手放していた意識が戻ったのは突然だった。
多分、頭を撫でていた指が、髪を梳くような動きをしたから。
「……っ」
気を抜きすぎていたことに驚いて慌てて起き上がろうとしたところで、ぬっと伸びてきた両手でむぎゅっと頬を掴まれた。犯人を真下から睨みつける。
真下?
「っ!? ……ちょっ、と、七瀬さんっ」
「もうちょっとだけ!」
ムッとした声をあげる意味が分からない。しかしこういう時の陸が言い出したらきかないことも十分に理解している一織は、仕方なく腹から力を抜いた。
……いつの間に、こんな姿勢に?
陸の膝――というより、太ももは肉付きが薄いので、寝心地が凄くいいというわけではなかった。が、なんというか、離がたさようなものがあり、困惑する。時計の短針は12をとっくに越しているにも拘らず、陸の言うことを聞いているのがその証拠だった
花のような甘い香り。この人からはいつも不思議と、安心そのものみたいな匂いがする。
一織の頭が元の位置に戻ったことに気をよくした陸が、黒髪をなでくりまわす。くすぐったいし、眠くなるから止めて欲しい――と言ったら、またムッとするか最悪拗ねるので、なんとか耐えた。
とはいえ、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。諭すように「七瀬さん」と呼びかけると、「うん?」と、はちみつに溶かしたような声で、零れ落ちそうなほど大きな瞳が一織を捉えた。
黒目がちなそれが一織をしっかりと映しているのが見え、星の瞬きみたいな潤みに少しひるんだ。
「……あ、と五分だけですからね」
「ええ〜〜〜、ケチ!」
「どういう理屈ですか……」
小さく吐いたため息は、どちらかというと自分自身に向けたものだ。
だってここは陸の部屋で、陸は今からベッドに潜り込み、眠らなければならない。明日の現場は午後からでも、体調のことを考えれば優先的に寝かしつけるべきだった。のに、今は逆に、寝かしつけられようとしている。
普段であればこの時間すでに眠気でフラついているのが常のくせ、今なおはっきりと意識を保っていることに、気合いの入りようを感じた。
――陸の言う〝甘やかし〟が佳境を迎えたのは、確か三十分ほど前だった。
*
朝、いつものルーティーンをこなしてからリビングに足を運んだ一織に向かって、待ってましたと言わんばかりに陸がキッチンから飛び出してきた。その子猫のようなはしゃぎように、目を丸くする。
勢いをつけすぎた登場のせいでテーブルに並んだグラス類を引き倒しかけたので、慌てて両肩を掴んで抑える。朝から威勢がよすぎやしないか、と苦言を呈そうとしたところで、弾む声がそれを遮った。
「一織、お誕生日おめでとう!」
ここまでは例年かつ予想通り。そう言われて嬉しくないわけもなく、ひとまずお小言は控えておく。
「有難うございます」と、軽く頭を下げようとしたところで、
「今日はオレが一織を甘やかしてあげる!」
そう続いた声に、目を見開いた。
下げかけた頭を錆びたロボットみたいな動きで持ち上げて、「……はい?」と間抜けな声が漏れる。一織がきょとんと頭に載せた疑問符を薙ぎ払うように、陸はとびきりの笑顔でもう一度言った。
「だから、今日はオレが、一織をい〜っぱい甘やかしてあげる!」
ひまわりを背負い、きらめく星と弾ける音符を飛ばしながら――
……何を言ってるんだ、この人は?
それから。
陸の〝甘やかし〟は、宣言通り一日中続いた。(偶然ではあるが)二人して完全なオフだったことも手伝い、陸は一織の後ろをついていっては、あれをしてあげるこれをしてあげるとひたすらに提案を続けていた。親を見つけたひな鳥のような動きに、この人本当に年上か? と疑いたくなる。
肩揉んであげる、勉強見てあげる、台本読み手伝ってあげる、ご飯作ってあげる、お茶いれてあげる、爪を切ってあげる、お風呂いれてあげる、あーんしてあげる、エトセトラ、エトセトラ……。
肩を揉む力に遠慮がなさすぎて壊れるかと思ったし、現役パーフェクト高校生に解けない問題はないし、しばらくドラマの出演予定はないし、ご飯は三月の作り置きがあったし、お茶は自分の部屋にペットボトルがあったし、爪は切ってもらうほど伸びていないし。
そもそもあなたに爪切りを任せるなんて、命がいくつあっても足りないし?
