エリンが握った暗器の切っ先に、うっすらと凝結した血が見える。
 床に転がりながら、その無感情な背中を眺めて、無駄な仕事をさせてしまったな、とため息まじりに息を吐いた。
 それをきっかけに、ごほ、ごほ、と咳き込む。鉄っぽい錆びた香りが喉奥から漂い、口元を押さえていた手のひらに、べっとりと鮮血が付着した。
 ぱっと振り向いたエリンの瞳は、宵闇の色をしていた。しかし、すぐに元の深緋色に戻る。
「王様!」
 そう叫びながら、エリンがオライオンの上半身を支えるように、静かに、丁寧に起こす。
 お前な、声が、大きいんだ。腹に響くだろう。
 苦言を呈する程ではないので、じろりと睨みつけるだけに留める。
 エリンはしかし、ピクリとも笑わなかった。いつも軽薄な笑みを浮かべて、煙に巻くような言葉ばかりを扱うくせに、大真面目に見つめられると、なんとも言えない気分になる。
 別に、腹を刺されたぐらいでは、死にはしない。致命傷も避けている。
 エリンが止血準備を始めたのをきっかけに、ふう、と息を吐き「ここまでの傷を負うのは久々だな」と一人ごちた。
「ごめん王様。僕が油断してた。僕のミスだよ」
「いや、それを言うなら私もだ。お互い、平和ボケしていたな」
 エリンの左手はオライオンの腹の傷を押さえており、その力加減の的確さに安堵の息を吐いた。
 何か特別な要件でもない限り、今でも執務室や寝室は人払いをしている。エリンには常に近くに居るように伝えているし、例え何らかの理由で敵の不法侵入を許したとしても、自分自身の力で抑え込むことは十分に可能だ。
 だから油断した。
 週に二度ある、花の生け替えの時間。いつも通りに三度のノックで入ってきた侍女に、オライオンは襲われた。
 全く気づくことが出来なかったのは、その侍女が、幼い頃から慕っていた一番の古株だったからだ。皮膚の移植、声帯模写、曲がった腰骨――今死体として転がっている〝それ〟は、恐ろしい程の執念でもって、オライオンが心を許している数少ない人間の一人である侍女に、成り代わっていた。
 オライオンのデスク周りには、生けられることのなかった大輪の花があちこちに散っている。
 侍女の元の身体を見つけ、葬儀をしてやらなければならない。鮮度を保つため、恐らく生きたまま顔の皮を剥がされただろう。死んだ方がマシとも思える恐怖だったに違いない。可哀想に。せめて彼女が愛した百合の花を、棺桶いっぱいに詰めてやりたかった。
 転がっている死体も検死に回し、検証を終えた時点で全身を解体させよう。皮膚を剥がし、出来るだけ元の身体に戻してやらなければ。
 そんなことを考えていると、くらり、気が遠くなる。これだけ血が流れれば当然で、ダガーナイフの威力を身を持って知った。情けない。死にはしないが、二・三日は身体を休めなければ、流石に使い物にならなそうだ。
「ちょっと王様。この怪我、三日で治そうとしてるでしょ。三ヶ月はかかるからね」
 心が読めでもするのだろうか。オライオンは目を丸くしてから、ゆっくり息を吐く。
「お前の、止血の技術にかかってるな……」
「僕は医者じゃない。医務室に運ぶまでの応急処置までしか出来ないよ。……あーあ、仕事が増えちゃうね。王様を外に出さないようにする為に、修行し直しかも」
「……いいな。私も丁度、お前に稽古をつけてもらおうと思っていた」
「絶・対・安・静! もう、王様は黙ってて! 喋ってる暇があったら、休んで!」
 ふふ、と思わず口の端を上げた。エリンらしからぬ発言だ。いつだって、もっと話そう、もっと笑って、視察がてら遊びに行こうよ――そんなことばかり言っている男が、この有様だ。それだけ、エリン自身も堪えているのだろう。オライオンを守れなかったことも、大好きだった侍女を失ったことも。
 元暗殺者のくせ、この男には情があった。だから、傍に置くおことに決めた。
 自分の出自など殆ど話さない。オライオンと出会う前に、どれだけの人間を殺してきたかも知らない。それを分かっていて、エリンを腹心の部下としている。
 そもそも、血の繋がった実の父親と叔父を、幽閉し餓死させることを選んだのはオライオンだ。そして、その任務を遂行したのは、エリンである。
 血を分けた家族は、もう居ない。
「……エリン」
「も〜〜喋らないでって言ってるのに……。何? もうちょっとで止血作業も終わるよ。立てなかったら、僕がおぶっていくから――」
「名前を」
「え?」
「名前を、呼んでみてくれないか」
 すると、露骨に顔を顰められて、オライオンも半目になる。なんでここで、嫌がれるんだ、お前は。
「ヤダ。死ぬ気満々の人みたいじゃん」
「馬鹿者。死なない為に言ってる。痛みで気力が削がれるんだ。話し相手になれ。意識を、飛ばさない為に」
「…………」
 オライオンの言説にも一理あると感じたのだろう。止血作業をテキパキと終わらせたエリンが、はあ、とこれみよがしのため息をついた。
 そうして、オライオンに向き直るように腰を下ろし、視線の高さを合わせる。しゃがみ込んだ膝を抱え、首を傾げた。
 いつものエリンの軽薄さが、戻っていた。
 そうだな。お前はやっぱり、よく分かっている。
 そういうエリンが、実のところ、一番好ましい。
「オライオン」
「……ああ」
「まだ、やることいっぱいあるよ。死んだら駄目だからね」
「誰が、この程度で死ぬか」
「オライオンが死んでいいのは、寿命と、僕に殺される時だけだからね。……ね、王様?」
「当たり前だ」
 それは、道を間違うようなことがあれば、必ずとどめを刺しあおうという、約束だった。
 家族はもう居ない。悲しくも、虚しくもない。
 エリン。お前が傍に居れば、私はまだいくらでも、立ち上がれる。お前も、そうであるように。


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