「風邪ぇ?」
エリンの気の抜けたような声は、ラーマの堅牢な城の内部、西側に位置する庭園(エリンが勝手にバラ園を作ってしこたま怒られた)にポトンと落ちた。
活きたバラの花弁がはらりと落ちたのを見て、侍女が「まあ」と不安げに表情を曇らせる。不吉にでも思ったのだろうか。エリンは構わず続ける。
「風邪って、あの風邪? 健康に対して執念深いぐらい気を使ってる王様が?」
「ええ、おそらく……。私たちも部屋に入れていただけなかったので、オライオン様がそう仰っている、というだけなのですが。今もお部屋で眠られていて」
「うーん、それって朝から?」
「かもしれません。だから、」
「僕を城下町に追いやったんだ。ひどくない?」
眉を下げつつ同意を求めると、侍女は曖昧に微笑むだけだった。エリンへの同意はオライオンへの苦言を意味するからだった。賢い娘だった。彼女が落ちた花弁を拾う前にエリンはそれを手に取り、空にかざして陽に透かす。
今朝方開いたばかりの花だったのに。落ち方が妙に可憐だったのにもかかわらず、エリンの主君たるオライオン王を重ねて、ちょっとだけ心配になった。
ちなみに、白いバラはオライオンにとてもよく似合うと、エリンは胸を張って言える男だった。どれだけゲンコツを食らうことになろうとも。
朝一番に前触れなく城下町の視察を命じられたことを改めて思い出した。直接ではなく、扉越しだったことを、もっと疑うべきだったのだ。けれどエリンは、それをちっとも気にしなかった。
なんなら(もしかして王様、寝坊した? 髪の毛がふわふわあっちこっちに飛んでるとか? それなら、従者たるもの――窓からでも入って可愛いねって笑ってやろう!)などとすら思っていた。
が、一度外に出てしまうと二階の窓まで駆け上がるのも面倒になって、まあいっか、と素直に城下町まで繰り出したのである。なんて献身的な従者だろうか。
それでもって、なんてアホな従者だろうか。
今、エリンの足元に置かれた絖皮風の茶袋には、たくさんの焼き菓子がぎゅうぎゅうに詰まっている。
今日も今日とて街は平和そのもので、であるならその象徴であるお菓子を、オライオンに持ち帰ってやろうと考えたのだ。
あなたの治める国は、今日も素晴らしくのんびりしていましたよと、形で伝えたかった。
屋根から屋根に飛び移り、クッキー、マドレーヌ、フィナンシェは勿論、ワッフル、スコーン、ダックワーズにラスクだって買ってきた。全部「僕が食べる用に」と断りを入れながら。
それは王の威厳を守るための嘘だ。エリンは焼き菓子を一口すら食べない。幼い頃から毒味の訓練を受け続けた結果、加工品は味を楽しむものではなく、成分を分析する対象でしかなくなった。
甘味のうちの、特に焼き菓子なんかは高級な嗜好品だ。味わう気のないエリンが食べるより、こっそり食べては頬をほころばせているオライオンが食べた方が、食べられる方も幸せに違いなかった。その隣で林檎が齧れれば幸せだ。エリンはいつでも、本気でそう思っている。
けれど街の者も、従者たちも、みんなエリンは大の甘党で、大の花好きだと信じ込んでいた。そうなるようにエリンが動いているから。印象操作なんのその。別にそう思われて恥じるプライドも立場も無い。
陽に透かした花弁を侍女に渡せば、エリンがどこかへ去ろうとしていることに気づいた侍女が「怒らせないでくださいね」と釘を刺してくる。
