宇都木さんが運転する黒塗りベンツは、まさかの社用車だ。
了さんからの引き継ぎの中で、これが最も扱いに困っていると苦笑していたのは記憶に新しい。確かに目立ちすぎるし、燃費も悪いから、すぐにでも変えたいだろう。
でも出来ればこのままで、と俺がお願いした。
なんやかんや思い出深く、色々と忘れてはいけないものを載せたままな気もするから。
そんな黒塗りにトラと二人で乗り込んだのは、テッペンを越えてから一時間が経った頃だった。
妙な天井の高さには慣れた。特別感が薄れた代わりに愛着が湧いた革張りのシートに背中を預け、両手の位置は膝に置いたままに背筋だけをぐっとに伸ばす。
くうう、と喉から小さく呻きが漏れた。運転席から、こちらを窺うように宇都木さんの声が届く。
「お二人とも、お疲れさまでした。眠かったら寝ていてくださいね。目的地についたら起こしますんで」
「お疲れっす、有難うございます」
「……」
労いの言葉を受けながらも、普段ほど明るく返事をすることは叶わなかった。疲労のピークで、口がうまく回らないのだ。トラに至っては、もう目を閉じている。
顎を上げて息を大きく吸ってから、欠伸混じりに「ふあああ〜〜」と間抜けな声を吐き出した。車内はタバコの匂いひとつせず、清潔さを保っているお陰で呼吸がしやすい。
「じゃ、車出しますね」
そう言って走り出した車の無駄のない動きに、流石、と内心感謝する。宇都木さんの運転は丁寧で心地いい。この緩やかな揺れに身を任せて、今すぐ眠ってしまいたい。
のに、人間の体の作りというのは意外なほどにポンコツだ。疲労がピークに達すると興奮状態に陥るらしく、いつもすぐには寝付けなかった。
しばらく、沈黙の時間が続く。真っ暗の車内。等間隔で差し込む街灯の灯りが全身をスキャンするみたく俺たちを照らしては消える。
――一年で一番忙しいのは年始であると言われる昨今、夏を前にした七月もとんでもない激務であることを知った。とにかく生放送の数が尋常ではないのだ。
歌番組のスタジオ収録から始まり、移動・生放送・移動・生放送・移動・スタジオ撮・移動・生放送・ロケ撮。着替えが必要ならロケバスで着替えてメイクも直して、そんなことをしてる間に次の撮影が始まる。
分刻みどころか、秒刻みのスケジュールを体感させられ、体力自慢である俺も、流石に何度か音を上げそうになった。
今回はユニットソングのプロモーションを兼ねており、途中ハルやミナとも合流したが、今日一日全ての行動を共にしたのはトラだった。
そのトラは、もうずっと前からほとんど喋れていない。とっくに体力の限界がやってきているようだった。
それでも望まれればいつも通り王様のような振る舞いをし、疲れなどおくびにも出さない。俺の下手な受け答えを極自然にフォローしてくれたりもして、トラのそういうところ、すげぇカッコいいし、憧れる。
それと同時に、あんまり無理すんなよ、とも思った。
「……トラ、起きてるか?」
「…………………………なんだよ」
「ははっ、やっぱ寝れねえよなー」
声が返ってきたことが嬉しくて笑いかけると、トラは忌々しそうに目を開けた。入眠の邪魔をするなと暗に伝えられて、なら答えなきゃいいだけだろと俺は視線でやり返す。
バチッ、と視線が合った。鳴ってないのに、音が聴こえた。
(……改めて、すっげーな……)
コイツの顔。
そんなに長くてどうすんだってぐらいまっすぐ伸びた睫毛。スッと通った鼻筋は絵みたいに綺麗で、本当に美形だよなと、素直に感心する。
口にしたら「当然だ」だの「今知ったのか」だの言い出すことは間違いないので、言わずにおいた。いつもみたいに無駄口を叩き合うには、ほんの少し体力が足りない気がして。
それはトラも同じだったらしく、俺たちは何故だか、そのまましばらく見つめ合っていた。
トラの眼差しは、真っ直ぐなようでどこか揺らぎがある。イケメンは目の水分量も多いってことか? とか、最初は思ってたけど。揺らいでるのに、時々熱っぽくて、妙にソワソワするのは――仕方ないよな? 誰だって、そうなる。こんな風に見つめられたら。
それは今もそうだった。トラは、俺から目を逸らさない。まるで俺がここにいることを、目に焼き付けているようで――いや、なんでそんな確認するみたいに見んだよ? と、口を開きかけてやめた。
これが1mmでもトラに必要なことなら、別に減るもんでもないから。
いくらでもどうぞって、差し出すみたいに瞬きしてみると、トラはちょっとだけ目を細めた。ちょうど街灯が俺たちの上を通り過ぎていったので、眩しかったみたいだ。
「お取り込み中のところすみません」
運転席から、宇都木さんの申し訳なさそうな声に、ハッと意識が引き戻された。
いや、取り込んでるつもりは全然まったく微塵もなかったんすけど!?
