夜半、一人では用も足せない子供の手を引いては、ため息を飲み込む。
 暗闇が恐ろしいのだと言って私の部屋にやってきては「一緒に行ってくれ」と頼むのがこの子供――エーテルネーアの夜の日課だった。
 はじめこそ「一人で行け」とあしらっていたが、一人で行けずに我慢した挙げ句〝お漏らし〟をするようになり、その責任を私が追求された結果、こんなお守りをするに至った。当然、納得はしていない。
 だって私達は六歳で、同い年だ。安眠を妨害されることも腹立たしいが、アークに於ける最高権威を持つ人間の息子がこんな体たらくでどうする、という純粋な怒りもあった。
 現教皇は、実の息子であるエーテルネーアにひたすらに甘く、蝶よ花よと育てている。
 故に甘ったれで、詰めが甘く、その辺の虫よりも生命力に乏しい状態で成長したのが、この子供だ。その皺寄せが全て私に降りかかるのは、いささか暴力的ではないだろうか?
 それなのに将来、枢機卿としてエーテルネーアに仕え、共に天子を育てていくことが決まっているのだ。それがどれほど憂鬱であるかは、語るに及ばない。

 寝室を出ると一切の明かりは無く、蝋燭を灯した手燭を掲げながら進むしかなかった。
 恐怖からか、服の裾をぎゅっと握られ、そのせいで背中に布が擦れてギクリとした。痛い。
 厳格そのもののような現枢機卿である実父は、躾の為に鞭を振るう人だった。何かひとつ間違いを犯す度、背中にはいくつもの裂傷が生まれ、痕になっては新しい傷で上書きされていく。完治することはなく、膿んでぐしゅぐしゅになっている部分にはガーゼを当ててやり過ごしていた。侍女達は見て見ぬ振りをして、私が要求する通りにガーゼと傷薬を用意するだけだ。
 時折、着替え中にエーテルネーアが部屋に入ってくることがあり、背中の凄惨な様子に震え上がることもしばしばだった。
 それを知っているくせに、こうして裾を握る気の利かなさに更に腹が立つ。
 お前が甘ったれなせいでついた傷も無数にあることを、本当は言ってやりたかった。
 言えなかった。鞭で叩かれるのは、痛いから。


 私がお前に生まれていれば、こんな思いもしないで済んだ。
 お前が私の教育係であり、お守役であれば。そんなものは必要ないと跳ね除けられたのに。それも叶わない。
 何故なら私こそが未来の枢機卿ミゼリコルドで――お前こそが未来の教皇、エーテルネーアだからだ。


 子供の用足しが終わり、月明かりが照らす帰路を二人で手を繋ぎ――正確には、握られて――歩く。
 第三庭園と第四庭園を繋ぐ渡り廊下を通り抜けようとして、ふと足を止めた。
 教会近くに建てられた司祭館は教会の五倍の敷地面積を誇り、関係者全ての住居として機能している。
 この渡り廊下は〝橋〟と言うべき長大さで、渡り切るのに数分を要した。橋ゆえに窓はなく、腰辺りまである石壁を超えてしまえば、地上五階にあたる高さから真っ逆さまだ。作りが甘い為、ところどころ床と壁の間に隙間もある。
 人が死ぬには丁度いい高さで、だからエーテルネーアは、ここを通ることすら恐ろしいのだという。
 馬鹿馬鹿しいと、心底思う。意思をもってこの壁を超えない限り、死ぬことは無いのに。
 瞬きを三回。エーテルネーアも釣られるようにしてそちらを見る。
 遠くに見える街は真夜中でも明るく、天子の奇跡――と、伝えられているだけの、『限りある資源』は強い輝きを放っていた。等間隔の光の集合体、完璧な秩序。その中のたった一つの光を三秒消すだけで、下界の生物がどれだけ生きられるかを知っている。
 知っていて「だからどうした」と思う。
 アークの発展を前に、下界はただの栄養源に過ぎない。天子という呪術兵器を抑止及び攻撃力として下界から資源を奪い、アーク市民が求める安寧を与え、ナーヴ教会の教えのもとにこの国は平穏無事を保っている。
 例えばユニティーオーダーの活躍をとんと聞かないのは、この国が平和である証左なのだと、父も満足そうに言っていた。
 ふと、エーテルネーアの横顔を盗み見る。瞳の中には無数の光が宿っていて、それはそれは美しかった。それは下界生物の死でしか得られない輝きだ。
 蝶よ花よと育てられた、甘ったれの子供が無垢に光らせるからこそ、いっとう綺麗であることも、知っている。
 理解していないわけじゃないのに、罪悪感すら抱いていない――その残酷な様子にわずかに心が躍る。
 馬鹿なやつ。愚かなやつ。お前が何も感じないようにしているうちに、下界生物はバタバタ死んでいく。そうしてあと数年すれば、きっとこいつは、苛まれる。
 自分の無知を、無垢を、薄情を、愚蒙を、全て理解して苦しむだろう。
 真夜中に起こされる苛立ちに、それでやっと溜飲を下げた。
 くい、とローブの袖が引かれて、見ればエーテルネーアが不安そうに瞳を潤ませていた。
「……ミゼリ、もう帰ろう。ここは、怖いよ……」
 何が怖いというのだろう。信徒達の命の煌きそのものであるというのに。
 応えるように、手燭に火を再び灯す。
 外では常にささやかな風が吹いているせいで、すぐでも消えてしまいそうだった。
「すまない。帰ろうか、ネーア」
 私が微笑めば、君は花が咲いたように笑う。
 こんな風に呼ぶことだって、いつか無くなる。



