■2021年6月

「モモちゃん、延長って本当にできない?」
「うん。ごめんね。ちょっと無理なんだ」
「お金なら払うよ?」
「んー、予約するときにも規約に書いてあったと思うんだけど、バレたらオレが辞めなきゃいけなくなっちゃうからさ」
 人好きする笑顔には「これ以上わがまま言わないでね」と書いておく。
 すると、腕を掴み離さんとしていた男はすぐに怯んで、「ごめんね」と謝った。
「だからまた」
 そう続きそうな言葉の前に、求められている言葉をこちらから言ってやる。

「よかったら、また予約してね。今日、すっごい楽しかった!」

  *

 やってることホストと変わんないじゃん、と瑠璃――姉ちゃんは言うけれど、全く別物だとオレは断言出来る。
 〝通常〟、ホストほど金はかからないし、時間制だし、裏引き――店を通さずに客を取ること――がバレたら、いかなる理由であろうと即刻クビだし。
 客から金を搾り取るようなことは一切なく、建前なしの『健全な友好関係』のみを築く、そんな仕事だ。
「いや、健全って! モモのこと狙ってる人多いんじゃないの?」
「そうでもないよ? それに、本気で迫られたってさ、オレが応えなきゃいい話なんだし」
「えー……。いつか刺されそう」
「わはは! そんな下手打たないって」
「ユキじゃあるまいし?」
「ぶはっ、そうだね。ユキは、下手っぴだったからね〜」
 数年前から実家を出て一人暮らしをしているオレは、こうして月に一度、姉ちゃんと近況報告会を開いている。
 新婚生活を謳歌している姉ちゃんに比べて、オレと言えば姉ちゃんきっかけでとあるホスト――『千』にドハマりし、そのままエース――担当ホストに最も売上を貢献する客――にまで上り詰めてしまった。
 男のホストに男の客がつくこと自体珍しいのに、エースだなんてついぞ聞いたこともないと、何度言われたか分からなかった。
 それこそ担当被りの客とか、被りとか、被りとか、ユキを蹴落としたい古参とか中堅とか新人とか、色々。男のエースがついていることが汚点だと思われないよう、オレがエースになって以降、担当ホストであるユキには、一度だってNo.1を譲らせたことはない。
 何せ、ユキの月間売上のほぼ半分を、オレが支払っている現状だ。
 そんな真似、あの店では誰も出来なかった。そこに特別、優越感はない。それが当然だから。
「っていうか、エースって月数百万使わなきゃなれないんでしょ? 前から思ってたんだけどさ、モモ、借金とかしてるんじゃないの……?」
 代官山のカフェテラスで、木漏れ日が肌を撫でる中するような話ではないと、きっと姉ちゃんも分かっている。ひそめられた声には本気の心配が滲んでいて、思わず「にゃはは」と笑った。それは確かに、もっともな心配だと思ったので。
「だーいじょうぶ! そのための副業じゃんか!」
「いやでも……普通に考えて、その仕事だけで稼げるわけないじゃん。なんだっけ、……レンタル彼氏?」

 ――いや、それが案外いけちゃってんだよね。

 と、言ったところできっと信じてもらえない上、根掘り葉掘り訊かれる可能性も否めなかったので、「大丈夫だから」と念押しして、優しく微笑むに終始した。
「株やってる」とか言って誤魔化しとけばよかったなー、なんて思いながら。


 レンタル彼氏。
 ご依頼いただいたお客様の彼氏役として、一日一時間から予約を承り、その時間中デートをさせていただくお仕事。こちら、公式サイトからの引用。
 デートと言っても、愚痴を聞いたり奢られてあげたりすることも多く、内容は多岐に渡る。
 接触については手を繋ぐことだけが許され、ハグやキスは当然NG。客に無理やり迫られて仕方なく、だったとしても、規約を破った時点でキャストの方が即刻クビ、という意外とシビアな職場だ。
 オレはその仕事で、自分で言うのもなんだが、最も人気のキャストだった。
 キャストによって相場が変わるとはいえ、〝通常〟手取り一時間1万6千円程度として、オレの時給はそのおよそ十倍以上、一時間15万〜20万という超がつくほどの破格が設定されている。
 1回のデートで、最大80万。それを週に3回×3週で720万。
 この金額を、同じ箱のキャストは誰も知らない。というか、トップシークレットである。
 わかりやすい性的な見返りを要求されない分、その金額の異様さは確かなものだ。

 相手は芸能関係者や政治家が多く、男女比は3:7。
 高い金を払うからこそ安心感を得られるという心理は、高級ブランドに対する信頼に近い。
 その分、オレもしっかり期待に答えるような働きはしているつもりだ。
 金額に見合う価値のある会話を目指すのではなく、相手が望む、明るく優しい自分でいること。
 『モモちゃん』が『モモちゃん』であることを何よりも大切に。
 犬のような人懐っこさは生まれつき。危機回避能力は高い方。笑顔が可愛いと言われ続けた人生。その全てが奇跡のように噛み合った結果が今だ。
 偶然ついた一人の太客から、オレの客層は物凄い勢いで広まる――どころか狭まった。紹介客以外、もうオレは新規の受付を停止していた。単純に需要に対して体が足りないのだ。
 ホストと比べられがちな仕事ではあるが、客取りのシステムも全く異なる。客はオレを独り占めしたいと考えたとしても、予約のシステム上、独占が出来ないようにしていた。
 わかりやすく言うと、オレ〝だけ〟は、連続で申し込めなくなっている。
 平日、一般企業の営業として働いているオレは、定時後にレンタル彼氏の仕事を始める。その『19時から22時までしか会えない』という狭き門をくぐり抜けようとすると、結局回線強者が勝ってしまうのだ。
 それを回避するために、1枠1回と4時間とし、連続予約をNGにした。
 そのシステムはオレから提案したもので、それ以降はいい感じに客もローテーションするようになった。数時間の間で客をコロコロ変える必要がないのもタイムロスがなくて助かるのだ。
 利点は他にもあった。
 太客は、大のお気に入りである『モモちゃん』を、どこの馬の骨とも知れない人間にお手つきされたくないと考える。となると、知人や友人に『モモちゃん』を予約させた方が、手っ取り早く安心出来るのだ。
 そしてその紹介客もオレを気に入り、予約を取り始まる。すると今度は別の知人に店を紹介し……といった感じで、客足が全く途切れないのである。オレがこの店に籍を置き始めてからというもの、店の売上は過去類を見ないほど上がった、らしい。
 ホストなら、こうはいかない。そもそものハングリー精神に欠くし、女性が苦しみながらも自分に必死に貢ぐ姿は見ていられないのだ。
 あくまで、金が余っている人間が自分の好きに使ってくれる程度がちょうどいいのだ。
 それがとても贅沢な話であることは、十分に理解している。
 だからこそ、巡り合わせとは面白いと思う。自分に向いた副業に就けてよかったと、心底感謝していた。
 そもそもホストは、常に色恋と共にある。恋愛感情で他人を縛り付けることほど難しいことは、この世にそう無い。
 オレ自身、そういった欲を向けられるとが全くないわけではないけれど、仕事以外では絶対に会えないどころか、自分が色恋を迫れば『大好きなモモちゃん』が辞めざるを得ないことを知っている客は、無理強いをしたり、自殺宣言をして脅しをかけたりはしない。先日の客のように、すぐに引いてくれるのが常だった。
 定時で上がることが難しいとされる営業職も、オレは持ち前の要領の良さで日々定時退社だ。その後、空いた時間でレンタル彼氏をこなす。
 そうして貯めた金を、ユキのために一気に使う。それオレの、最近のルーティーンだ。エースになって、そろそろやっと半年。
 働く理由が「ユキをトップにする」の一点集中が故にやり甲斐を感じるし、どちらの仕事も真剣に打ち込める。
 有り難いことに副業の稼ぎが良すぎるのもあって、生活に困窮するようなこともなく、本業の稼ぎで貯金まで出来ていた。


 だから本当に、姉ちゃんが心配する必要は一つもないのだ。
 例え可愛い弟が、一人の男に貢ぎ続けていようとも。
 金遣いが、異様に荒く見えようとも。


「あ、やばっ。そろそろ行かなきゃ!」
 手首に巻かれたスマートウォッチを見て「じゃあね」と姉ちゃんに手を振り別れを告げる。何か言いたげな表情は、申し訳ないけれど気づかないフリをさせてもらった。
 そういうことが、増えてしまったように思う。昔も今も、他人の機微にはそれなりに敏感で、立ち回り方も心得ている方だった。その上で、自分に都合の悪いことを黙殺したり、誤魔化したり。それが大人になるということなら、オレは結構、〝いい大人〟になってしまったんじゃないかと思う。
 迷いも、後悔もないけれど。

 小走りで駅へと向かう。店は新宿・歌舞伎町。代官山からはそう遠くなかった。
 電車に乗り込み、店に向かう瞬間が一番好きだ。

 ユキに出会いたての頃は、時間を見つけて店に通っては、都度数万ほどの支払いをしていた。
 けれどある日、オレの中で明確な欲望が芽生えた。それと同時に、その欲望を叶えるためには、子供騙しの金額ではどうにもならないことにも気づいたのだ。

 だから金が必要だった。大金が。
 それさえあれば、いつかオレの願いは叶う。そう、信じている。
 そしてその願いが叶えば、オレはホスト通いも、レンタル彼氏も辞める。
 姉ちゃんが心配するようなことは全部無くなって、今の会社で永久就職を目指し一所懸命に働くだけだ。