慌ててルームミラーを見れば、しょんぼりと眉を下げている目元が見え、あまりいい知らせじゃないと直感する。
続けてください、の意味で首を縦に振った。
「お二人とも、早く家に返したいのは山々なんですが」
「……ハイ」
「どうしても今日中にサインを頂きたい書類があることを、思い出しまして……。それが社外持ち出し厳禁の資料なので、大変申し訳ないんですが、一度事務所に戻ってもいいですか?」
「ああ、そんなこと! 全然いいっすよ。お願いします。な? トラ」
「…………」
「あー、いいみたいっす。気にせず行っちゃってください」
「申し訳ありません……」
そりゃ疲れてはいるけど、仕事ならちゃんとするし。サインぐらいどうってことはない。そういう気持ちを込めて、出来るだけ優しく見えるように笑った。
*
「ご自宅までお送り出来ず、ほんっっっとうに申し訳ありません」
「いやいや、全然っすよ。俺とトラの家結構近いんで、途中までタクシー相乗りして帰ります」
「タクシー代はちゃんと請求してくださいね」
「ははっ、助かります」
宇都木さんは深々とお辞儀をしてから、会議室から出ていった。つい今しがたŹOOĻが出演するCMの追加撮影依頼が来たらしく、スケジュール調整の為に打ち合わせをするらしい。
朝も夜もない仕事とはいえ、この時間からの打ち合わせは体力的にもかなりキツイだろう。
扉の向こうに頑張ってください…! とエールを送りつつ、
「……で、どーすっかな、これ」
ソファに寝転がる大男を見下ろした。
身長185cmの大男が横になっても問題ないどころか、普通にスペースが余っているソファ。いくらなんでもデカすぎるだろと思いつつ、これもまた、了さんが手配したものであることを思い出す。
もちろん、誰かを寝かせるために用意されたものではなく、威嚇目的に購入されたんだろうけど。今はトラを寝かしつけるベッドの役割を果たせて、ソファも満足げだ。
……なんてしょうもないことを考えてしまうのは、やっぱり疲れているからだろうか。
一刻も早く家に帰って、MPもHPも全回復させたい。そう思い、トラへと声をかける。
「おーい、帰るぞトラ。起きろ!」
「…………無理」
「こんなとこで寝てたら風邪ひくっつーの」
「無理。一歩も動けない」
「あのなあ……」
小さな子供みたいな我儘。可愛げはあるけど、今はそれを聞き入れてはいけない。寝るなら絶対、自宅のベッドであるべきだ。トラの家にはそれはそれは上等なベッドがあるのだし、体力回復を図るなら帰宅、一択である。
「うーん……俺、トラのことおぶれっかなあ。まあ物は試しで……」
「おまえも一緒に寝ろ」
「んぁ?」
ぐいっ、と腕を引かれて、思いっきりソファに倒れ込んだ。否。
トラの胸に飛び込んでしまった。
「ぶっは、……お、おいッ」
すぐに身を起こそうとすると、もう一方の腕も伸びてきて背中に回される。ソファに乗り上げる形になっているので、靴が革張りのそれを汚しそうで、慌ててつま先同士で引っ掛けて放るように脱いだ。
「おい、トラ! こんなことしてないで帰っ、ぐぇっ」
「うるっさい……、静かに、しろ……」
息が出来ないぐらい強く抱きしめられて、カエルが潰れたような声が出る。トラの地を這うような声は、語尾がちょっとふわふわした音で、明らかに寝ぼけているのが分かった。
しばらくジタバタして抵抗を試みもしたが、腕の力が少し抜けた程度で、ガッチリと抱き締められた状態で固定されてしまった。
なんなら、車内では一度も聞くことのなかった寝息まで聞こえ始める始末だ。
いや、この状況でガチ寝って。
(……マジでぇ……?)