   ✦✦✦


 教会関係者とナーヴの信徒に刻まれる〝聖印〟は、特に天子の傍にいる者には必ず刻まなければならない。
『急所に近ければ近いほど天子の加護を受けられる』
 ――その伝承は未だ市民に根強く支持され、特に喉の側面は痛みが激しい分、恩恵を受けやすいと信じられていた。
 無論、どんな場所に入れようが聖印の加護は一つしかない。
 天子の呪いに影響を受けない、それだけだ。

 十歳の年の頃に行われる儀式は、エーテルネーアの方が三日ほど早かった。
 弱虫はこの歳になっても弱虫のままで、急所を避けて手の甲に施したというのだから鼻白む。
 誰よりも痛みを恐れる男だ。さもありなん、と納得すると共に、意気地なし、と胸の内で毒づいた。
 私は当然、喉元を差し出した。
 偽りの信仰は武器となる。誰から見ても完璧な忠誠を天子に誓おう。

 結果、三日三晩高熱に魘され、その間エーテルネーアはけろりとしていたのだが。
 その代わり、私につきっきりで看病していたらしい。有り難いことにその記憶は殆どなく、時折頭を撫でる手のひらの感触があったような気がするという、それだけ。
 両親が見舞いに来るわけもないので、まず間違いなくエーテルネーアが犯人だろう。
 自分が親にそうされて、落ち着くからやってみた、だとか。どうせそんな言い訳を並べるに違いないと、全て知らないふりをした。

 熱が下がり、日常に戻って尚、聖印がじくじくと熱を持って痛む。
 一度入れたら決して消えることはなく、呪術の影響を受けない代わり、細胞から作り変えられてしまう。それは間違いなく〝呪い〟の一種であることを、私だけが理解していた。
 望まぬ呪いを持って生まれた子供と、自ら呪われにいく子供。何も知らなければ悲惨さは同程度で、自分に与えられた幸福に感謝した。
 はじめから全て知っていれば、恐ろしいことなど一つもないのだ。

 加護だなんだと騒ぐ市民を、それでも私は愛おしいと思う。
 市民も、天子も。
 それが赤子だろうが老婆だろうが、アークの民は等しく私の子供だから。


 初めて下界に降りたのは、熱が下がってからすぐだった。
 荒廃し、腐った死体の匂いが蔓延する下界に脚を踏み入れた瞬間、エーテルネーアが嘔吐したのは最低の思い出だ。
 教皇や父の目を気にして、後始末は私がした。背中をさすり、水を飲ませ、優しい言葉をかける。涙声で謝る姿に「大丈夫ですよ」と囁き、手を引いてゆっくりと歩いた。
 ユニティーオーダーが脇を固め、臨戦態勢を解かないでいる。その様子にさえエーテルネーアは怯えきっていた。示しが付きませんよと言っても、体の震えは止まらない。腹が立って、握っていた手のひらにきつく力を込めると「痛いよ……」とか細い声でまた泣かれる。
 何故、こんな奴が、私の上に立つのだろう。
 干からびた大地を踏みしめる度に砂埃が舞い、目に染みてかなわない。涙が出そうになり目を眇め、喉に粉塵が絡みつかないように、ナフキンで口元を隠した。
 臭い。汚い。汚らわしい。アークの民に、同じ思いをさせるわけにはいかない。こんなところ、人間が暮らせる場所ではないのだ。
 下界に住まう生物はだから皆、私にとっては『虫』だった。
 ぐい、と裾を引っ張られる。立ち止まって欲しい、という合図だった。
「……、どうなさいました、エーテルネーア様」
「すまない、もう少し、ゆっくり……」
 そしてまた嘔吐。足元に落ちた吐瀉物を暫く眺めてから、適当に土に埋めていく。大地からすれば、この吐瀉物すら栄養だろう。誰かに差し出してやったっていい。
「ミゼルコルド、ごめん、……ごめんなさい……」
 弱くて、無知で、期待に応えられなくて、ごめんなさい。
 みなまで口にせずとも、そう言いたいことは分かった。背中をひとなでして、落ち着かせる。
 優しさなどではなく、ここで立ち止まっていては敵の格好の餌食になってしまうという、それだけだ。
 真っ青な顔、乾いた唇、涙でにじむ瞳。腐臭だけではこうはなるまい。
 こいつは今やっと、自分の無知を、無垢を、薄情を、愚蒙を、全て理解して苦しんでいる。

 それなのに、何故だろう。
 期待していたほど、面白くはなかった。



<続く>

じあい