「カバネ、カバネ」
 こいつが俺の名を二回呼ぶ時は、禄なことがないことを知っている。
 地下の食堂。向かい合うように座っていたコノエが、クオンが来た方向へ「ちょっと出てきますんで!」と立ち去ったのを見て、その確信は深まった。明らかに、巻き込まれまいとしているのだ。
 ――その上、コノエは最近、俺とクオンのやり取りに助け舟を出すことをやめたらしい。
「仲直りしたんですし、交流再開ってことで!」
 そう言ってクヴァルやアルムの元へ助っ人に行ったり、リベリオンの様子窺いをしたり。楽しく過ごしていることは知っているんだぞと言ってやりたい。
 勿論、千年以上もの間、俺たちの関係に心を摩耗してきたのだから、それぐらいは許してやるべきだと理解もしている。しているのだが。
 時と場合によるだろう、そこは。
「ねえカバネ、僕、試してみたいことがあって」
 ほらみろ。二言目にはこれだ。
 天子の頃から本を読むことを好んだクオンは、最近地上から本を調達しては一人で読み耽っている。
 しかし調達元が調達元なので、その本の内容はかなり俗物的で猥雑だ。ロイエもクウラも、それを分かって渡しているし、完全に面白がっている。
 クオンには雅物と俗物の良し悪しが分からず、区別がつけられない。というか、つける必要がないと思っている。
 食人鬼の手記と子供向けの絵本を、どちらも『書物』と括って同列に語るのだ。はじめこそ驚いたものの、それ自体が間違っているわけでもなし、否定はしなかった。
 見た目によらず大雑把なところがあることを知ったのも最近だ。そこに救われることもあれば、今のように悩まされることもある。
 というか、悩まされることの方がよっぽど多い。現状、救われたくなるような大きな事件も無いのだから当然と言えば当然だった。
 ――試してみたいこと。
 クオンがそう言い出したことは、過去にもあった。何度もあった。
 マッサージをしてみたい、爪に色を塗らせて欲しい、歌を歌ってほしい、君の隣で眠ってみたい。
 確かに出来る範囲のことには違いないが、積極的に応えられないもののオンパレードだ。
 お前と違って暇じゃない。王の時代なら言えた。しかし今は悠久の暇を持て余しているので、言ったところで頭の上に疑問符を乗せられるだけだ。
 俺の返事が無いことなどお構いなしに、クオンは続ける。
「カバネ、お願い」
 懇願。そうすれば俺が、その要求を呑む可能性があると知っているのだ。クソ。腹が立つ。
 憂いが晴れて、最近は仔犬のような笑顔も見せるようになった男。今も目を細め、座ったままの俺に視線を合わせて笑っている。
 それは、花の名前が思い浮かぶような笑顔だった。