ハルが俺の肩に身を預けて寝てしまうことがあるように、トラも俺を抱き枕にして寝てしまうことがあるらしい。全く予想外な上、コトの重大さが全然違うような気もするが。
……まあ。長いものには巻かれるのは御免でも、メンバーには結構巻かれたいタイプの俺だ。なんなら「先帰ってろ」と言わないで、一緒に寝る選択をするトラを、実はちょっとだけ可愛いとすら思ってしまった。
一つ違いとは言え、トラは年上だ。年上に甘えられるって、なんかちょっと、他とは違うくすぐったさがある。
とはいえ、流石に乗っかったままでは落ち着かなかった。腕を解くのは諦めて、その代わり重心を右側に置いて、無理やり隣のスペースへと体を移動させた。トラも、寝ぼけながらも少しだけ動いてくれて、なんとか二人でソファの上に収まることが出来た。
が。
冷静になって考えると、なんで同じグループのメンバーの胸に、すっぽり収められているのかという話だ。
「……うぉあ〜〜〜……」
極力小さな声で、緊張を誤魔化すために意味もなく呻く。
9cmの身長差はそのまま体格差に直結していて、トラは胸板も腕も俺より厚みがあった。激しい運動を求められるパフォーマーなのだからそれが当然だとしても、俺だって普通に高い方なのに。トラが規格外にデカいから、相対的に自分が小さく思わされてしまう。
別に全然、変な意味はないけど。
男に抱き締められてる女の子って、こんな感じなんだろうなー、とか。
簡単に想像出来てしまう。……してどうする。
その上、いつも感じている香水のにおいが、ずっとずっと濃くて、くらくらする。容姿から想像する重めの男っぽいにおいではなく、意外な程に爽やかなそれは、肌の匂いと交じると少し甘く感じる。
……いや、いやいやいや。
人より鼻がいいからって、嗅ぎにいくのは、ルール違反だろ。流石に。なんのルールかは知らねえけども。
ŹOOĻはRe:valeやIDOLiSH7と違って、メンバー同士で抱きしめ合ったりおんぶしたりというファンサービスはほとんどしない。するにしたって俺とハルだったり、トラとミナだったり。
体格差や関係性を考えればそうなるのも自然で、それこそトラとはパフォーマンスの一環として、舞台上に用意したテキーラショットを手に腕を絡ませて飲み合う、程度しか絡みしかなかった。
だから、全部いま、初めて知った。
トラの体温が意外と高いこと。甘いにおいがすること。寝息が静かすぎて、ちょっと不安になること。
顔を上げれば、目の前には目を伏せ微動だにしない男がいる。怖いぐらい綺麗な寝顔。でもどこか、あどけなさを感じるのは――俺の贔屓目だろうか?
腕から伝わる熱が、俺を見つめる時のゆらぐ瞳と似た温度で、やっぱりどこか、ソワソワする。……ソワソワって表現で、合ってんのかな、これ。
自分の心音がちょっとだけ早くなった気がして、誤魔化すようにトラの拘束から自分の腕を引っこ抜いた。自由になった左腕で、綺麗な顔の前に手のひらをかざす。
(あー、息、してんな。ちゃんと)
当たり前のことに、やけにホッとした。
するとトラが、うっすらと目を見開いて、ドキリとする。かざした手のひらをゆっくりと掴まれて、そのまま俺の指の間に、トラの太くてゴツゴツとした指が滑り込んでくる。
「う、わ」
声にならない声が出て、一瞬で金縛りにあったみたいに動けなくなった。
いや、最初から動けやしないんだけど。そういう、物理的なことじゃなくて。
熱くて。
絡みあった指に力が込められて、顔の前からゆっくりとどかされる。
――――。
「…………トラ?」
思わず、呼びかけるみたいな声が出た。
だって、手のひらから伝わる体温とは裏腹に、トラの表情は、置いてけぼりを食らった子供みたいだったから。
「……今日の、俺は、……どうだった」
「……え?」
「どう、だった」
まだどこか、言葉の端から解けてしまうような声だ。現実と夢の狭間で、俺に問いかけている。
なんで今、とか。どうしたいきなり、とか。色々言いたいことはあったけど。
「そんなの、世界一カッコよかったに決まってんじゃん」
すんなりと、その言葉が出た。だって本当にそうだったから。こんなに答えるのが簡単な質問も、そうそうない。
「……ほんとに?」
「ほんとに。すげぇ疲れてんのに、キメるとこバシッとキメてさ。俺が詳しくない話とか、トラが代わりに受け答えしてくれたりもしただろ。助かったし、有り難かったし、何より――嬉しかったよ」