 全ては、ユキがホストを続けてくれているお陰だった。
 
 ユキ。ホストになってくれて、ありがとう。
 何度も言ってる。その度に微妙な顔をされる。
 それも飽きもせず、何度も言うのだ。

 この楽園で、オレとユキを出会わせてくれて、ありがとね、って。

  *

「今日って百くん感謝デーだろ? 何時に来るの?」
「……それ。その言い方やめて」
「じゃあ『No.1がずーっと待ちぼうけの日』に変えるか?」
「うるさい。ほら、万の客来たんじゃないの。あの子メンヘラなんだから、早く行ってあげなよ」
「おまえなあ、口が悪いぞ。傷つきやすい子って言え」
「それ、マジで言ってるならホラーだから」
 肩を竦めながら立ち去った万の背中を、胡乱な目つきで刺す。
 万はうちのNo.2であり、色恋を仕掛けないのにガチ恋量産機と言われている。他人を依存させることが得意で、その性質が自分にあることを理解して、非常にうまくコントロールしている。
 とはいえ、万のことなどどうでもいいのだ。右手で握りしめていたスマホに目を落とす。
 十五分ほど前にモモから「もうすぐ着きます!」のスタンプが押されてからというもの、今か今かと待ち侘びていた。
 こんな風に僕を待たせていいのは、この店で間違いなくモモだけだ。

 普段であれば開店から客足が絶えず、ホールに出ずっぱりの僕は今、バックヤードで脚を何度も組み替えては彼一人のために待機している。
 普段バックヤードを根城にしていると言っても過言ではない新人ホストや低ランクのホストたちは、僕の機嫌を損ねないよう、用もないのにホールに立たざるを得ないでいた。
 最近モモは、僕のエースになった。故に以前よりは高頻度で店に足を運んでくれるようになったが、それでも毎日とは行かない。
 クリスマスや誕生日などのイベントは必ず足を運んでくれるが、仕事が忙しいのだと言う。
 本当は僕から会いに行きたいし、会えるものなら、毎日でも会いたかった。
 そう。僕はモモを、気に入っている。よき友人であり、特別な存在だった。
 それなのに、モモはすぐに『ホストと客』の関係を持ち出す。
 じゃあホストを辞めてしまえば、とは何度も考えた。一人の人間として、僕と向き合って欲しいという純粋な欲もあった。
 それなのにモモは言う。
『オレはユキをNo.1に、トップにしたいんだ』
 と。
 それが人生の目標にまでなっていると言うのだから、呆れた。その上、本当にその目標を叶えてしまったのだから凄まじい。
 僕だって、年を取ったり、怪我をしたり。いつかはホストを辞めるかもしれないよ。
 そう伝えたところで、モモは諦めなかった。僕がホストでいるうちは、ずっとずっと、一番でいて欲しいのだと言う。
『ユキが、テッペンでピカピカ光ってるところ見ると、オレ。ほんっとに生きててよかったーって思えるんだよ』
 そんなこと、キラキラと目を輝かせながら、言わないで欲しかった。


「千! 百くん来たよー」
 ホールから万の声が聞こえて、慌てて立ち上がる。入り口横の姿見でシャツの襟を整えて、寸分もズレていないネクタイを改めて正した。
 オフホワイトのスリーピース。タイドアップを好むモモのために選んだネクタイのピュアブラックがよく映えている。
 オーダーメイドのそれは生地からモモに選ばせたもので、思い出深い一着だ。モモのためのスーツ。
 だから、彼が来てくれると分かっている日にだけ着ると決めていた。
 ドアをくぐってホールへと向かう。締日が近いこともあってホールは異様に活気づき、がやがやと酷く騒がしかった。
 しかし自分が一歩フロアに出た瞬間、ほとんどの客が息を呑んだのが分かった。

 幼い頃から浴び続けてきた不躾な視線。
 しかしそんなもの、気にしない。
 だって。

「ユキ!」
「モモ。待ってた。遅いよ」

 ――君が僕を見つめることしか、興味がないから。


■2018年8月

「ほ、ホストぉ!? 姉ちゃんそんなのに行きたいの!?」
「ちょっとモモ、声大きいって! お母さんたちに聞かれたらどうすんのよ!!」
「そ、それって後ろめたいってことじゃん!」
「そりゃそうでしょ!!」
 そ……そりゃそうなのに行きたいのかよ!
 姉ちゃんの突然の告白に、ドーナツをむしゃむしゃ食べていたオレは空いた口が塞がらなくなってしまった。だってそうだろ。こんな世紀の大告白、日曜の昼下がりにするようなことじゃない。せめてこう、夕方とか。出来れば土曜の夜がよかった、気持ち的に。
 もはやドーナツどころではなく、食べかけのそれを置いてひとまず状況を整理する。
 実家のリビングには、姉ちゃんとオレの二人きり。両親は結婚記念日ということで、食事に出掛けている。このタイミングを、きっとずっと狙っていたのだ。だってオレは、わざわざ実家に呼び戻されたわけだし。
 結論。完全なる計画的犯行。
 大きなハートのクッションに顔を半分埋めて、姉ちゃんが呻くように言った。
「……バンさんが、いるんだもん」
「……バン? って……あの〜〜、なんだっけ、リー……ヴァル?」
「違う! Re:vale!! ……解散しちゃってから、完全に消息掴めなくなってて。そしたら、歌舞伎町のホストクラブに、キャストで入ってるって……聞いて……」
 おい。誰だよその情報流したヤツ。余計なことを……。
 姉ちゃんの消え入りそうな声からは「会いたい」という想いが滲んでいたけれど、だからといってホストに行くことを容認できる弟はいないだろう。姉弟仲が良いなら尚更。オレは思いっきり顔を顰めて「ダメだよ」と意思表示した。
 姉ちゃんがRe:valeという地下アイドルにハマっていたことは、勿論知っている。散々ライブにも誘われたし、都度断っていたから。その時はサッカーが忙しかったのと、彼女もいたし、音楽というジャンル自体に、さほど興味がなかったから。
 家で四六時中流れているから、曲自体全く知らないわけではないけれど。歌詞も何も、全部うろ覚え程度だ。
 オレがRe:valeに興味がないのをいいことに、姉ちゃんは『バン』がどれだけ格好良くて歌が上手く性格が良いか、ということを耳がタコになるほど教えてきた。
 二人組ユニットで、バンの片割れが顔面と引き換えに性格が終わっていることも、ちゃんと知っている。
 片割れの名前、なんだっけ。
 えーっと、ユ……ユ……?
「ユキさんも同じ店にいるんだって」
「ああ! そうだ、ユキ!」
「え、なに。モモってユキさん推しだったっけ?」
「いやいやいや、会ったこともないし顔も知らないしッ!?」
 何言ってるんだと頭を横に振れば、姉ちゃんは泣きそうに顔を歪めて「ううう」と呻いた。
 オレがユキ推しであることに一縷の望みを賭けているあたり、かなり本気だし必死だし、めちゃくちゃだ。
 オレがもしユキのファンだったとしても、「ホストになったなら会いに行ってもいいよ」とはならないだろ、絶対。むしろアイドルの追っかけをしていた時の方がよっぽど安心して見送れた。
 ある程度、物理的距離があるバンドマンに入れ上げることと、ホストに入れ上げること。
 その違いは、その道に詳しくないオレですら理解出来る。しかもホストって、バカみたいに金がかかるんでしょ。いくら実家暮らしの社会人と言えど、貯金だってそれなりにしなきゃいけないわけで。
 ダメだ。考えれば考えるほど、止める理由しかない。
「えーっと、ユキだっけ? そいつも店にいるってことは、実質Re:valeじゃん。姉ちゃん、絶対ハマっちゃうじゃんか」
「そうだよ、絶対ハマっちゃうよ」
「いや分かってるなら」
「だからモモ、ついてきて」
 は?
「…………は?」
「つ・い・て・き・て!」
 じゃなきゃ、ここで泣き喚いて死ぬほど困らせてやるから。
 そう言った姉ちゃんの目は、本気だった。

 元来、弟という生き物は姉に逆らえないように出来ている。
 オレも勿論、弟という種族の一人なわけで。
 ぷるぷる震えながら瞳に涙を溜める姉ちゃんを前に、オレは目の前が真っ暗になった。

 …………マジかよぉ〜〜〜!!!