「僕ね、君と口吻がしてみたい」

 話す内容は最悪そのものだったが。

「……………………出たな……」
「え? 何が? 虫?」
 きょろきょろと辺りを見回す様子に舌打ちして「違う」と答える。こうなってくると、害虫にいちいち声をかける人間だと思われていることにも腹が立つ。
「口吻? しない。するわけがない」
「なんで? 僕と口吻することで、君の何が損なわれるの?」
 きょとんと首を傾げる姿が忌々しい。
「損なわれないが何も補われない。意味のないことはしない」
「確かに、全ての物事に意味なんて無いのかも。でも、だからこそ僕らは意味を〝探して〟いくんじゃないかな?」
「……、…………!」
 ああ言えばこう言う……!!
 苦虫を噛み潰したような顔をすれば、クオンはそれにすら楽しげに笑った。おい、何がおかしい。笑うべき場面は一つもなかった筈だが?
「カバネ、表情が凄く豊かになったね。怒るにしても、無言で立ち去るだけじゃなくなった」
「……俺としては不本意極まりないがな」
「何故? 素敵だよ。出会った頃以上に雄弁で」
 きっかけ一つ掴めず何百年もまともに会話をしなかった俺たちにとっては、些細な発見すら目新しく映る。
 だからだろうか。やたらと嬉しそうに話すのは。クオンが喜ぶことは、悪いことではないどころか、まあ、いいことだ。
 かといって。それとこれとは話が別である。
「……口吻、どうしても出来ないかな?」
「…………出来ない、というか、しない」
「僕とは嫌?」
「い、…………、…………」
「……そうか。じゃあ、コノエにしてもらおう」
「は?」
「もしくは、クウラ、あるいはロイエ? ライデン、アルム、クヴァルでも」
「おい待て」
「うん?」
 クオンが指折り数えて男の名前を挙げ始めたので、流石に動揺して止めてしまった。
 まず、他者への選択肢があること自体が信じられなかった。俺はカバネで、お前はクオンだ。それだけで十分な筈が、何故別の人間を選ぶ必要がある?
「誰でもいいのに俺に声をかけたのか、お前」
「まさか。出来ればカバネがいいな、と思ったよ。でも、君が嫌がるようなことはしたくないから」
 少し寂しそうに微笑まれて、途端に罪悪感が募る。どう考えてもクオンの要求がおかしいのに、どうして「勝手にしろ」と捨て置けないのか。
 元・英雄の名が廃る? いやそれと口吻は関係ないだろどう考えても、いや、しかし、しかし……。
 …………。
「…………訂正する。嫌、ではない。意味がないことには変わりないが」
「本当? じゃあ、口吻に意味を見つけたら、してくれるかな?」
「…………お前の知的探究心は、どうなってるんだ…………?」
 それを負けの合図とし、クオンは今度こそ満開の笑顔で「わーい」とゆるく両手をあげた。
 傍から見れば愛らしい仕草であろうとも、俺からすればクオンの〝勝利宣言〟でしかない。
 いつだってこうだ。何故か最後には押し切られる。クオンへの贖罪だとかとは一切関係がなく(そもそも既にお互いカタがついている)、ただひたすらに、単純に、根負けしてしまうのだ。
 ここにコノエが居れば、少しぐらい助太刀を頼めたかもしれないのに。今頃アルムと畑仕事に精を出していることだろう。
 帰ってきたら、普段より野菜料理を二品多く作らせることに決めた。
 どうせ「カバネ様が負ける姿を見ないで済むならいくらでも」と言って笑うに違いないが。
 ……不思議だ。
 思ったより味方がいない。
「カバネ、カバネ」
「……なんだ」
 また二回。今度は何を言い出すのかと胡乱に視線を向ければ、クオンは穏やかに、まるでそう言うことが当たり前であるように言った。

