真っ赤なベッドに乗り上げ、二人で向かい合うように座っている。
 零れ落ちそうなほど大きな瞳。意外に長いまつ毛をけぶらせた瞼が、バチバチと音を立て瞬いていた。
 あなたね、目ぐらい閉じなさいよ。
 そう苦言を呈するための口は塞がれているし、塞いでいる。
 ソファに置いたままの指先は、二人してほんの少し震えていた。本当はお手本として、顎のひとつでも押さえて、口元を固定しながら角度を変えてみるだとか、そういうこともするべきなのだろうけど。一織にその余裕はなかった。
「ん、んん?」
 唇を、唇に押し当てるたび、陸は不思議そうに瞬きを繰り返す。全く拒否されることはなく、むしろ完全な受け入れ体制であることは変わらない。
 ただただ、不思議そうな様子を隠そうともしないあたり、七瀬陸だな、と思う。
 下手、なんだろうか? 下手、なんだろうな。
 分かってる。分かってるけれど、こんなにちゃんと〝する〟のは人生で初めてなのだから、上手く出来るわけもなかった。昨日の今日で、予習する時間もなかったし。
 お互い目を開けっ放しなせいで、視線も交わり続けている。ムードもへったくれもない。かといって自分から閉じるのは癪で、一織はひたすら唇を押し当てるに徹していた。
「……ん、ふふ……」
 何度かそうしていると、陸がくすぐったそうに笑った。笑っている場合か、と憤慨したくなるが、その代わりにぺろりと唇を舐めてみた。陸の唇はつるりとしていながら柔らかい。
「わっ!」
「うわっ」
 あまりの驚きっぷりに、一織も釣られて驚いた。一瞬距離が生まれ、冷静に見つめ合う時間が発生する。二人して同時に顔に熱が集まった。
 先に声を発したのは陸だった。
「な、舐めるのは、ナシ!」
「……どうして?」
「唇くっつけるまでって決めたじゃん」
「そんな話、一度もしてないでしょう」
「……あれ!? そうだったっけ!?」
「そうですよ」
 わざと呆れ顔を作ると、陸は「そうだったかも……」とすぐに信じた。
 が、まあ確かに、「とりあえず最初は簡単なところから始めよう」とは話していた。簡単なところ、の線引きを曖昧なままにしておいたのは一織で、そこに他意は無い。……断じて無い。
 そんなこととはつゆ知らず、陸が上目遣いでおずおずと窺ってくる。
「……続き、する?」
 これを、天然でやってるのだから末恐ろしい。思わず目を眇める。
 この男、シチュエーションが違えば、一織以外の人間にも平気で同じことをやってのけるのだ。捨てられた子犬のようでもあり、迷子になった少女のようでもあり、物凄くあざとい悪魔のようでもある、こんな顔を。すぐ他人に晒すのだから厄介すぎる。
 続き。続きね……。
「あなたがしたいなら」
「うわっ。なんだよその言い方ー! 大体一織がっ、んぅっ」
 憤慨する陸の唇を、自分の唇で塞いだ。あまり騒ぐと三月や壮五が心配してやってくる。それから環、ナギ、と続いて大和。五人を誤魔化しきることは、流石の一織でも難しいし、顔を赤くさせた陸を前に、皆が気まずくなるのも避けたかった。
 出来るだけ目を伏せ視線を外すと、陸も真似するようにゆっくりと閉じた。視覚を塞ぐと触覚が敏感になる、とは、果たして本当だろうか。本で得た知識を実践してみる。
 先程と同じく、ぺろりと唇を舐めた。陸の肩がビクリと大げさに震えて、けれど逃げない――どころか、陸もまた、一織の唇を真似するように舐めた。
 うわ、と思った。
 脳の一部が溶けるような感覚は、未知のものだ。時折熱っぽい息が互いから漏れて、たまらず陸の後頭部に手を添えた。陸も一織の腰に軽く手を添えてくるので、なんだかぎこちない姿勢でのキスになる。
 そう。キスをしている。
 それも結構、〝ちゃんとしたやつ〟を。