   *

 ド派手なシャンデリア、むせ返るような香水の匂い、怖いぐらい騒がしい店内、有象無象の人間。
 完全なる異世界ぶりに滝のように汗を流しつつ、オレの視線は膝の上に固定されていた。ぎゅっとパーカーの裾を握り締め「早く帰らせてくれ」と、ソファに座った瞬間――いや、店内に一歩足を踏み入れた瞬間から祈り続けている。
 向けられる視線で、含み笑いのコソコソした話し声で、すぐに理解した。
 ここは、絶対、男が来る場所じゃないんだと。
 普段から友好的かつ好意的な視線ばかりを向けられてきた――とたった今自覚した――オレにとって、無遠慮で露悪的な他人の視線は、必要以上に攻撃的に感じた。
 ――アイツ何しに来たの? あの女、彼氏同伴かよ。冷やかしは帰れってくださーい。
 そんな声が普通に聞こえる。めちゃくちゃ怖い。治安悪い。恐ろしすぎて辺りを見渡すことも出来ず、オレは兎が如く震え上がっていた。
 やっっっばい、ホスト舐めてた。ホストっていうか、ホストのお客さん舐めてた。
 そりゃそうだよな、自分のテリトリーに、よく分かんない男入ってきたら、ウザいし排除したいよな、普通……。
 姉ちゃんはそんなオレの落ち込みなど露ほども気にせず、というか気づく余裕もなく、『バン』の登場を今か今かと待ち侘びている。メンタルはさほど強くないくせに妙に度胸があって、それに困らされるのはいつだって弟のオレだ。今回も見事に割りを食っているように感じる。
 聞くだに、バンはこの店のNo.2。初回で来た安い客の指名を受けている場合ではない……ということを、最初についてくれた新人っぽいホストに言われ、今のところ待ちぼうけの状態が続いていた。
 バンの体が空き次第席に着くとは言われているものの、いつになるかは分からなかった。
 本来であれば、それこそ最初の新人っぽいホストたちが席について酒を飲んでいくらしいが、姉ちゃんがあまりに慣れていない様子だったこと、何よりオレが側にいることで、ボックス席に姉弟二人、並んで待つことを許されていた。
 ……だからこそ、気まずい。気まずすぎる。
 もう、帰っちゃダメ? 姉ちゃん、帰りがけ牛丼でも買ってさ、家帰って食べようよ。反省会しよう、反省会。
「……モモ、モモっ」
 内緒話をするようなトーンで、姉ちゃんが突然オレの肩を叩く。浮かれた、それでいて熱っぽい声は、普段の〝姉〟ではない〝女〟を感じさせられて、微妙な居心地の悪さを感じる。
 思わず、想定よりも低い声が出た。
「……なに」
「あれ! あそこにいるのがバンだよ。ほら、あの角の席の……」
 指先を追うように視線を向ける。自分たちの席から、二つほど先のテーブル――そこには確かに、他のホストとは明らかに空気の違う男が座っていた。
 所謂『ホスト』という職業から想像する出立ちとはおよそかけ離れている。肩より少し短いぐらいの黒髪は艶があり、ワックスで固めたりはしていないようだった。お客さんなのだろう隣に座る女性に、糖度100%みたいな笑みをたたえながら会話を楽しんでいる。
 横顔だけでも分かる。
 めちゃくちゃ、イケメンだ。
「か……っこいい……ね……」
 思わず、声になって漏れた。
「でしょでしょ!? バン、あんなにイケメンなのに変に威張ったりしないし、鼻につくようなこともないし、何より超、超、超優しいんだよ……っ」
 きゃーっ、と、当時のことを思い出したらしい姉ちゃんがミーハー全開で小さく叫ぶ。完全にファンの顔に戻っていて、それにはちょっとだけ安心した。
「知ってる。ライブハウスで姉ちゃんが変な男に絡まれてた時、助けてくれたんだろ。百回聞いた」
「あと千回話すし!」
「マジで勘弁して……」
 がっくりと項垂れると、「ひえっ」と姉ちゃんがもう一度叫ぶ。
 今度はなんだと顔を上げれば、件のイケメンがこちらの席に近づいてくるところだった。オレもすかさず「わっ」と声が出て、似た者姉弟すぎるだろと若干落ち込んだ。
 でも、仕方ないって。このカッコよさ、普通に異次元だもん。
 スタイルの良さをこれでもかと主張するような細身のセットアップはダークネイビーで統一されていて、シャツのオフホワイトが恐ろしく映える。
 頭のてっぺんからつま先まで完璧に手入れが行き届いた姿は、それなのに不思議と威圧感がなかった。
「こんばんは。遅くなってごめんね」
 うっわ、声まで、めちゃくちゃいいんだ!? それであれだ、いらっしゃいませって言わないんだ!?
 姉ちゃんが悲鳴をあげかけて、パッと口元を両手で押さえる。はくはくと手のひらの下で口が動いていることが分かって、真っ赤になった顔と潤んだ瞳が、我が姉ながらめちゃくちゃ可愛かった。
 こんな顔されたら、普通どんな男もちょっとは反応する。相当姉贔屓な発言だけど、それぐらい、可愛かった。
 なのに件のイケメン――バンは、姉ちゃんの隣に腰を下ろしながら「あははっ」と人好きする笑みを見せるだけだった
「ええっ!?」
 思わず叫ぶと、バンがこちらに視線を移した。きょとんとした顔で、
「君、この子の彼氏……かな? こういう場所、彼女が来るのOKなの?」
 と、とんでもないことを言った。
「いやッ」
「ちっっっっっっっがいます!! こいつ、ただの弟です!!!」
 店中に響き渡るぐらい大きな声に、店がシン……と一瞬静まり返り――それからすぐ、元の喧騒を取り戻した。
 ――ああなんだ、弟ね。SP同伴ってこと? ていうか声デカすぎ。
 嘲笑めいた話し声がそこかしこから聞こえ、姉弟揃って、顔を真っ赤にさせる。特に姉ちゃんは、バンに出会って五秒で醜態を晒したことによりパニックに陥りかけていた。
 あ、いけない。オレがなんとかしなくちゃ。
 そう思ったと同時に、バンが、姉ちゃんの顔を軽く覗き込み「大丈夫だよ。落ち着いて、深呼吸して」と言った。微笑むでもなく、ただ当たり前のように。
 肩に腕を回したり、震える指にてのひらを重ねたりもしない。適切な距離を保ち、警戒されないギリギリのラインをしっかりと守っている。その仕草があまりにもスマートすぎて、カッコよすぎて、オレはただただ呆然と見つめるしかなかった。
「誰も、君を迷惑に思ったりなんかしてない。それにこれからは、ずっと楽しい時間が続くよ」
「……へ」
「……ちょっとだけ、触っても?」
 姉ちゃんは惚けながら、こくこくと頷く。バン――いや、バンさんは、ふわっと花を咲かせるような笑みでもって、ぽんぽん、と遠慮がちに姉ちゃんの背中を撫であやした。
「俺が傍にいるよ。安心して、楽しんでいってね」
 バンさんの笑顔は、何故だか「絶対に大丈夫」だと思わせる力があった。それを多分包容力と呼ぶのだろう。慈しみさえ覚えるようなそれに、姉ちゃんも、オレすらも見惚れる。
 それからしばらくして――「はい」と、なんだか憑き物が落ちたような――むしろ全部奪われてしまったような声が、隣から聞こえた。