「ありゃ、バレちゃった?」
「エリン様の考えることなんて、だいたいみんなお見通しです」
「あははっ、それってなんだか凄く……素敵なことだね」
君がそう信じ切ってしまえるのは、警戒心が無さすぎていささか不安にもなる。けれどそれ自体がやはり、平和の証なのだ。信じられるものが増え、穏やかな日々がラーマに訪れていることが、誇らしく愛おしかった。
命じられれば君の首を切る事も出来る僕が、それをしないでいられることに安堵すらしている。
花弁をそっと包み込む君の指は美しいのだし、微笑みは穏やかで、鉄の匂いなんて似合わない。
じゃ、行ってくる! と軽やかに身を翻し、エリンは庭園を抜け出した。
くれぐれも怒らせないように、と侍女は呆れるように言ったけれど、それが怖くてオライオン王の右腕になれるはずもなかった。
それより。
「僕の目を盗んで何してんの〜?」
ベッドにそのまま座ろうとして、顔をちゃんと見たくて椅子を引き寄せ座った。
オライオンの部屋の窓にはカーテンが引かれ、ベッドサイドの間接照明がひとつ点いているだけで薄暗い。
幸いエリンは夜目が効く。
「……出ていけ」
予想通りの地を這うような声に笑うと、チッと無遠慮な舌打ちが聞こえた。いけませんよ王様、お行儀が悪い。枢機卿たちの真似をしてもよかったが、あまり体温を上げさせてもな、と喉元で止めておいた。
見れば、いつもは怖いくらいに真っ白な肌には赤色が差して、いつもよりずっと血色良く感じられる。
「あーあ。林檎みたいになっちゃってる」
かわいそうに、と手の甲をオライオンの頬に添えて、一瞬目を見張った。想像よりもずっと、火傷しそうに熱かったから。ぺた、ぺた、と手のひらと甲を交互にあてて、熱を冷ましてやるとうに動かしたが無意味だった。エリンの冷えた手も、この熱にはあっという間に温められてしまう。
「人間湯たんぽじゃん」
何もかも面倒なのか、あるいはエリンの手が心地いいのか、オライオンは目を伏せたまま動かない。ただ、眉間の皺だけはいつも通り完璧な深さで刻まれていて、それでこそ王様だ、と嬉しくなる。
触れていた手を離すと、薄っすらと伏せられていた瞼が開いた。不愉快そうなオライオンの瞳は普段よりずっと潤んで見えたるのに、誰よりも理性的な視線がエリンは嬉しい。
「風邪なんて、僕が捕まえて殺せないようなもの、体に招き入れないでくれる? 嫉妬しちゃうから」
「…………」
「怒ってる?」
「怒ってない。無茶を言うなと、呆れているだけだ……」
「無茶じゃないし。っていうか、せめて僕だけは部屋入れて、介抱させなよ。身体汗だくじゃん」
まだ昼過ぎではあるが、汗みずくの状態で眠り続けるなど体調を悪化させる一方だ。
どうにも、らしくない。弱った姿を誰かに見られるより、弱ったままでいるリスクを取るなんて。侍従たちが信用ならないなら、それこそエリンを頼ればいいだけの話だろう。
ローブに手を伸ばせば、見た通りぐっしょりと濡れている。
「脱がすよ」
「……いい」
「わけないでしょ」
一度部屋を出て侍女から新しいローブその他を調達し、オライオンには少し身体を浮かすようにお願いをしながら着替えを進める。ガーゼで汗を拭き取り、下履きも替えさせた。これは流石に、思いっきり蹴られたけど。
いやだって、パンツの中までぐしゃぐしゃなの、気持ち悪くない?
