのように痛い。涙が出ていないのが奇跡だった。
 何より、謝るべきかもしれない。
 利用して悪かった。俺相手だったなんて気味悪かったよな。本当に申し訳ない。ごめん。許してなんて言わない。
 ――でもどうか、どうか【ŹOOĻの狗丸トウマ】だけは、見限らないでいてほしい。
 懇願を込めて、恐る恐る目をあける。間接照明はほとんど意味をなしておらず、薄暗い部屋の中に虎於の薄紅が浮かんでいる。
 ふと、初めて会った時のことを思い出した。
 あの日、粗いインターホンのモニターに映った姿を見たその瞬間。この男の姿は、トウマの網膜に灼きつけられてしまったのだ。きっと。だから必要以上に気になるし、意味もなく目で追ってしまうし、誰よりも輪郭が確かに見えるのだろう。
 まばたきをする。目が薄明かりに慣れてくる。
 目前には、あの時と同じく美貌の青年。
 表情はずっと穏やかで気安く、なのに全く慣れないままだ。
 虎於の薄く形のいい唇が動いた。心臓がもう一度強く跳ねる。
 これが最後通牒だ。

「……おまえ、いつから狸寝入りに気づいてた?」

 だからうまく聞き取れなかったんだと思った。

「…………は?」
「早く言え。じゃなきゃ今度こそ唇にキスする」
「な、に言って」
「散々我慢してきたんだ。それぐらいは許されるだろ」
 不遜な態度に、横暴がすぎる言葉。眉間にシワを寄せ、不機嫌そうに口角を下げている。最近はほとんど見なくなった態度だ。
 そのうえ【世間知らずでチャーミングなセレブ】からは程遠い、薄暗がりでも隠せないほどの、瞳のギラつき。

 この全部が、俺にしか見せない俺だけのトラであれと思う。懲りずに、どうかと願ってしまう。

 キスなんていくらでもしてほしかった。
 それに、全部終わってから話をすればいいのだと悟った。
 同じ湯船に浸かったお陰で、トウマの肌は今、滑らかだ。お誂え向きに、いくら触れられたって大丈夫。
 〝いつから〟なんて知らないし、知らないものは答えることもできない。

 ……だから声は、殺すしかなかった。




どーせこのあとなかされる