 それからが大変だった。
 姉ちゃんはアイドル時代からバンさんが大好きだった旨を必死で伝え、誰に強請られたわけでもないのにシャンパンをバカスカ入れ、オレの制止虚しく他のホストにも沢山、たっくさん酒を飲ませた。
 とにかくバンさんに良いところを見せたい一心で、涙ぐましい努力を重ねていく。バンさんが「もう大丈夫だよ」と言っても、全然言うことを聞かないのだからどうしようもなかった。オレはオレで、自分の言葉が姉ちゃんに届かないことが悲しくて、途中から全部を諦めて置物に徹した。お金は、オレが払えばいい。そう思った。役立たずの弟だと、罵られる覚悟はもう出来てる。
 姉ちゃんが毎日コツコツ必死になって働いて貯めたお金は、この店の人間にとっては端金にもならないだろう。その事実も、オレを悲しませる要因の一つだ。
 バンさんだって、あんなに人が良さそうでも、ホストはホストだ。ちゃんと、姉ちゃんを客として扱っているし、お金を払われることに罪悪感はなさそうだった。当然だ。それがバンさんにとっての仕事なんだから。
 バンさんは姉ちゃんが喜ぶことこそすれ、嫌がることは一つもしない。
 優しく微笑んで、好きだと言われれば「有難う」と返し、カッコいいと言われれば「瑠璃ちゃんも可愛いよ」と返す。
 完璧だった。
 姉ちゃんの緊張が臨界点を突破し、酔いが回り過ぎてオレの肩で眠り始めた時――やっと、地獄の時間は終わりを告げた。
 時間にして、一時間にも満たなかったと思う。とはいえ、シャンパンは入れたものの高額なものでもなく、初回の安客に対して店のNo.2が滞在してくれるには、いささか長すぎるような気もしていた。
 すやすやと呑気に寝息を立てる姉の頭を、ゆっくりと膝へおろす。少し乱れた髪を撫でつけると、バンさんが「本当に仲が良いんだね」と穏やかな声で言った。
 それがなんだか、びっくりするぐらい普通の声だったので、オレはちょっと力が抜けてしまった。
 初めて、素の部分を見た気がして。
「……お仕事モード、やめたんですか?」
「営業トークがご所望だった? 俺と二人っきりでそれは、流石に君が気後れしない?」
 その通りだったので、コクリと頷いた。バンさんの言葉は整然としているから頭に入ってきやすくて、なんというか学校の先生とか、事務員さんとか、そういう人たちに近い安心感がある。どう考えても、ホストを生業としている人に思うことではないんだけど。
 とはいえ、顔は変わらずイケメンなので。未だ微妙に直視出来ない。
 オレって顔が良い人に弱かったの? 女の子だったら、それこそ今日の姉ちゃんみたいになってた? ってことは、男のオレは、キャバクラとか行かない方がいいタイプ……?
 なんてぐるぐる考えていると、バンさんが先ほどよりも静かな声で告げた。
「もう、お姉さんはここには来させないでね」
「…………え?」
 思わず声の方を見れば、バンさんはどこか申し訳なさそうに微笑んでいる。
 それは多分ホストの『バン』じゃなくて、昔の『バン』の顔だ。何も知らないオレでも分かった。
 ――なるほど、姉ちゃんが惚れ込むわけだ。
 こんな顔されて、この人を嫌いになれる人って、多分いない。
「瑠璃ちゃん……彼女のこと、覚えてたよ。いつも熱心に通ってくれてたから。ファンの数、凄く多かったわけじゃないしね」
「あ、えと、Re:vale……の、ライブですか?」
「うん。でも、俺も、……あいつも。あの頃とは違う方法で生きてる。もう、昔と同じように満足させてあげることは出来ないんだ」
 バンさんの瞳の色は灰色のようにも空色のようにも見える。どこか遠くを見つめる瞳は、あの頃を思い出しているのかもしれなかった。
「ファンだった子がお店に来てくれるのは、実はこれが初めてじゃないんだ。全員初回だけ遊んでもらって、それで終わりにしてもらってる」
「……折角会えたのに?」
「折角会えたからこそ。……せめていい思い出にしてもらえたらいいなって。ごめん、これは俺のエゴだね」
 Re:valeはなくなった。でもバンさんは、本当は別の形でも続けていきたかったのかもしれない。
 勿論それはオレが知る由もないことで、勝手な想像でしかないけれど。でも、そうでなければこんな風に、贖罪のような形でファンを楽しませようとは思わないだろう。
 ぎゅっと、手のひらを握る。
「……姉ちゃんがこんなに楽しそうなの、本当に久々に見たんです、オレ」
「うん」
「だから、もうここに来れないって知ったら、きっと悲しむ……」
「じゃあ君は、彼女がこのまま俺に入れ込んで、ダメになってもいいの? どんどん深みにハマって、お金の稼ぎ方も変わっていくかもしれないよ。今の会社に言えない仕事を始めるかも。……俺はそういう子たちを沢山見てきたし、止めたりもしなかった」
「……」
「彼女たちがそうしたいと思うなら、その行動を〝尊重〟するんだよ。……どんな結果が待ってるか、知っているのに」
 現実を教えてくれるこの人は、優しい。
 ここが底なし沼のスタートラインであり、最後の砦であることもしっかりと教えてくれている。
 確かに、今日の姉ちゃんの行動を前に、ここから事態が好転するようにはとても思えなかった。
 ダメになっていいか、なんて。
 いいわけない。いいわけないけど。
 膝の上で寝息を立てる姿を、静かに見下ろす。オレの手ぐしで簡単に乱れが直る美しい髪が、シャンデリアの光を吸い込んで艶やかに煌めいていた。
『バンに会えるんだ』って、この店に来る決めてから美容院やエステへ通い、買い物にだって散々付き合わされた。
 ――今日の姉ちゃんは、とびきり綺麗で、この店で一番可愛くて、間違いなく、一番幸せだった。
 大好きだったRe:valeが解散してから、抜け殻みたいになっていた時期がずっと続いていたのを知っている。やっと持ち直してきたところで、ホストの噂を知っての今だ。
 あの頃の甘い幸福と興奮を、またこの場所に求めている。全く同じ形ではなかったとしても、それがどれだけ不毛だったとしても。
 今日の姿を目の当たりにして「もう二度と行くな」と、オレからちゃんと言えるだろうか。
 オレが何も言えずにいると、バンさんはもう一度、諭すように口を開いた。
「これは俺の憶測に過ぎないけど」
「……はい」
「彼女が君をここに連れてきたのって、止めて欲しかったからなんじゃないかな。歯止めが効かなくなること、きっと分かってたから」
「……それは、」
 どうだろう。否定も肯定も出来ない。
「だって一人で行くのが不安なら、乗り気な友達とか、それこそ……元Re:valeのファンとか、連れてくるだろうしね」
「……あ、…………」
 何も言い返せず、オレはもう一度、ぎゅうっと拳を握った。
 オレが俯いたのを見届けてから、バンさんはゆっくりと立ち上がる。
 これで終わりだと、言葉なく告げられた気分だった。
「彼女がうちのヤツに飲ませた酒代は勘定に入れてない。シャンパンも一番安いやつに替えて出したから、払えないほどの会計にはなってないと思うよ」
「……あ、ありが」
「お礼なんて言わないで。『これに懲りたらもう来ないで』って、俺は言ってるんだから」
 キッパリと言い切ったバンさんは、じゃあね、と何の未練もなく立ち去った。
 それからすぐに次の卓につき、「遅い!」と怒られて、笑って「ごめんね」と返す。
 ああ。あの人はきっと常連で、バンさんとの時間を、駆け引きを。楽しめる人なんだ。嫉妬心も猜疑心も、たわむれの一つにしてしまえるような、場馴れした大人たち。

 ずっと寝ていた――途中から寝たふりをしていた姉ちゃんが、ぐすぐすと膝の上で泣き始める。
 そりゃね、と思った。泣きたくもなるよね。
 バンさんだって、姉ちゃんが起きてたこと、絶対分かってた。分かっていて、だからあの場でわざわざ「もう来るな」と言葉にしたのだ。
 酷い人だ。そんでもって、恐ろしく優しい人だ。
 だから姉ちゃんは、男を見る目があったってこと。

 オレはなけなしのバイト代を財布から全部出して、店から立ち去った。
 もう、誰の視線も感じない。
 オレたちは、この店の中で、よくある風景の一つになったのだった。


(中略)


 ――だから本当に、その現場に遭遇したのは偶然だった。
 夜が深まり、さらに活気づいたネオン街に再び足を踏み入れたオレは、区役所通りを抜けて最初の交差点を右に曲がったところにあるホスト街をのろのろと歩いていた。
 数年前から条例によって激減したものの、未だ存在するキャッチをスルーしながら、次の角を左に曲がった突き当たりだったよな、と記憶を辿って進んでいく。道を確認しようにも、スマホが無いのでそれすら出来ないのだ。
 どこも店構えがそっくりだし、ちゃんと見つけられるか不安だった。幸い一階だったので入り口は分かりやすいはずだ。ゴールドプレートに店名が刻印されていたような気がする。
 うろうろと視線を彷徨わせつつ進んでいたところで、唐突に耳に飛び込んできたのは、男の罵声だった。
「舐めてんのかコラァ!!」
 ビクッ、と体が揺れて、それからすぐに声のした方に体を向けた。
 狭い路地の間に、複数人の男がたむろしている。見るからに柄の悪そうな男たちの中心に、銀色の髪がチラリと見えた。線の細そうな男が、今この瞬間、目の前で頬を殴りつけられ、地面に倒れた。

 ――マジかよ。

 気づけば駆け出していた脚は、地面を蹴って跳躍し、殴りつけた男の背中を思い切り蹴り飛ばしていた。
 体勢を崩した男が、他の男を巻き込む形で倒れ込む。さっと辺りを見渡せば、銀髪の男は頬を赤くさせながら、突然現れたオレを呆然と見上げていた。
 目が合った瞬間、時が止まった。

 う、わ、人形みたいな顔――……。

 呆気に取られたのと同時に、今度はオレが真横からぶん殴られる。モロに頬に入って、軽い脳震盪を起こしてフラついた。銀髪の男の胸に倒れ込みそうなところを寸前で堪える。男はよろりと立ち上がって、オレの肩を抱くようにして支えてくれた。
 香ったムスクに、くらりとした。
 あ、よく見たら、なんか上等そうなスーツ。この人もカタギではない感じ?
「大丈夫?」
 ああ、声も抜群にいい。耳に馴染む甘ったるい声。この人も、多分ホストだ。しかも、きっとかなりの売れっ子。
「あ、はい、だいじょ……」
 言い切るより前に背後から追撃を喰らう気配を感じて、思わず銀髪の男の手を握った。
「え?」
 握った手をぐっと引いて、了承を得ずに走り出す。脳震盪はとうに治まり、視界はクリアだ。
 しかし、逃げ出してみたはいいものの、銀髪の男――綺麗なお兄さんの動きが、ビックリするほど遅いことに気づく。不思議に思い振り返ると、たった数十メートル走っただけなのに、真っ白な顔が更に蒼白になっていた。
 ウソぉ!?
「お、お兄さん、大丈夫ですか!? まだ走れる!?」
「い、や、無理……」
 マジで死にそうな声に、そういえばこの人殴られてたんだと思い至る。頬以外にもどこか打っていて、酷い怪我をしているのかもしれないし、意識も朦朧としているのかも。そこまで思い至らなかったことを後悔していると、後ろから輩集団が追いかけてくるのが見えた。
 このままでは追いつかれるのは時間の問題と判断し、
「ごめんなさい、ちょっと我慢して!」
 と、言うだけ言って、またしても許可を取らずにお兄さんの腰に腕を回し、持ち上げた。
 頭打ってたりしませんように、揺らしても大丈夫ですように! と殆ど祈るように。
「うわっ、ちょ、え?」
「わ!? お兄さん、軽すぎません!?」
「え……は? ウソだろ、持ち上げるか普通?」
「せ、背に腹は代えられず……!」
 ホストらしき男を、米俵を担ぐみたいにして歌舞伎町を駆け出せば、そりゃ恐ろしく目立つ。多分動画も撮られていたと思う。
 お兄さんはなんかずっと呆けているし、追いかけてくる男たちも全然諦めないし。
 漫画の中でもそう見ない非日常ぶりに、オレは冷や汗をかきつつ、――正直なところ、ワクワクもしていた。
 このお兄さんの方が悪い人だったらどうするんだろうとか、捕まったら二人ともどうなっちゃうんだろうとか。
 そんなことを考えながらも、駆け出した脚は止まらなかった。
 こんなに本気で走ったの、いつぶりか分からない。
 膝に力を込めることが、何故だか全然、怖くなかった。