「はい、終わった」
「……っ、貴様、本当に……」
「生娘みたいな反応するね」
「殺すぞ」
今の一瞬でまた体温が上がったのか、オライオンが視界をくらりと歪ませたのが分かった。あえて煽るようなことを言ったかいがあった。
暴れるからだよ、としっかり身体を寝かせて、それからくんできた水を差し出す――のは止めて、口に含んだ。あいにく、吸い飲みの用意はなかった。というか、侍女からの受け取りを拒否した。
確かめたいことがあったから。
オライオンの顎を掴み、唇を添えてからゆるゆると口の中に水を注ぎ込んだ。仰向けの身体にぎゅっと力が入り、肩を掴まれてもお構いなしに続ける。息継ぎの合間にもう一度口に含んで、注ぐ。含んで、注ぐ。
嚥下を確認しながら、細かく繰り返すことで、噎せたり口の端からこぼすようなこともなかった。
最後の一口まで全部注ぎきった後、飛んできた拳を軽くキャッチした。感謝をされることはあっても、殴られる謂れはない。
「は、はあっ、はあ……っ、な、にを……」
「水飲ませてんの」
「舌を、入れる必要が、あったか!?」
赤かった顔を更に真っ赤にさせて、本当に林檎みたいになっちゃったな、と思う。が、軽口を叩くのはもう少し後だ。
僕は怒っている。
「だから、僕の目を盗んで何してんの?」
「……!」
鼻先が触れるほど近くまで顔を寄せ、真っ直ぐに視線を捉えた。
「異常な高熱の割に咳もなければ喉の腫れもない。こんな状態になっても僕一人呼ばないなんて、どう考えてもおかしいでしょ」
オライオンの舌を舐めて毒を盛られた可能性も探ったものの、時間が経ちすぎているせいか判断がつかなかった。
出来れば胃の中のものを全て吐き出させたいが、オライオン自身も幼少期から訓練されているために、喉に指を突っ込まれようが鳩尾をぶん殴られようが、吐かせることは難しい。
逆に言えば、本人にその意志があれば危険物は自ら吐き出せるはずだ。故に、そこまで心配することはないのかもしれないけれど。
エリンの言葉に、オライオンが図星を刺された顔をしたことを、酷く不愉快に思った。
「お説教はまた今度にするけど。……君の判断で、命に別状がないと判断したとして。それを僕に伝えない理由が分からない」
「……エリン」
「君に毒を盛った相手は、僕に殺されたくない相手だった? 守りたかった? ――僕からすら、逃したい誰かがいたの?」
普段よりずっと饒舌な口に、我ながら驚いていた。
茶袋いっぱいに菓子を詰めていた自分が、ひどく愚かで情けないものに感じるからだろうか。裏切りにも似た何かを、感じているからだろうか。
触れた唇の柔らかさが、王が〝人間〟であることを直に感じさせたからだろうか?
そんなことはとっくに知っていたはずなのに。それを他の誰かも知っているのかと思うと、臓腑が煮える思いがした。
「エリン」
それは凛とした声だった。熱に浮かされている様子もない。ハッとして反射で立ち上がり、ベッドサイドで姿勢を正す。
一瞬にして、平静は取り戻された。頭を深々と下げ、君主への非礼を詫びる。
「出過ぎた真似をしました」
「違う。……お前はむしろ、従者として完璧だよ」
「え?」
思わず顔を上げると、オライオンは「説明しようにも、情けなくてな」と、諦めに近い表情で、ベッドの下を指差した。
「答えはここに。すぐにバレると思ったが……お前も、相当頭に血が上ってたみたいだな」
「……はい?」
いいから、ともう一度ベッドの下を指されたので、仕方なくしゃがみ込み、そこを除く。埃ひとつない絨毯がそこには……広がっているかと思いきや、中央にぴるぴると震えている、塊が見えた。
「……んん?」
よいしょと手を突っ込んで引っ張り出す。するとその塊は、びっくりするぐらい甘く高い声で「ミー」と鳴いた。
「……は。……仔猫?」
「ふあっっくしゅっっっ」
「うわっ!?」
「ぶぇっっっっっくしゅっっっっ」
オライオンの爆発音みたいなくしゃみに腰を抜かしそうになり、手の中の塊をきゅっと握ってしまった。