「好きだよ」

「………………………………………………そうか」

 反射できつい相槌を打ち返しそうになって、十秒以上使って飲み込む。相手はクオンだ。何の他意もない純粋な好意を言葉にしただけのこと。そう自分に言い聞かせて平静を装う。
「ねえ、だから口吻しても?」
 ねえじゃない、ねえじゃ。
「…………一応、聞いておくが」
「うん」
「コノエのことはどう思ってる?」
「好きだよ」
「アルムは」
「好きだよ」
「クウラ、ライデン、ロイエ、クヴァル、あたりは」
「好きだよ」
「…………それでは意味がないだろう…………」
 クオンが「意味を見つける」と言うのなら、この綿毛より軽い「好きだよ」は口吻するほどの意味を持たない。けれどそれをどう説明すべきが適切かも分からなかった。
「……? 好きなことに意味はないの?」
「違う。誰のことも平等に好きであるなら、わざわざ口吻するほどの意味は無いということだ。これは別に、『お前の中』で『成立している』から良いだとか、そういうことではなくて」
「僕はなかう、この世界の、当たり前の話?」
「ああ」
 なるほど、とクオンは腕を組み、顎に指を当てて考え込む。もはや諦めたほうがよっぽど早いのに、何故そこまでして口吻に拘るのかが分からなかった。
 こういう時、腹が減ったり喉が乾いたりだのすれば、この場を自然に立ち去れる。それらが全て嗜好品でしかなくなった今ではそれも叶わなかった。
 いや、別に、こちらで話を終わらせて立ち去ればいいだけの話だが。対話すら拒絶するのは、クオンが露骨に悲しむ。決して、この男を悲しませたいわけではなかった。
 しばらく、物思いに耽るクオンを見つめるだけの時間が生まれる。
 ――口吻。或いは口吸い。
 出来るか出来ないかだけで言えば、出来る。
 しかし、行為そのものをクオンが気に入ってしまったら? 四六時中求められてしまったらどうなる。更には別の人間にも求め始めたら――……
「僕はね、カバネ」
「っ、なんだ」
 前触れのない問いかけに、虚を突かれて反応が遅れた。クオンはじっと、緋色の瞳をこちらに向けている。真剣な表情ながらも、面差しは柔らかい。
「わけもなく君に会いたい時があって、それが例えば今だったんだけれど」
「…………は?」
「だから、『口吻をしたい』なんていうのも、実際のところは口実に過ぎなくて」
「…………」
「口実を作ってでも君に会って、話したい。それ自体が『君と口吻がしたい』の意味にはならないかな。……ううん、言い方が難しいね……」
 眉をへの字に下げて、どうしたものかとこちらに助けを求める姿に、しばし絶句する。
 まるで世間話の延長線上で、愛の告白をされたような気が。
 喉元までせり上がったため息をなんとか飲み込む。
「……あとで、教えなきゃならないことがいくつかあるが、……クソ……。クオン、手を」
「? うん」
 当然のように差し伸べられた腕を取って、強く引く。
「わ、っ」
 バランスを崩したクオンの腰を支え、もう片方の手は頬に添えた。そのまま唇に親指をそっと触れさせると、クオンの瞳がじわりと滲んだ。
 鼻の先が触れ合って、間近に見る緋色が美しい。
「あ、」
 開きかけた唇を、そのまま唇で閉じた。口吻。千年以上ぶりのそれは、どこか懐かしくも感じる。
 軽く触れ合わせるだけではなんだか物足りず、ぺろりと唇を舐めてみると薄い肩がビクリと震えた。その拍子に瞼が閉じて「その調子だ」と褒めてやる。
 今度は頬を両手で掴んだままゆっくりと立ち上がり、上から降らせるように何度も触れ合わせる。都度体が震えるが愉快で、普段から溜めていたクオンへのちょっとした不満へのカウンターの気持ちも込め、まろい頬を人差し指で二回叩いた。
「へ……?」
「唇、少しあけろ」
「……こう……?」
「いい子だ」
 微笑めばクオンの耳が赤くなって、なるほどそういう羞恥心は持ち合わせているんだなと学ぶ。
 頬を掴んでいた手から力を緩めて、うっすらと開いた唇から舌を差し込んだ。
「っ、ふ、ん……っ」
 同時に赤く染まった耳たぶにも触れて、形を確かめるように撫でた。ぎゅう、っと固く瞑られた瞼は決して開かず、たまらず、と言った様子でクオンの手がこちらの袖を掴む。縋るようなやり方は、正直そそった。
 あまり驚かさないように、差し込んだ舌をゆっくりと動かす。奥に引っ込んでいたクオンの舌先を軽くつついて差し出すことを要求すれば、恐る恐るといった風に伸ばされたので遠慮なく絡ませた。覚えがよくて助かる。
「んんっ、ん、ぅ、」
 クオンの背中が仰け反って、そのまま後ろに倒れそうになるのを、腰に回した腕で支える。クオンも、助けを求めてか背中に腕を回してきた。それがどうい意味になるかも知らないで。
 肩も、唇も、舌すら薄い。感触を堪能するように何度も舐めては絡ませて、を繰り返す。
 断続的に漏れる息と、耐えきれないように漏れる声。それらを耳で楽しみ、唇の感触を味わいながら、先程のクオンの言葉を思い出していた。

 ――わけもなく君に会いたい。
 ――君と、口吻がしたい。

 脳が甘く痺れて、目を眇める。
 顔まで真っ赤に染めたクオンが、視線に気づいてか静かに目を開ける。
 視線までもが絡みあって、お互い言葉にせずとも、〝何か〟を分かち合ってしまったような、そんな錯覚に陥った。
 一度唇を離して、唾液で濡れたクオンの唇を拭う。
「は……、はぁ、……。か、カバネは、濡れてないんだね……?」
 俺のやり方を真似るように、クオンの指先が唇に触れる。
 この指先に噛み付いたら、こいつはどんな顔をするだろうか。
 そんなことを考えた罰が当たったとしか思えなかった。

「カバネ! クオン! 二人ともこれから地上に――」

 バンッと扉が開き、元気よく飛び込んできたアルムと、それを追いかけてきたクヴァル、そしてその後から二人を止めるように「ダメッスよ!! 今お二人は取り込み中で――……」と声を張り上げたのちに絶句するコノエ。
 その三人に、〝現場〟を見られたのは。

「あ……アルム!! 今は……大人の時間だ!!! 帰ろう……!!!」
「え? え? 二人は抱きしめあっていただけだぞ? 何故?」
「あっ、わっ、あっ、えーっと、その、後で! 後で来るッスよ二人とも、ねっ! ねっ!?」
 三者三様の反応を、呆然と見つめる。
 どんな言い訳もきかない状況に、腕の中のクオンがトドメを刺した。
「カバネ、……カバネ」
「…………なんだ」
「今のが口吻なら、僕は他の人とは、出来そうもないよ……」

 力なく笑う顔を、可愛い、と思ってしまったのは。
 ……きっと他の三人にもバレている。


王なのにこのあと叱られた