 暫くして、お兄さんがオレに指示を出し始めた。
「次、右行って」
「え!? あ、は、はい!」
「そしたら、次の角を左」
「はい!」
「そのまま直進して、右手のコンビニの中入ったら突き当たりに出口あるから出て更に左」
「えっ、コンビ……、ッ、あった!」
 大の男二人が訳のわからない格好で駆け抜けたせいで、店員さんが悲鳴を上げてたけど仕方ない。
 輩集団は直前で撒けていたらしく、お店のディスプレイは破壊されずに済んだようだ。

 それから、どれぐらい走ったのだろう。
 息が上がって、脚もガクガクと震え始めていた。いくら軽いと言っても、大人ひとり担いだままかなりの時間走ったのだから当然だった。
 流石に体力に限界を感じ始めてきたところで、お兄さんが「ここでストップ」と告げる。
 ああ、家にでも着いたのかな。それなら良かったけど――と、顔を上げると、そこは。
「……………え?」
「助かった。少し休んでいって」
「え、……え」
「ああ。大丈夫。ここ、僕が働いてる店だから。随分遠回りさせちゃったけど……裏口から入ろう」

『CLUB Vale』

 流石に、空いた口が塞がらない。
 ゴールドプレートに刻印された店名は、間違いなくオレの目的地である、あの店だったから。

   *

 裏口から店内に入ると、廊下を挟んでもう一枚の扉がある。その奥には、バックヤード然とした光景が広がっていた。
「その奥はキッチン、その隣の扉がトイレ」
「あ、は、はい」
 そっか、ホストクラブにもキッチンとかあるんだ。フルーツとか切らなきゃだもんな。目から鱗に思いつつ、鉄製の扉を横目にお兄さんの後ろをついていく。
 そこそこの広さのバックヤードは、一人がけの角型ソファがいくつも並べられ、中央には何の変哲もないテーブルも用意されている。壁沿いにはロッカーが十台以上並び、更にクローゼットらしき棚もあった。
 今はちょうど全員がホールに出払っているらしく、オレとお兄さんしかいない。
 ここで休むのだろうかと思っていると、お兄さんは角にあった扉を開け、そちらに入っていった。
 少し躊躇しつつも、オレも後に続く。
「わ……」
 そこは、今しがた通り過ぎた部屋とは、明らかに作りが違った。部屋の広さはバックヤードの半分ほどしかないものの、店内とほぼ同じ内装で、四人がけのソファがコの字に並べられている。控えめだけれどシャンデリアもついていて、殆ど用をなさないような小さなガラステーブルの上には灰皿。ここが一体、何のための部屋なのか分からなかった。
 お兄さんは慣れた様子でソファに腰掛け、スマホを取り出しメッセージを打ち込んでいる。怪我をしている右頬はそこまで腫れてはいないが、しっかりと赤くなっていた。早めに冷やした方がいいとは思いつつも、誰も寄せ付けないようなヒリついた空気を感じ取り、オレはただ部屋の中央で突っ立ったままでいた。
「あ、あの……」
 何か冷やすもの、と口を開きかけると、オレの存在を思い出したかのようにお兄さんが視線を上げた。
「あれ、なんで立ってるの。座りなよ」
「え、あ」
「早く」
 そう言って指されたのは、お兄さんの隣だった。
 え、そこ? と怯んだものの、言うことを聞いた方がいい気配を感じ取り、恐る恐る座ってみる。
 それから、お兄さんはオレのことを、不思議な生物でも見るみたく、じっと見つめた。
 王様のような、王子様のような、お姫様のような、いっそヒールのような。
 全部の要素を持ち合わせた美しさがある男の人。こんなに綺麗な人を、オレは今までの人生で見たことがなかった。
 薄縹色の瞳を長いまつげが縁取り、顔の中心に真っ直ぐに通った鼻筋が凛とした印象を深める。薄く形のいい唇はしっとりと濡れていて、自分の妙にふかふかしたそれとは大違いだ。
 絹糸のような銀髪にひとふさの白メッシュ。肩より少しだけ長いそれから、ピアスがチラチラと覗いている。
 頬の赤がちっともマイナスにならない、完璧な相貌。
 ……なんていうか、イケメンだ。
 バンさんとはまた全然違うタイプのイケメンは、色白だからとかそういう理由を抜きにして、全体的にあまり温度を感じなかった。
「で、狂犬くん。餌代はいくらあればいい?」
 だから、いきなり問われて、自分の頭がどうかしてしまったのかと思った。本気で。
「…………はい?」
「だから、いくらあればいいのかって。お金。こんなことで大事にしたくないし、助けてもらったし。10万……じゃやすいか。20万ぐらいあればいい? もっと欲しいならちょっと待ってね、あいつに言って……」
「ちょちょ、ちょっと待ってください!!」
 淡々と告げられた言葉に、思わずストップをかける。
 狂犬? 餌代? 20万!?
 何を言ってるんだこの人は。オレが、お金欲しさに人助けをしたと思ってる? 大事にしたくないって、リンチされかけたのは十分一大事じゃないの!?
 ――いや、どんな生活したら、そんな思考になるんだよ!?
「ち、違います! オレ、お金なんて要らないです!」
「……ああ、なるほど。じゃあ、こっちか」
「へ?」
 こっち、とは。
 何かを勝手に納得したお兄さんは、するりとオレの頬に手のひらを添えた。
 見た目通りの冷たい手のひらの感触に驚いて、ピシリと固まる。
 それから自然に顔が近づいてきて――自分の唇に、お兄さんの唇が触れた。
「……!?」
 目を見開いて、お兄さんの肩を掴む。それなのに、そのまま割り入るように入ってきた舌に驚きすぎて、腕が硬直し動かなくなってしまった。
 え、え。オレ、今、何されてる? キス、どころじゃないこと、されてる?
 その隙を狙ったかのように、柔らかい舌がオレの歯を舐める。
「ぅあっ」
 歯の隙間を縫うように更に奥へと侵入した舌は、引っ込んでいたオレの舌を誘い出すように絡めた。
「……ふっ、」
 先端を吸われて、ぶるりと体が震える。
 やばい、なにこれ、こんなの知らない。
 じりじりと体重をかけられ上半身がソファへと倒れ込む。ベッドみたいに体が沈み込んで、その瞬間、この部屋の用途を理解してしまった。
 ヤリ部屋かよぉ……ッ!
 長い舌が慣れた仕草で上顎をくすぐって、綺麗な指先が耳を揉み込むように撫でる。薄縹の瞳がじっとオレを見つめ続けるのに耐えられなくて、たまらずぎゅっと目を閉じた。
 一度唇が離れ、ふ、と笑う気配。
「目、閉じちゃうと、もっと気持ちよくなっちゃうけど。いいの?」
 …………。
 なんか今すんごいエロいこと言われた気がする。
 どんな顔で言ったのか想像することも恐ろしく、より一層、ぎゅううう、と目を閉じた。煽るような言葉への反抗心もあった。お兄さんはもう一度笑って、それからオレの唇を、今度はゆっくり食むようにして触れてくる。
 うわ、うわ、うわうわうわ。
 いつ触れられるか分からない上に、五感の一つが閉じられたことで、触覚が敏感になっている。お兄さんが言ったことは正しかった。
 柔い触れ方がもどかしく感じ「うぅ」とたまらず声が漏れる。
 うわ、やばい、どうしようオレこれ多分勃つ、だってこんな気持ちいいキス今までしたことないもん。知らないもんこんなの。
 お願い。耳、耳は触んないで。顎も、撫でるみたいに触んないで。

「ひっ、はっ……!」
 首、くび、すじ、舐めん、なぁ〜〜〜ッ!