「ミーっ!」
「あっ、ごめんごめん」
「ふあーーーくしゅ!!!」
もはやエリンしか人語を喋っていない状況で、エリンは全ての点を点を線で繋げることが出来た。
「……王様って、アレルギーあったんだねえ……」
またしても人間味しか感じない姿に、いっそ感動してしまうほどだった。
*
仔猫は侍女に預けつつ、王様がいない場所で育てることに決めた。らしい。王様は猫が嫌いということにしておいたので、ひとまず近づけるようなことはないだろう。
聞けば、昨日の夜、窓をカリカリと削るような音がした為、エリンのいたずらだと思い窓を開けた瞬間飛び込んできたのだという。すぐに捕まえたはいいものの、その瞬間全身が熱を持ち、あっという間に倒れてしまったのだそうだ。
鋼鉄の星ラーマを統べる厳格な王、オライオンが。そんなあっけなくやられてしまうとは。
これはある意味最強の弱点だ。
「で。僕を呼ばなかった理由は?」
「今の説明をするのが憚られた」
「あのさ〜〜〜〜〜〜」
「じゃあなんだ、お前は言えるのか? 胸を張って今の話を、自分の右腕に出来るか!?」
「ちょっと、逆ギレしないでよ! あと絶対出来ない! 超恥ずかしいもん!!」
「ク……!!」
部屋から仔猫がいなくなり、エリンが隅々まで掃除したことでオライオンはすぐに元の調子を取り戻した。とはいえひとまず、今日一日は休んでもらうことにする。最近働き通しだったのもあって、これは神様が王に与えた一時の休息なのだと説得した。一切の納得は得られなかったが、これ以上動き回るならまた仔猫を連れてくるよと脅して事なきを得た。
ローブのままで過ごすオライオンの姿は新鮮で、エリンが淹れた濃すぎる紅茶に顔を顰める姿も愛おしく思えた。
一息つきながら、でも、と続ける。
「僕も、結構取り乱しちゃったからな。恥ずかしいのはおあいこかな?」
「……ああ、何か言ってたな。くだらないことを」
「うわ、ひっどい。僕の真剣な気持ちがないがしろにされたぁ〜」
テーブルにわざとらしく突伏すると、オライオンに頭をこづかれる。
「しているつもりはないし、これからもしない」
「……あ、っそう」
ああ、そう。そうですか。それなら、……良かった。
たった一言でやけに安心してしまう、この気持ちは一体なんなのだろうか。妙に扱いづらくて、むずむずして、面映いような、鬱陶しいような。けれど、失くしてはならない何かにも感じている。
居心地の悪さを誤魔化すように、茶袋から取り出した大量の焼き菓子を手にとって、オライオンに渡した。
「これ、町娘オススメランキングNo.1だよ。王様、フィナンシェ好きでしょ?」
「……別に、嫌いじゃないだけだ。いいから、おまえも食べろ」
手近にあったダックワーズを手渡されて、受け取らずにその上にフィナンシェを乗せた。
「要らなーい。味分かんないもん。僕にとっては甘味って全部同じ味だよ」
「そうか。なら分かるようになるまで、また訓練だな」
オライオンがいとも容易く、当たり前のように言うのでエリンは固まってしまう。
「何言ってんの……」
逆逆。訓練して、こういう舌になったんだっての。もう一回訓練して、今度は舌を鈍感にしろって?
「王様の毒味は誰がするの」
「誰も。私だって散々訓練を受けている。多少の毒ぐらいどうってことない」
「……変な王様」
「なんとでも言え。……! おいエリン、これは確かに……かなり、……良く出来てるぞ」
パクパクと、エリンが買った菓子を口に運び、その半分を寄越してくる。
変な王様。変な王様。変な王様!
仕方なしに受け取って、口に放り込む。砂糖、小麦粉、バニラビーンズ、ごく少量の塩に、ラム酒がひとさじ。なんの変哲もない、焼き菓子という加工品だ。
いつかこの焼き菓子たちが、美味しく食べられる時が来たら。
それは僕が、王様と同じぐらい人間になってしまったということだ。
王と従者。よき友人。
それ以外の関係にもし名前がつくとして。
その名は貴方に付けてほしいと、なんだか果てしない気持ちで思うのだった。