 ――オレさ、正直キスしたこととか全然無いんだよね。でも次のドラマでちゃんとした?キスシーンあるから、練習しなきゃなあって思ってて。ねえ一織。どうすればいいと思う? 彼女とか居ないし。でも上手く出来ないの、ダサいよね? うー……一織、なんかいい方法ないっ?
 ――ありますよ。
 ――え、ほんと? 教えて!
 ――私で練習すればいいんです。

 正直、それ以上に簡単な方法を思いつかなかったのだ。まさかプロの女性をあてがうわけにもいかず(そもそもそういったパイプはない)、今から彼女を作れとも言えず(この大事な時期にあり得ない)、メンバーに訊いてみろとも言えず(〝七瀬陸〟というピュアモンスターを前に経験則を堂々語れるとは思えない)……であるなら、自分が一肌脱ぐしかなかろうと。
 だから、キスをしている。簡単な、けれどちゃんとしたやつを。
 陸も、一織の提案を素直に呑んだ。確かにそれしかないよね、ぐらいのテンションで。
 もし、タイミング的に陸が一織以外に相談していたとして、更に一織と同じ提案をどこぞの誰かがしていたとしても、陸はそれを呑むだろう。すみません、協力してくれて、有難うございます! とか言って頭を下げている姿も想像に易い。
 そう思うと、なんだか無性に腹立たしかった。
 イラッとしたついでに、下唇を甘噛みしてみる。すると、陸が声をあげそうになって、その前にもう一度塞いだ。ちゅ、ぺろ、はむ、と繰り返してみる。陸もまた、それに合わせて、肩を震わせながらも、しっかりと真似した。
 なにせこれは練習なので。
 唇を甘噛みされると、背筋にぞわぞわとなんとも言えない感覚が走る。衝動と言うには弱々しく、気のせいにするには確かすぎるもの。
 きっと陸も同じなのだろう、は、は、と息を上げながら、下がった眦には涙が滲んでいる。
「……ん、ふ……、は、」
 陸がぼんやりと瞼をあげて、夕焼け色の瞳をとろつかせる。これは絶対、地上波NGの顔だ。というか公共の電波全般NG。むしろ自分以外に見せるのNGだ。色々と問題になる。
 添えるだけに留めていた、後頭部に回した手にぐっと力を込めて、もっと唇を密着させた。簡単なもの。触れる。舐める。噛む。
 ……舌はどうだろう?
 唇を食むと自然にうっすら開かれて、その隙を縫うように舌を挿し込んだ。流石にぎょっとした陸が体を強張らせたものの、力を込めて抑え込んでいる為か、そこまで強い抵抗はなかった。すぐに、これも練習だと切り替えたらしい。奥に引っ込んでいた舌を、一織自身の舌先でつつくと、そろそろと触れ合わせてきた。
 くちゅ、と唾液が交じる音が耳の奥に届いて、ぶるりと震えた。瞬間。
「っ、一織ッ」
「わっ、と、……な、何ですか!? いきなり!」
 力の限り胸元を押されて、唇が離れるどころか仰け反りかけた。腹筋に力を込めてなんとか堪えたものの、ほぼ成人男子の全力はそれなりに打撃が重い。
 二人の間に流れていた、熱っぽい空気は一気に霧散して、いつものそれに戻った。唾液でべとべとになった口元が突然鬱陶しく、ゴシゴシと袖口で拭く。陸はそれすらせず、ぐるりと後ろを向いたかと思うと体育座りをした。
 突然全身で拒否を示され、ムッとする。
「ちょっと。態度悪くないですか、七瀬さん」
「いや、うん、えーと」
「あなたね、協力してあげてるんですから、ちゃんと最後まで――」
「ごめん無理! オレ勃っちゃったから!!」
「え」
 そこから数秒。
 耳が痛くなるほどの沈黙が流れた。陸は、自分が言ってしまったことに対し、分かりやすく頭を抱えている。
 暫くその様子を見守ってから、はっ、と気づいた。このまま何も言わないのも、得策ではない。出来る限り普通の態度を装い話しかける。
「ええと、そうですか。それは、その」
 かける言葉を見つける前に、陸がそこに勢いよく被せてきた。