 最後の最後の力を振り絞り、オレはお兄さんの肩を思いっきり突き飛ばした。
 そしたらお兄さんは、びっくりするぐらい簡単に、端っこの方まで吹っ飛んだ。
 そう、吹っ飛んだのだ。
 ああ、そうだ。お兄さん、めちゃくちゃ軽いし死ぬほど弱いんだった!?
 しばし呆然としてから、オレはソファの上で土下座の体勢に入る。
 こんなの、さっきの輩たちと何も変わらない。暴力行為で訴えられる!
「すみません、すみませんすみませんすみません!!!」
 二秒前までのエロかったりヤバかったりする雰囲気は完全に消え失せ、お兄さんはソファの端っこで撃沈したまま動かない。
 どどどどうしよう気絶してたりしたら!? なんのためににこの人助けたんだオレ!?
 茹でダコみたく真っ赤だったであろう顔面が、真っ青通り超して真っ白になっていくのを感じる。
 恐らくこの部屋は〝そういう〟用途に使われるがために防音で、お兄さんがソファの端っこにぶつかった音も、オレの絶叫に近い謝罪もどこにも届いていない。
「だ、誰か…………」
 たすけてぇ……。

 オレの死ぬほど情けない声が、この小さな部屋に響く。
 それを聞いたお兄さんの肩が、ふるふると震え始めた。とりあえず、気絶はしていなかったらしい。
 いやでもこれ、死ぬほど怒――……

「あっはっはっはっはっは!!!」

 ってなかった。
 なんなら、白目を剥いて笑い始めてしまった。

「ぶぁっはっはっは、ひっ、ははっ、ええ!? 力、つっっっっよ……!!」
「ちょ、え、お、お兄さん、その顔は、その顔はヤバいのでは……ッ?」
 イケメンが台無しどころの騒ぎではない。こんなの、このお兄さんのお客さんが見たら百年の恋も冷めてしまうだろう。
「あはっ、いやだって、僕、ぶっ飛んだんだけど……ッ!? あははっ、はー、やっば、体浮いたし……ッ」
「お兄さん……気づいてないかもしれないんですけど、お兄さんは、今、強く頭を打って……多分、おかしくなっちゃった…………」
「あーーーっはっはっ!!!」

 ああ、もう、絶対おかしくなっちゃった……。


 それから、どれくらいの時が経っただろう。
 怖いぐらい笑い続けていたお兄さんは、やっとのことで落ち着いてくれた。
 何度も何度も何度も何度も確認して、頭を打ったせいでおかしくなったわけではないことは、分かった。多分。きっと。
 今度は隣ではなくテーブル越しに対面で座る。お兄さんの爆笑っぷりにすっかり忘れかけていたが、色々な勘違いの元、オレは勃つギリギリのところまでエッチなことをこの人にされたのだ。警戒はしておかねばならない。
 お兄さんが、長い長い脚を組んで、すっかり血の気の通った、物凄く綺麗な顔で笑う。

 うわ。
 うわうわうわ。
「ごめんね、僕、ツボに入ると笑いが止まらなくなっちゃうみたい」
「みたい、というのは……」
「こんなに笑ったの、人生初だったから」
「ええ……?」
 人生初を、オレがお見舞いしてしまったってこと? そんなわけあるかと思う。
 お兄さんの無事は確認出来たのだし、さっさとスマホを回収して帰るべきだと理解した。
 エッチなことをされてしまったことは、抵抗しきれなかったオレにも責任がある。だから全て忘れよう。
 そう思ったのに、お兄さんにその気は全くないようだった。オレがフロントへ向かおうと立ち上がりかけたところで、普通に話しかけられたのがその証拠だ。
「で、なんで僕のこと助けたの? ボランティア精神?」
「……へっ?」
「だって、僕と君、何も関係ないじゃない。その上、お金もらう気も、セックスする気も、ゆする気だって無いんでしょ」
 だから、ボランティアなのかなって。
 さっきも思ったけど。どんな生活をしていれば、そんな思考回路になるんだ。こんなに綺麗なのに、もしかしてスラム育ち?
 殴られている人を見て、自分の腕っぷしにそれなりに自信があったら。助けてしまうこともあるだろう。他人でも。
「えーと……。オレは、人より運動神経がよくて」
「うん」
「結構、喧嘩も強くて。あ、姉ちゃんが割とこう、ストーカーとか遭うタイプで、だから撃退みたいなこともしてたんで」
「へえ。やっぱ狂犬だね」
「……今回のは、明らかに多勢に無勢だって、思ったから……」
「ふふ。血の気多い。そういうの嫌いじゃないけど。……それさ、もし僕が極悪人だったらどうするの? アイツらの女全員寝取った上で孕ませて、そのまま捨てるかもしれないじゃない」
 少し、意地の悪い質問だと思った。けれどオレも、その可能性を考えなかったわけではない。それに、結果としてオレはあの時、あの状況を楽しんでしまっていた節がある。非日常にワクワクして、就活生のくせに後先考えずに行動した。
 だから、あの選択が間違いだったとして。責任は自分にある。
「その場合は、助けたオレが悪いので、オレがあの人たちに謝りに行きます」
「…………ええ?」
 暫く機嫌が良さそうだったお兄さんの顔が、露骨に歪んだ。確かに今のは、我ながら偽善っぽい。かといって、あの状況を楽しんでいたことを伝えるのは違うような気がするのだ。この人は、何がどうあっても大勢に囲まれ殴られていた、被害者なのだから。
 しかし。
「……それって、君の中で僕が〝そういうことしそう〟に見えるってこと?」
「……え?」
「そりゃ、ホストだもん。無理やり迫られてフることはあるよ。でも、それ以上酷いことは、流石にしたことないんだけど……」
 ……あれ、拗ねてる?
 全く想像していなかった方向性の責められ方に、オレは普通に混乱した。
「いや、そうは思ってないです。でも、顔が綺麗すぎるし、行動が突飛だから、誤解されそうだなとは思います」
「言うね」
「す、すみません!!」
「いいよ。……こっちこそごめんね。さっきからずっと困らせてる気がする、命の恩人なのに」
 さっき、というのは多分、キスとかそれ以上の行為のことも含まれている。うっかり思い出してしまって、ボッと顔が赤くなった。
「歌舞伎町来るの、初めて?」
「え、な、なんで?」
「慣れてないなと思って」
 確かに、オレみたいな芋っぽい奴が歌舞伎町をうろついているのは不思議だろう。まさか実の姉がこの店のホストに会いに、ついさっきまで飲んだくれていたなんて、当然知る由もないわけで。
「あ……はい、初めてです。有名なラーメン屋あるってことぐらいしか知らないです」
「あー、凪? 店に連れ込んだ上に手を出した僕が言うのもなんだけど。こんなとこ、子供が来る場所じゃないよ」
 サラリと言われて目を剥く。
 こ…………子供!? ってオレのことッ!?
「ちょ……!! オレ、これでもハタチなんですけど!?」
「え、ウソ。一個違い? ……十七歳ぐらいかと思った」
 本気で驚いていることに驚く。
「だとしたら、あんなエロいこと、ぜっっっっっったいしちゃダメでは……!?」
「うん。だから、二度と来ないように、ビックリさせてやろうと思って。ビックリした?」
「ビックリのレベル超えてるから!!」
 絶叫すると、くつくつと喉元で笑われる。笑った顔が、綺麗で綺麗で可愛くて、もうなんでもいいか、と思わされそうになる。まずい。
 オレってやっぱり、面食いだったの? マジで姉ちゃんのこと、なんにも言えなくない?
「うう……。ホストの人……やっぱこわい……」
 半泣き状態で口から出た言葉を、お兄さんは聞き逃さなかった。
「僕以外に、誰か知ってるの?」
「……知ってます。すっごい優しくて、物腰柔らかで、なんか『お兄さん』って感じの人を……」
 だからこそ残酷で、深みにハマったら人生終わりそうな人を。
「ふーん……。ちなみに、僕もそんな感じのお兄さんだと思うけど」
「何を張り合おうとしてるんですか……?」
 なんならバンさんとこの人は、正反対だ。
 お兄さんは自由奔放で、独特で、自分の思うがままに生き、それ自体がブランドになるタイプだ。
 打算や計算が無いとは言い切れないが、「こう」と決めたら「そう」する人。
 誰にも何にも縛られないでいることが、最も魅力的。
 ……まあ、何も知らないんだけどさ。

 ふう、と息を吐く。強張っていた全身から力が抜けて、だるく、重くなってきた。
 やっと普通の世間話のターンに入ったことで、興奮状態だった体に倦怠感が戻ってきたのだ。
 こんなに長く感じる一日は久々だった。ごく自然に、膝をさする。こいつをこんなに働かせたのも、どれぐらいぶりだろう。
「こういうこと、よくあるの。人を助けたり、乱闘に入ったり」
「乱闘はないですよ!? でも……重そうな荷物持ってあげたりとか、あとはなんだろ、一人で寂しそうにしてる人見てると、気になって……声かけちゃうこととかは、たまにある……かなあ。男の人ばっかりですけどね。女の人はきっと、オレに声かけられるとか、怖いだろうから」
「そっか。なるほどね、生粋の寂しがりやだ」
「……へ?」
 虚を突かれて、間抜けな返事をしてしまう。
 目が合っても、お兄さんはなんてことない顔をしていた。自分が出した答えが当たり前みたいな顔を。
 寂しがりや?
 寂しがりやって、一体、誰の話を――……。
 言葉にならない問いかけを、それでもなんとか形にしようと口を開いたところで、ドンッ、と個室のドアが開いた。無遠慮な音に、全身が飛び跳ねる。
「おい千、外に警察来てるぞ! 今度は一体何をしでかして……、……って」
 扉の向こうから現れた姿は、忘れもしない。
 つい数時間前に別れたばかりの、バンさんその人だった。
「……は?」
 バンさんの目が点になる。そりゃそうだ。オレはしっかり金を払い、姉を支えながらすごすごと帰っていった。その姿を、きっとバンさんも遠目で確認していたはずだ。
 それなのに、何故かまた舞い戻ってきているのだ。恐らく、バンさんと同僚の、ホストの人と。
「も、百くん、だよね……? え? 千と知り合いだったの!?」
 オレの名前を呼んだことで、お兄さんもピクリと反応した。
「は? なに、万。この子のこと知ってるの?」
「し……ってるっていうか、……え? 逆におまえは百くんのこと知らないの?」
 バンさんの混乱はもっともだ。
 しかしオレも。今しがたバンさんが呼んだ名前に、意識が持っていかれていた。
 そういえば、お兄さんの名前、教えてもらってなかったな、とか。
 顔と名前、ピッタリだな、とか。

「千、って」

 Re:valeの片割れの、顔面と引き換えに性格が終わってる人?