ほぼ全ての〝甘やかし〟にNOを掲げていたら、陸はいよいよヒートアップしてしまった。
「ほら、一織! あーん、あーんして! あーん!!」
「しません」
「なんで!? いいじゃん、減るもんじゃなしー!!」
「ちょっと、うるさ……うるさいですよ!?」
「だって一織、ぜんっっっぜん甘やかさせてくれないんだもん! 酷いよー!!」
「あなたの提案が全部的はずれだっただけですけど!?」
マネージャーも含めIDOLiSH7全員集合のリビングは、いつも以上に賑やかだった。大人たちはすでに酔いが回り、環とナギは漫画談義に花を咲かせている。こんなにも騒がしい二人の攻防にも、誰一人として一織に助け舟を出してくれる相手はいない。
これだ。と一織は歯噛みする。大概、周りの人間は陸に甘い。陸が一織を甘やかそうとしていることに対して、がんばれ、と甘やかしている。
「くっ……、甘やかされのプロはこれだから……」
「へっ? なにそれ、誰の話?」
「…………」
ここまでくると、真剣に取り合う方がバカをみるような展開でもあった。
それに実のところ、陸との攻防戦の戦績は(一織としては不本意ながら)五分五分だったりする。いつものようにきちんと言い負かせられることもあれば、陸の頑固さが粘り勝ちすることもある。今回は誕生日というアドバンテージがあるぶん一織に軍配が上がるはずが、何故か今のところ、陸が若干優勢だ。
それもこれも、寮内全体に『誕生日様なんだから、おとなしく陸に甘やかされておきなよ』という空気が漂っているせいだ。
この、見守られている感。とてつもなくやりづらい。普通の人間ならあるいは、素直に言うことを聞くのかもしれないけれど。何せ一織は自他共に認めるパーフェクト高校生なので、そうそう生ぬるい空気に負けていられなかった。
ちらりと陸を見れば、意地になってスプーンを掲げていた。ちょっとぷるぷるしているのが見えて、一瞬吹き出しそうになったのを咳払いで誤魔化す。
差し出されたスプーンの上には、ミニチュアのオムライス。やけに綺麗に盛り付けられたそれは、魅力的に映った。
それに、いい加減食べてあげないと、このご馳走を作ってくれた三月に失礼である。
……だから、まあ、これは別に、この人に甘やかされることを許容したわけでは、…………。
…………。
「いーおり、ほら、あーん!」
「……諦めが悪い人だな」
「そりゃそうだよ。一織は今日、主役なんだから!」
夕焼け色が綺麗に弧を描いて、とびきりの笑顔をかんぺきに彩っている。瞳からぽろぽろ溢れる星が、テーブルの上を跳ねて一織の頬にぶつかった。……ような気がした。
――本日の戦績に、×がついた瞬間だった。
「分かりましたよ、もう……」
特大のため息を吐いて、出来るだけ大きく口を開けたというのに。
「あぁっ!?」
この至近距離で陸の狙いは何故か外れ、口の端がケチャップでびしゃびしゃに汚れたのは、言うまでもない。
それから。
三月と何年ぶりか分からない二人きりでのバスタイムを楽しんだのち、「髪を乾かしてあげる」と陸に手を引かれて訪れたのは、その人の部屋だった。
ベッドに腰掛けた陸は、ここに座って、と自分の脚の間を指す。右手に携えたドライヤーを奪う気にはなれなくて、言う通りに、床に置かれたクッションの上へと座った。
流石の陸でも、髪を焦がすようなことはしないだろう。……多分。
なんて失礼なことを考えたのもつかの間、わしゃわしゃと濡れた頭をかき混ぜられて、意外なほどの心地よさに自然と目を細めた。
頭の上から、軽やかな声が降ってくる。
「兄弟水入らず、どうだった?」
「……そりゃ、まあ、楽しかったですよ」
「だよなあ。分かる。一織、入る前まですっごい照れたのに、出てきたとき超嬉しそうだったもん。いいなあって思っちゃった」
陸が今思い出しているのは、たった一人の兄のことだろう。家庭環境が違いすぎるが故に、一織から積極的にその話を振ることはない。相槌もうまく打てず黙っていると、「あ、違うよ!?」と気づいたように陸が言った。
「……違うとは?」
「いいなあって、三月に対して思ったの。オレも一織とお風呂入りたかったーって!」
「……は、はあっ??」
またしても素っ頓狂な声を上げてしまう。思わず振り返りざまに顔をあげようとして、陸に「コラっ」と制止された。ドライヤーのスイッチが押され、温風が地肌を撫ではじめる。
「髪、乾かすだけじゃなくて洗ってあげたかったのにさあ。三月にやってもらった?」
「そんなわけないでしょう! 今も昔もやってもらったことなんかありませんよ!」
「うっそだぁ、ちっちゃい頃は絶対あったって!」
そりゃ、あなたはあったのかもしれませんけど――……きゃらきゃらと響く笑い声と風の混じった音に、その言葉は飲み込まれた。