「ほんっとごめん! でもね、一織に勃ったわけじゃなくてね、こう、キスしたらなっちゃったっていうか、キスってこんなエロいんだ〜〜って思ってたら、……いやこれ、一織で勃ったみたいなもんだよな……。ええ? 嘘だぁ……。ほんと、ほんとにごめん……。今度、アイス奢るから、許して……」
 謝罪は言い訳になり、言い訳は独り言になった。
 そもそも仕掛けたのは全て一織からで、陸は基本受け身であり、しっかり練習をしよう、と意欲的な生徒だったに過ぎない。あそこまで分かりやすい粘膜同士の接触があれば、生理現象が起こるのだって別に不思議ではないのだ。
 それなのに、陸本人はかなり困惑しているようで、ひたすら謝る姿にはいじらしさみたいなものを感じてしまう。
 というより。
 ……かわ、…………。
 ……………………………。
「あ、」
「ぎゃあっ! すみません、お説教は、明日……いや、明後日、……来週聞くから……!」
「……別に、怒ってませんけど」
「そうだよね、ほんとごめ……って、えぇっ?」
 本当に、怒っていない。どころか。
「…………私も、今、同じことが起こっているので。怒る理由がありません」
 ――嘘でしょ?
 陸の「信じられない」が詰めこまれた声が届く。
 嘘じゃない。嘘じゃないうえ、キスで兆したのではなく、陸のいじらしさに兆したので、こっちの方がよっぽど重症だ。自分でも、普通に引いた。勿論キスがきっかけで、脳から送られるシグナルがバグったことは間違いないが。
 ……まあ、なら、キスが原因。でいいのか? そんな簡単に片付けてしまっても?
 かといって、深追いしても良いことはないように思える。
「まあ、このことは他言無用ってことでいいんじゃないですか」
「そりゃまあ……こんなこと、誰にも言えないよ……」
 なんとも微妙な空気。一織のそれはすでに治まっていて、陸も恐らくこの空気で落ち着いているだろう。一織はいそいそと立ち上がると、ベッドから降りた。
「あ、か、帰る?」
「はい。もう練習も十分でしょう。正直、普通に気まずいですし」
「あは、素直〜〜……」
 まあオレも気まずいんだけどさ、と未だ一織に背を向けっぱなしの陸は、ぽりぽりと頭を掻いた。一織の方に向き合おうとしないのは、その延長だろう。まあ当然か、と軽く息を吐いて、
「うまくいくといいですね。撮影」
 と言い残し立ち去ろうとしたところで、「あの!」と呼び止められた。
「……はあ。なんですか? もう夜なんですから、あまり大きい声は――」
「オレ、オレさ、あの、その〜〜〜……」
 陸が、体育座りのまま、つま先をよいしょよいしょと動かして一織に向き直った。
 は? なんですかその動き。
 あまりの〝アレ〟さに驚愕する。更にはお得意の上目遣いが炸裂して、真正面から食らった一織は、今世紀最大と言っても過言ではないほど(過言である)眉間に皺を刻んだ。
「だから、なんですか」
 潤んだ瞳は、捨てられた子犬のようでもあり、迷子になった少女のようでもあり――

「このあと、一織のこと考えて、抜いちゃうと思う。ごめん……」

 物凄くあざとい悪魔のようでもある。
 こんなの、ワザとであれ、と願う他ない。天然でやられてしまったら、命がいくつあっても足りなかった。無論、一織の話だ。
 背筋どころか全身に走る痺れに、どう折り合いをつけることも出来ず――仕方なくもう一度キスをした。
 今度は軽く、押し倒すような形で。まあいいだろう。練習は、いくらしても困らない。
 ……多分。

   *

 余談だが、ドラマでの陸のキスシーンは『甘酸っぱくて爽やかで、清潔感でいっぱいだった』と大好評を博す。
 練習と全然違うじゃないか、と。一織が首を傾げている後ろで、陸は悪戯が成功した子供みたくピースサインを掲げていた。


天然70,計算30