「……そっか」
あ、ほんとに、子供みたいだ。
ゆるく瞬きをして、俺の言葉を反芻しているトラは、とても幸せそうだった。俺の言葉で、こんな風に喜びを示すことなんて、稀も稀だ。素直じゃない反応がデフォルトの男が、今は心から受け入れ、咀嚼している。
よかった。俺の言葉、届いてんだな。照れ隠しだと分かっていても、何も伝わってないんじゃないかって、時々不安になるから。
伝わっていてよかった。トラを、安心させられてよかった。
「トウマ」
「ん?」
「……ん、なんでもない」
絡んでいた指が離れて、その代わり親指が俺の目元をするりと撫でた。
まるで、何かを慈しむみたいな触れ方。
あまりそういう経験のない俺だって、これが特別な触れ方であることは、分かる。流石に。
なんでもないって言いながら、そりゃないだろ。
「っ、……」
息がうまく出来なくて、全身が強張って、でも怖いわけではない。全く。
目尻から頬を滑った指は、唇の端をゆるく撫でる。
長すぎるまつ毛に縁取られた瞼の奥。
揺らぐ瞳はやっぱり、熱っぽい。
「……………と、ら、…………」
胸のあたりがきゅう、と変な音を立てた。心臓の、もっと奥が、ぎゅっと引き絞られるように痛い。
なんだこれ、なんだこれなんだこれなんだこれ。
当たり前のように近づいてくる顔を、俺は確実に避けることが出来た。さっきみたいに手のひらを差し込んだって、顔を背けたって、なんなら殴りつけることだって出来た。
しなかった。俺は。
唇同士が軽く触れて、一度離れて、もう一度、今度はもっと確かめるみたく触れた。
明らかに、俺の唇ばかりが震えている。当たり前だろ慣れてないんだから。トラはそりゃ、百戦錬磨だろうけど。
それが悔しくて、でもだからって自分から触れにいくことなんて出来るわけなかった。
――これが1mmでもトラに必要なことなら、別に減るもんでもないから。
なんて、もう言えない。絶対言えない。
俺たちは今確実に、一線を超えたのだ。
なのに。
「なんっで、また寝てんだよぉ〜〜……」
どん、とトラの胸に拳を押し付け、抗議したって届きはしない。
トラはそりゃもう綺麗に、すやすや眠っていた。弛緩しきった腕は今まで以上に重く、全部を委ねてくるみたいな甘えを感じる。
そんなことにも心臓がバカみたいに脈打って、全身火が吹きそうに熱くなった。項を伝う汗すら、じんわりと熱を持っているようだ。
「なんでもないって、なんだよ……」
言いたいことも聞きたいことも山ほどあるのに、頭の中がこんがらがってそれ以上は言葉にならなかった。
*
それからどれぐらい経っただろうか。
宇都木さんにトラがまだ会議室にいることをラビチャした俺は、既読マークがついたのを見届けた瞬間、腕からそっと抜け出してその場を離れた。
眠気なんて完全に忘れてしまった体から、トラの香水の――トラの、においがする。
揺らぐ瞳。高い体温。硬い胸。絡む指。
なぞられた部分が、火傷しそうに熱い。
「……どーしよ……」
事務所の廊下で、力なくしゃがみこみ頭を抱える。
寝ぼけてんなよ、とか。どうせ気まぐれだろ、とか。
そう言える余地すら残してくれないアイツを、今はひたすら責めたかった。
でも、それ以上に、どうしようもなく嬉しいのだ。
必要とされて嬉しい。隣で、安心したように眠ってくれることが、この上なく幸せに思える。
これが果たして、なんの情なのかは分からない。まだ、そこまで考えられるほど、冷静にはなれなかった。
……でも一つだけ、確かに分かるのは。
トラを置いて一人で帰るなんて、きっと絶対、いちゃいけないってことだ。
「あ〜〜〜〜〜〜……もう!!!」
結局俺は、宇都木さんに『やっぱり一緒に寝とくんで気にしないでください』という意味不明なラビチャを送り、会議室に戻ってトラの隣で寝直した。
トラのにおいを近くで感じ、なんでかちょっと安心する。その事実にも動揺した。
あー俺、マジで何してんだろ。
そう思うより先に腕が伸びてきて、隙間を埋めるように抱き寄せてくるものだから――……
「寂しがらせてごめんな」
と、頭をそっと撫でてしまった。
柔らかな髪の感触を、指先で確かに感じながら、俺はもうダメかもしれないと途方もない気持ちになるのだった。