一織の反論など半ば聞いてもいないような仕草で、陸の指先は地肌をしっかりとマッサージしていった。次に、五本の指で髪を梳くように何度も上下させて、丁寧に毛流れを整えていく。
……やたらうまいな、この人。
「あ、静かになった。気持ちいい?」
「……はい」
「あは、素直だ! ほらオレさ、ちょっとでも頭が濡れてるとすぐ風邪ひいちゃうから。丁寧にやるの、癖になっちゃった」
あっけらかんとした響きの中に、幼い頃の陸が熱を出し苦しんでいる姿が垣間見えた。それは一織の想像で、事実と細部は異なるに違いない。けれど、そういった労苦を経て、陸が今ここに存在していることは確かだ。
思わず、口を開く。
こんな言葉、気休めにもならないだろうけれど。
「……気持ちいいです。七瀬さん、うまいですよ本当に」
「やった! メイクさんになれるかな?」
「それは無理ですね」
「えっ!」
ショック、と冗談混じりで悲しむ声に重ねるように、一織は本心そのままに続けた。
「だってあなた、うちのセンターじゃないですか」
そう言った瞬間、陸の手がピタリと止まり、あれ、と思う。
しばらく姿勢を正したまま待っていると、動きは勝手に再開された。なんだったんだ今の、と考えている間に、ウトウトと瞼がおりていく。
「……眠い?」
「……いや、……」
風の音が止んで、頭のてっぺんを優しく撫でられた。その手の動きに合わせて、体からゆっくりと力が抜けていく。
甘い香りに身を委ねるようにして、結局は抗いきれず、完全に意識を手放した。そのほんの手前。
「おやすみ、一織」
かすかに聞こえた声は、ちょっと鼻声だった、かもしれない。
*
そして冒頭に戻る。
寝入りばなのことは何も覚えていないものの、子供のようにストンと落ちてしまったことを思い出し、今更恥ずかしさが募った。その上、陸はベッドからおりて一織に膝枕まで施してくれている始末だ。これが陸にとって、大成功の〝甘やかし〟であることは間違いない。
流石にもう起きねば、と今度こそ体を持ち上げると「ああー」と、大袈裟なほどがっかりした声が聞こえる。
すぐに出ていくことも憚られ、少し距離を取りながらも、正面に向き直るように座り直した。驚くほどしょげた顔をした陸が、一織を真っ直ぐに見つめる。
う……っ、と声が漏れなかったことが奇跡だった。一織は何しろ、この顔に弱い。
「……もう、戻る?」
「そりゃまあ、はい」
「じゃあオレも準備して、一緒に一織の部屋行く……」
「は? どうして?」
「え? 今日はみんなで、一織の部屋で寝ることになったじゃん」
いや、それは冗談であって、まさかあの一人部屋に七人も詰め込めるわけがない。だから三月とは、その代わりに風呂に入ったのだ。
まさか本気にしてたのかこの人、と驚愕していると、「でも」と形の良い口が言いづらそうに動いた。
「……朝方でいいからさ、この部屋戻ってきて、二人でも寝ようよ」
あんまりな言葉に、普段だったら絶対に言わないであろう「何故」を、口にしてしまった。
「……どうして」
陸が、今度は上目遣いに一織を見る。
――だから、その顔。
「一織がオレを甘やかす時、そうするから?」
「は、」
「たまに、オレがめちゃくちゃ寂しくなった時、寝落ちたフリして一緒に寝てくれるじゃん。それオレ、すごい、嬉しくてさ」
「……ちょ、は、なん……」
「ごめんな一織。オレ、気づいてた。……一織のそういうところ、大好き」
だから、生まれてきてくれて、ありがとう。
そう言って、にへらと笑う姿に、ピクリとも動けなくなった。
自分の下手な演技が、とっくに見破られていたらしいこと。それをひっくるめて、大好きだと言いだす人。
頭が真っ白になって、半ばパニック状態だ。
「もう26日になっちゃったけどさ、もうちょっとだけ、甘やかさせてよ。……って、言っちゃった時点で、オレっておまえに甘えてるのかなぁ?」
追撃の手はやまず、クラクラとめまいがした。
気づくのが、とにかく遅い。あなたも、私も。
果たして自分は、この人ほど素直に、言葉にすることが出来るだろうか。否、出来ない。まだ、勇気が足りなかった。せっかく、ひとつ年を重ねたというのに。あなたも数ヶ月後には、またひとつ年上になってしまうというのに。
今日は自分にアドバンテージがあった筈が、戦績にはまたしても×がついた。
七瀬さん。まだまだあなたには、敵いそうもない。
*
ちなみに。
ちゃんと七人で雑魚寝したあと、朝方四時に陸に起こされて、約束通り二人でベッドで寝直した。
目の前ですやすやと満足気に眠る陸を眺めて、素直に眠れるわけもなく――部屋に特攻してきたナギと環に叩き起こされた時の「やってしまった」感といったらなかった。八つ当たりするみたいに、寝こけたままの陸の鼻を、ぎゅっとつまんだ。