(中略)

■2018年8月②

 正直に言えば。
 モモの登場は、僕にとって運命的でもなければさほど劇的でもなかった。

 だって音楽に見放され、女のヒモになって死ぬか、ただ死ぬかの二択しか存在しなかった僕に、無理矢理居場所を与えたのは万だ。
 とっくの昔に特別だった万は、とっくの昔に唯一無二。万との出会いにはしっかりと運命的なものを感じていたから、それに比べれば、よくある物語の導入のひとつに過ぎないと思っていた。
 殴られてるところを助けてもらうような出会い。まあ、なくはないか。程度の感慨。
 それはすなわち、あの頃はそれほどまでに僕の心が冷え切っていたということだ。
 普通に考えてみろ。あんなヤバい集団に囲まれた、どこの馬の骨とも知らぬ男を、勝算も打算もなく助ける善人がいるか? 否、いない。少なくとも、万はしない。先に周りに声をかけて助けを求めるか、警察を呼ぶタイプだから。
 彼はモモと名乗った。顔にお似合うの、可愛い名前だ。性善説を信じたいタイプで、超がつくお人好し。そんな彼は、どちらかというと苦手なタイプですらあった。
 お子様がこんな場所をほっつき歩いてたらいけないよ、という意味でキスをした。
 と、モモや万には伝えたけれど。それは全くの嘘八百で、僕はあの時、単純にむしゃくしゃしていた。正直に言おう。完全に八つ当たりだった。
 いつフッたかも知らない、店に通っていた元客。その女に金で雇われた、ヤクザの下っ端集団が昨日の男たちだ。
 あいつら僕のことなんかひとつも知らないくせに、上に命令されたからという理由で、平気でリンチが出来るのだ。世の中は結局金と権力。僕の仕事も大別してしまえば同じくくりに入るのかと思うと、色んなことが途端にくだらなく感じた。
 仕事着はクリーニングに出さなきゃいけなくなり、頬はズキズキと痛むし、知らない子供に走らされてヘトヘトでもあった。
 ならば。少しぐらいの意地悪はさせてもらわなきゃ、腹の虫が治らなかった、というわけだ。
 その相手が、命の恩人ということは置いといて。
 ……どう考えても、一番置いといちゃいけないんだけど。

 けれどモモは、僕が他者になかなか理解してもらえないノリだとか、そういうものをすんなりと理解してくれる子でもあった。
 何より、この僕を、しっかりぶっ飛ばせるような男だったのだ。仮にも命からがら助けた相手を、あんな風に扱えるなんて、愉快すぎやしないか。力加減を見誤ってしまう子。器用そうで、案外そうでもないのかもしれない。
 彼にろくでもないことをした報いがあっという間に訪れて、色んな意味で死ぬほど笑った。
 お腹が捩れて、壊れてしまうかと思った。

 それから。少し話すうち、彼はひどく孤独で、寂しがりやなのだと理解した。
 誰彼かまわず優しくしてしまえるから、僕みたいなやつまで助けてしまう。そしてその責任を、勝手に負おうとするのだ。
 普通に考えて、僕が輩に殴られていることは僕の問題であって、モモには関係のないことなのに。そこに、唐突に関与しようとする。
 けれどそれ自体が、彼の寂しさで、孤独を埋める方法なのだった。
 孤独な者同士は、自然と共鳴する。
 だからホストという職業がここまで確立していることを、モモはまったく、知らないようだった。
 彼に彼自身の寂しさを指摘した時、ひどく驚いていたことが無知の証左であるように。
 いい子だし、可愛いし、親しみもある。そして何より、寂しがり。なのに、いつも相手にしている客ほど従順ではないところが、面白い。
 僕は一気に、興味を惹かれた。
 変な子。面白い子。もう少し、話を聞いてみたい。最初は本当にそれだけだった。
 勿論助けてもらったお礼をしたかったのも本心だ。だから、一度だけご飯に誘った。
 それは僕にとってあまりに自然な流れで、だから万に報告した時、驚愕されたことをよく覚えている。

 ――よくよく考えて、今までの人生。
 能動的に誰かを食事に誘ったことが一度もなかったことに、指摘されてから気づいた。

   *

「このお肉、何の肉ですか……? 夢……?」
「本当に? よかった。僕も好きなんだ、ここ」
 肉は食べたことないけど。あと、夢の肉じゃなくて、牛の肉だとは思うけど。

 あれから二週間。お礼を兼ねた食事会は終始和やかに進んでいる。
 あまり高い店だと百くんが萎縮するぞ、という万の助言もあって、高くも安くのない普通の洋食屋を選んだ。僕はサラダや焼き野菜を食べられれば十分だったので、モモにはひたすら肉を食べさせている。
 いいんですか、野菜だけで大丈夫ですか、オレマジでいっぱい食べちゃうんですけど、持ち合わせ少ないんですけど!!
 そんなことを言いながらも、モモは勝手に運ばれてくる肉をとんでもないペースで腹におさめていく。
 元運動部であることが頷ける、健全な男子そのものみたいな食べっぷりが楽しかった。安心して欲しいが、当然ながら僕の奢りだ。

 だから翌月は、鍋に誘った。
 激安食べ放題店にしか行ったことがないと言っていたので、少しだけ高い店にしてみる。
 すると、肉を一口つまんだモモが、真ん丸な目をコロリと落としてしまいそうなほど見開いて「人生で一番美味しい鍋です!!」なんて大袈裟なことを言ったのだから驚いた。
 食べさせ甲斐が、ありすぎるだろ。死ぬほど可愛がられそうな子だなと、感心してしまう。
 肉の味が染み出した出汁は食べれないので、鍋を分けてもらって煮野菜をひたすら口に運ぶ。野菜も新鮮で美味しくはあるが、モモにここまで喜んでもらえたなら、誘ってよかったと純粋に思えた。
 ぽんぽんと弾む会話も、楽しい。
 なんだか僕の方が接待されているかもしれないと気づいて、リベンジも兼ねて次の機会も設けることにした。

 だから次は、バーに誘った。
 モモが童顔すぎるから、行きつけのバーのマスターがびっくりして、年齢確認をしようとしたので笑ってしまった。
 そしたら、僕の笑顔を見たことに更に驚愕して、腰を抜かしそうになっていた。いや、そこまでは大袈裟すぎない? 曰く、営業でもピクリとも笑わない男が、何故。ということらしい。何故って。モモが可愛いからじゃないか? 普通に。
 彼がお酒を嗜める年齢でよかった。意外にも、一番飲みやすいのはハイボールらしい。
 十代にしか見えないような幼気な見た目と、ハイボール。チグハグなんだけどそれが愉快で「いつか試したい」と名前を挙げた酒を、折角なので一度で全部飲ませてやった。
 結果。
 当然ベロベロに酔っ払ったモモは、過去の話をぽつぽつとし始めた。
 バーカウンターで横並びなりながら、半分突っ伏すような姿勢。回りにくくなった呂律は喋りづらそうで、それすら可愛いと思えた。
 お姉さんがRe:valeの追っかけをしていたことも、そこで知った。珍しいことではないので、驚きは薄い。
「じゃあ僕のアイドル時代、知ってるの?」
「……Re:valeの片割れで、顔面と引き換えに性格が終わってる、って……」
「おい。反論はないけど、本人の前で言うか? それ……」
 誰に言われても何も思わないが、モモに言われるのは別だ。
 え、今は終わってないよね? モモにだけは大丈夫だよね? と確認したくなって、喉元まで出かかったそれを飲み込む。どうせ聞いたところで、答えは分かっていたから。モモは気遣いの鬼だ。
「ライブは? 来たことある?」
「いや、おれは……全部、ことわってたから」
「まあそうか。男二人ユニットで、地下ドルだったしね」
「うーん……ていうか、サッカーしか、なかった」
「へえ。やってたんだ。似合うね」
「うん。キャプテン」
「キャプテン。凄いね、あだ名で呼びたいやつ。あ、でもモモは狂犬くんか」
「ふふ……。でももう、ぜんぶ終わっちゃった〜」
 へらりと笑う顔が痛ましくて、愛おしかった。
 彼の孤独の理由をそこに見た気がしたから。
 なるほどね。大事なものを失くしちゃったんだ。彼が膝に触れる癖があることは割と最初から気づいていたので、あっさり納得する。怪我から始まり、リハビリがあって、きっと心は、折れてしまった。僕の予想でしかないけれど。
「同じだね」
 モモくんが、ふわりと顔を持ち上げる。酩酊して、首まで赤く染まった表情は、あどけない魅力があった。
「……ユキさんは、何が終わっちゃったの?」
「音楽」
「……なくなんないやつじゃん?」
「サッカーだってなくならないよ。今日もどこかで、誰かが玉を蹴ってる」
「……そういうことじゃ、ないもん……」
 拗ねるような物言いに、くつくつと喉が鳴った。そうだね。
「うん。だから、そういうことじゃなかったんだよね」
「そっか……。そうだね……」
 失くなっちゃったねえ。うん。でも、フツーに生きてるね。そうね。
「オレはでも、Re:valeの曲、あれ、好きだったよ。あの、…………」
 とても良いところで、モモが寝息を立て始める。
 続きを教えてよ。そう揺り起こすことも出来たけれど、今の僕にはその勇気も気力もなかった。過去をどれだけ称賛されたところで、終わってしまったことに変わりはないから。
 モモにあれやこれと飲ませているうちに、僕も相当酔ってしまったらしい。
 言わなくていいことを言った気がして、けれど口に出来たことでどこか、胸がすいた心地もあった。

 こんな風に、失くしたものの話を出来る相手がいること。
 そこでやっと、この出会いは運命的なものであるような気がしたのだった。

 それから僕は、出勤前にモモを呼び出すことが定番になった。
 出来る限りの時間を一緒に過ごしたい。
 だって君は、僕の友達。初めて万以外に出来た、大事な人。
 そう伝えたことは、思えば一度も無かったかもしれない。
 ――言わなくたって分かるだろうと、その時は当たり前に、信じていたから。



■2018年11月

 モモの誕生日を控え、僕は非常に浮かれていた。
「……え? 今日って……オレの誕生日祝いのご飯じゃなかったっけ……?」
「ご飯も勿論食べるけど。ちょっと付き合って欲しいところがあって」
 モモが動揺するのも無理はなかった。
 普段新宿で待ち合わせるところを銀座にした時点で構えられていたのに、連れられたのがトップメゾンの店前というのは、本人からすれば寝耳に水だろう。
 今日はイギリス本国からフッターが来日するタイミングで、スーツを新調するには丁度良かったのだ。事前に伝えたら逃げられそうだったので、これはある意味サプライズだった。
「モモ好みのスーツを作りたくて」
「お、オレ好み!? なんで!? ユキが着たいのを作りなよ……!」
「モモが僕のお気に入りだから。あと、面食いってセンスいいじゃない?」
「いやいやいや。オレの服、見て!? 普通のTシャツだよ!? ……焼き肉だと思ってたから……」
「ふふ。桃のマーク、似合ってるし可愛いよ。焼き肉もちゃんと行くんだからそれでいいんじゃない」
 故に僕も今日は私服だ。モモは「まぶしっ」と目をぎゅっとしていたが、正直金額以外は何の変哲もないシャツにスキニーだ。替えのスーツは店に置いてあるので、手ぶらだった。
「よくない、ぜんっぜんよくない! ああもう、もっと警戒しとくんだったぁ〜〜……銀座とか、初めて来たのに……」
 僕は頭を抱えるモモの手を引いて、意気揚々と店内へ向かった。
 既に予約は済んでいる。フィッティングから生地選びまでの流れは、流石と言う他ないほどスムーズだった。そしてその全ての工程で、モモに意見を求めた。
 色はどれがいいと思う、生地の触り心地は? 僕に似合うシルエットを教えて。
 始めこそ遠慮がちだったモモも、次第に一から作り上げていく作業というものを楽しみ始めた。この順応性の高さは、モモの美点の一つだった。オレ、何にも分かんないんですけど、と前置くところも好感度が高く、テイラーも笑顔を心からの笑顔で対応している。
「ネイビーって定番だけどさ、やっぱりユキは白だと思う」「でも、パーン! って真っ白なんじゃなくてさ、オフホワイトの方が、肌の白さが際立つ感じがするよね!?」「いやでも、黒も、絶対に似合う……ユキ、肌真っ白で超綺麗だもん。うわ、やばい、どうしよう、迷う……」
 この時間。モモの頭の中は僕でいっぱいだと思うと、なんとも言えない甘美な気持ちになった。
 変なの。まだ出会ってそう経っていない子に、僕はすっかり夢中になっていた。

 スリーピースのフルオーダーは当然三桁万円を超える。
 モモは何も知らずに、あれもこれもと注文をつけていく。担当のテイラーはその道のプロだ。普通金額面で躊躇してしまうような提案に目を白黒させるようなこともない。全てを受け入れつつ、新たな提案もしていく。
 僕はモモとテイラーの、全ての提案に素直に従った。モモが僕のために作るスーツだ。そこに妥協は必要ない。
 改めて全身のサイズ測定をして、この日は終わり。完成品が届くのは約一ヶ月後に決まった。
 メゾンを後にして、僕は心の底からの至福を感じていた。大事な部分が、ぬるま湯でゆっくりと満たされていくような心地。
 いいものが出来てるといいなあ、とモモも完成を心待ちにするように笑っていた。


「ちょうど一ヶ月後ってことはさ、ユキのバースデーイベント? ってやつに間に合うね」
 だから、個室の焼肉屋で肉をつつきながらそんなこと言われて、本気で驚いたのだ。
「それ、モモが店に来るってこと? バーイベ、大分賑やかどころかうるさいけど」
「えっ、なんで!? そんな怖いイベント、素人が行けないよ……!」
「モモのために作ったスーツだよ? なんで有象無象の前で最初にお披露目しなきゃいけないの」
「え、いや、あれ、そうなの? そういうもん……?」
 高いスーツにはお披露目の場があるものなの……? と、顔を青くさせたモモは、面白いけれど。
「あれは君が僕に選んだものだよ。最初に見てほしいのは、モモなんだけど。……モモは、見たくないの?」
「……いや、はい。見たい、デス……」
 観念したように、躑躅色の瞳が上目遣いで僕を見る。
 ――うわ。めちゃくちゃ可愛い。それ、誰にでも見せてるんだとしたら、罪だな。
 対面にモモがいることが、これほどもどかしいことはなかった。
 隣に座っていたら、脇目も振らず抱きしめていたかもしれない。
 湧き上がる衝動を、膝の上で拳を握ることで抑え込み、僕は「上出来」と、平静を装い笑った。

 肉をしこたま食べさせたあとは、折角だし、とパーティープレートを用意してもらった。
 少し早いけれど、ハッピーバースデーと書かれたバカみたいに豪勢なフルーツの盛り合わせと高価なシャンパンは、意外なほどモモを喜ばせることが出来た。物の値段より、その行為自体が嬉しいのだという。
「ユキ、ありがとお……」
「どういたしまして」
 まだ一つも穴があいていないことを、知っていながら、プレゼントにはピアスを渡した。
 それも平気で喜ぶのだから、モモはもしかしたら、誰よりも危険人物かもしれない。
「ずっとピアスあけるか迷っててさ。やっと決心ついた!」
「そっか。つけてるところ見るの、楽しみにしてるね」
「うん!」

 ――例えば、僕ではない誰かにもらったとしても。きっとモモは喜んで穴をあけていただろう。
 そんなのは、嫌だと思った。

   *

 その日の夜。
 モモとの食事のあとに通常通り出勤し、仕事を終えて自宅のベッドに転がる。
 香水の匂いが全身にまとわり付いているので、普段はすぐにシャワーを浴びるものの、その気力すらなかった。
 出勤してすぐ備え付けのシャワーを使って体を洗ってしまったため、モモと過ごした時間の証はとっくに消えている。焼き肉の匂いをべったりつけて接客なんて、そりゃあり得ないと分かっているけれど、ひどく勿体なく感じた。
 潤んだ瞳。ありがとうと感激する顔。薄く色づいた頬。順番に、モモの輪郭を思い出す。
 自然と下半身に手が伸びて、スラックスの前をほつれさせた。
 バンド自体は性欲魔神だのと呼ばれていた自分も、音楽の道を外れてからは随分とご無沙汰だった。孤独や寂しさを、早急に埋めなければいけない必要がなくなってしまったから。溜まった時は適当に処理して、動画の用意すらしない。
 それが今、頭の中では、モモのことでいっぱいになっている。
 大きな口をあけて笑うとチラつく犬歯、光を集めきらきらと輝く瞳。時々、僕の機嫌をうかがうように向けられる、上目遣い。
 八つ当たりでしかけたキスは、一体どんな感触だったっけ。舐めた首筋。もっと味わっておくべきだったと、後悔しているのは何故だ。
 ボクサーパンツの中に指を滑り込ませ、既に硬くなりつつあったそこに触れる。目を瞑って、モモに触れられていることを想像した。
 男のものに触ることは慣れていなさそうだから、敢えて拙い手付きを再現する。
 硬くなったそこを前に、びっくりして目を見開いて、それでも僕を喜ばせるために、恐る恐る口を開くだろうか。
 あの大きな口にぱくりと咥えられたら、どれほど気持ちいいだろう。
 苦しそうに目を細め、息も絶え絶えに必死に舐めあげる姿は不思議と違和感がなかった。むしろ似合いで、口の周りを唾液でベトベトにしているところまで想像は及ぶ。それを、僕が舌で舐め取り、唇を食んで味わうのだ。
 モモの手が、僕の竿を力加減も分からず扱いた。
 それだけ、僕はイッてしまった。

「っ……は、……ぁ、………」

 ――モモで、抜いたな。今。
 途端に訪れる賢者タイム。汚れた手のひらをさっさとティッシュで拭いて、けれど頭はあまり、スッキリしていなかった。
 妄想はあくまで妄想だ。
 僕はこれを、現実にしたいんだろう。そう、気づいてしまったから。

 折角出来た友達なのに。なんていう罪悪感は、残念ながら全くなかった。なんなら、納得した。
 そうか、僕はモモが気に入っているどころか。殊更特別で、好きなんだなと。
 告ってもよかったけれど。モモは怖がって逃げてしまう可能性の方が高かった。

 で、あるなら。
 よき友人、特別な人。その枠のまま、たまにこうして妄想の中で手伝ってもらおうと、僕はその時あっさりと決めてしまった。




<続く>

LOST IN PARADISE